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まじめな教育論

2006/06/29
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カテゴリ:まじめな教育論
誰かがTVで、これからはどんどん生徒の学力低下が進んで、先生方も学力が低い子相手に授業がやりにくくなるでしょうねえと発言していたのを耳にはさんだが、私はそんな危惧はしていない。

だって、これからますます学力低下が進めば、子供の学力が徐々に下がってゆくのに比例して、教える側の学力も一緒につられて下がってゆく。
学力低下した子供が大人になれば、学力の低い教師や大学教授になるのは道理だ。

教師のレベルが高過ぎて、「こんなアホなガキ相手にやってらんねえや!」という事態は起こらない。教師もつられて学力低下しているからだ。

学力の低い教師が、学力が低い生徒を教える学力低下スパイラル。授業がやりにくくなるなんて、危惧することなんかないのだ。






Last updated  2006/12/06 03:26:48 PM


2006/06/28
カテゴリ:まじめな教育論
保健体育という科目の、通知表の評価がよくわからない。

私が高校1年生の時、体育のカリキュラムは、1学期はバスケッットボール、2学期は陸上(走り幅跳び)、3学期は柔道と、くっきり分かれていた。

私は高1の時、非常に太っていた。

1学期のバスケは、コートをぶよぶよした体躯を持て余してうようよしているだけ。時々相手に体当たりして、反則取られ周囲の顰蹙かっていた。

2学期の走り幅跳びは最悪。ドタドタ走って砂場にドテンと尻餅をついた。

3学期の柔道は、技の切れ味は全くないけど、巨体なので投げられることは絶対になかった。最強だった。

しかし通知表の評価は10段階で全学期とも6。
自己評価ではバスケが4、走り幅跳びが5、柔道が8なんだけど・・・
なんだか、凄くいい加減な評価だったような気がする。
もしマイケル・ジョーダンやカール・ルイスや小川直也が生徒でも、全学期同じ評価をするのだろうか?

塾生の通知表でも、怪しい評価はある。
バレー部レギュラーなのに、体育がバレーで5点満点で3とか、結構ひどい評価だと思うヨ。
一度「こいつは体育は3」とイメージが付いちゃったら、先生が変わるまで3のままなのかしらね。






Last updated  2006/06/28 11:53:14 PM
カテゴリ:まじめな教育論
うちの子猫は、鶏のささみとチーズと鰹節が好物で、1日5食もするので身体が結構大きくなった。子猫と成猫の中間ぐらいの大きさになり、とにかくよく食べよく動きよく太る。

子供がいない私にとって、小さい生命体が食料を得ることで、日に日に身体が大きくなる体験は新鮮だ。
猫の身体が大きくなると、猫は私が稼いだ金で買った食べ物で大きくなり、私がいなければ猫は餓死していたかもしれないという、妙な実感が生まれてくる。
「こいつの身体は俺が大きくしてやったんだ」と偉そうなことを思ってしまう。

心の成長は目ではあまり確かめられないが、体の成長は一目でわかる。子猫の身体の成長は子猫の可愛らしさが失われることでもあり微妙に残念だが、やはり嬉しい。

ところで、私のような塾講師や学校教師は、子供の心や学力の成長には関わっているかもしれないが、身体の成長には全く関係がない。塾講師と一緒にいても、子どもの身体はデカくなったりしない。
自習室の休憩時間におごったラーメンぐらいしか、塾の講師は子供の身体の成長には寄与していない。

だからこそ、子が無い塾講師の私は、猫の身体の成長を新鮮に感じたのだろう。
とにかく、塾講師は専ら子供のBODYではなく、SOULを成長させる役割を与えられているのだなと、大きくなった子猫を見てつくづく思った。

ところで、親は自分の子供に対して、私が子猫に感じたような「この子の身体は私が大きくした」という気持ちを持っているのだろうか? 
身体が大きくなった子供と喧嘩した時に親が、「誰のおかげで大きくなったんだ!」と怒鳴る気持ちが、子猫を育てていて非常によくわかった。






Last updated  2006/06/28 07:43:13 PM
2006/06/26
カテゴリ:まじめな教育論
父親が子供に勉強を教えるというのは、どういうことなのか?
中学受験期の子供に勉強を教えている「お父さん家庭教師」は、かなりの数にのぼるだろう。

しかし子供が成長するにつれて、だんだん父親は子供に勉強を教えなくなる。教えられなくなる。

その理由の第1は、父親の学力にある。
難関中学の算数は難しいから、父親が問題を解けなくなる。

小6ぐらいになってくると、子供に「お父さん、この問題教えて」と質問されても、お父さんは30分も1時間も頭をひねるだけで、問題が解けない。
その間子供は黙ってお父さんが難問と格闘する姿を見ている。お父さんは子供の視線が拷問プレッシャーになり、ますます解けない。

難問にイラつき、「こんなもん自分で解け!」と逆ギレするお父さんの気持ちもわかる。

難関中学の算数の問題は年々難化しているから、子供時代に中学受験を経験したお父さんでも歯が立たない問題は多いし、また自分の受験時代には存在しなかった面積図が理解できないから、教え方は自然と我流になり、しかも「方程式なら解けるんだけどね」と突如方程式が登場したりして子供は戸惑う。

そんな状況が何度も続くと、子供はお父さんの学力と教え方に限界を感じて質問に来なくなるし、お父さんも子供に勉強を教えることに自信を無くす。
子供に勉強を教える作業は、専門職集団である塾に丸投げする。
かくして、父親が子供に勉強を教える「お父さん家庭教師」は自然消滅する。

「お父さん家庭教師」が自然消滅する第2の理由は、父親の多忙のせいだ。
特にサラリーマンのお父さんは帰宅が遅く時間的余裕がないし、せっかくの土日は子供の通塾日に重なるケースが多い。

小4ぐらいまでは子供に「ちょっと算数教えて」と質問されても瞬時に答えることができるが、小6の子に本格的に勉強を教えるとなると、しっかりした予習が必要だ。一旦教える決意をしたら腹を括らなければならない。

塾のプロ講師ですら綿密な予習をして授業に臨むのだから、素人のお父さんが難関中学の問題を生半可に教えることは難しいのが現実だ。本格的に教えるには膨大な時間と執念がいる。

でも、たった1~2問ぐらい算数の質問に答えるぐらいは時間的に楽だと思われるかもしれないが、子供は自分が解けないから質問に来るのであって、必然的に質問される問題は強烈な難問になる。
お父さんは仕事から帰って来たら突然、進学塾のテキストで選りすぐりの難問を子供から「わからん」と質問される。パパっと解いて鮮やかに説明できる父親は少ないだろう。
たった1~2問だからといって、ナメてはならない。

予習した範囲を授業形式で教えるのは易しい。逆に、突然子供が持って来た難問を解くのは難しい。サーブを打つより受けるほうが格段に難しいのと同じことだ。持ち込まれた難問に答えるには深い学力が必要で、塾のベテラン塾講師並みに中学受験に知悉していなければならない。

だから子供に勉強を教えることのできる父親は、時間に融通が利き予習時間や過去問研究の時間が取れる自営業の人か、あるいは予習しなくても教える能力がある医者か官僚か弁護士か大学教授のような高い学力を持つ人か、或いは本職の塾講師という場合に限られる。

「お父さん家庭教師」が長続きしない第3の理由は、反抗期思春期の子供に反抗されるからだ。
10歳を超えれば、父親と子供はN極とN極、S極とS極といった具合に反発し合うのが普通ではないか。親子がベタベタの蜜月関係だったら気持ち悪い。
狭い部屋で父親と子供が向かい合って、或いは子供の勉強机の横に父親が陣取って勉強を教えている姿はいかがなものか。
個人差はあるだろうが、私には強い抵抗がある。子供の立場だったら絶対に嫌だ。
だから、ほとんどの子は抵抗を示して、「お父さん家庭教師」から卒業する。

ところが、東大寺学園の高1の男の子の場合は、「お父さん家庭教師」が16歳になってまで続く条件が揃っていた。
父親は医師で理数系の学力があり、また息子は大人しい真面目な子で真正面から父親を拒絶することができなかった。
父親に抵抗する力がもしあったら、殺されたのは母親と妹弟ではなく、父親だったはずだ。

執拗な「お父さん家庭教師」は、内田樹氏言うところの「ファミリアル・ハラスメント」の一種だ。






Last updated  2006/12/07 07:02:51 PM
2006/06/21
カテゴリ:まじめな教育論
よく塾生のお母さんから「どんな本を子供に読ませたらいいでしょうか?」とのご質問を受ける。
でも私は、小学校・中学校の子供に関しては、明確な答えを出せないでいる。

私は一般的な児童文学が嫌いだ。読んでも面白くない。
大概の児童文学は、作者が子供におもねって書いているみたいで、照れくさくなってしまう。
いい歳した大人が無理して子供の目線を繕って書いた児童文学は、作為の匂いがして、ちょっと気持ち悪い。
大人が子供になりきろうと無理して書いた児童文学は、オッサンオバサン作者が子供のコスプレをしているみたいで、読んでてイタい。

私は日本の児童文学の、子供の名前の呼び方が嫌いだ。
エイジとかヤッチンとかヨッサンとかドテカボチャとか、何で片仮名やニックネームで呼ばれるのか。
赤面してしまう。

それはそうと、子供がそのまま大人になったような幼児性の強い人じゃないと、優れた児童文学の書き手にはなれないのか?
日本の作家ならたとえば、宮沢賢治や中勘助のようなピュアな人間にしか児童文学は書けないと私は思う。

というか、児童文学が面白くないのは、私が歳を取ったのが一番の原因だろう。
児童文学が理解できないのを、作者のせいにしてはならぬ。子供が読んで面白い児童文学と、大人が読んで郷愁を誘う児童文学は違うのだろう。

かつてはあれほど面白かった「週刊少年ジャンプ」も、今読んだら難解で理解できない。(「DEATH NOTE」と「こち亀」は別)

その点やはり「ハリー・ポッター」は、大人と子供の両方に愛される稀有の作品なんだろうと思う。






Last updated  2006/12/06 03:28:02 PM
2006/06/20
カテゴリ:まじめな教育論
愛国心論争が盛んであるが、どうやら小学校の通知表で愛国心が評価される事態が起こったらしい。
愛国心を評価する側は、一体何を基準に子供の愛国心を評価するのだろう?

学校現場で、教え子達の愛国心を「一郎君はA、瑞穂さんはC」と評価できる人がいるのだろうか?
もし私が誰かの命令で、塾生の愛国心をABCで評価しろといわれたら途方に暮れてしまう。

作文を書かせてみて「僕は国を愛しています。僕の命より国の方が大事です」と書いたらAで、「私は国より自分が大事です」と書いたらCなのか?
サッカー日本代表を熱狂的に応援する子がAで、サッカーに興味がなくて裏番組のスマスマを見た子はCなのか?
読書感想文で「はだしのゲン」を選んだらCなのか?

とにかく、愛国心を判定する基準がつかめない。

果たして愛国心の有無を基準に生徒を評価する小学校の先生は愛国者なのか?
愛国心を判定する資格はあるのか?
公共教育機関の教師が、愛国心という胡散臭い基準で生徒を評価する時の「よすが」になるのは、「国家の権威」という甚だ邪悪なものではないのか?
国家の代表者小泉首相ですら、通知表での愛国心評価を好ましくないと見なしている。

戦前、学校教育では、国家への愛を死をもって示せという極端な教育が罷り通っていた。愛国心の究極形は国のために死ぬことだと子供は洗脳された。そんなカルトな愛国心の強制が亡国の危機を生んだ。

戦後は逆に愛国心強制の反動から、左翼教育が日本中の津々浦々に蔓延し、愛国心という言葉は必要以上に忌み嫌われた。

戦前は愛国心が絶対的に肯定され、戦後は絶対的に否定された。愛国心をめぐっての強制とその反動が繰り返された。

子供のときに強制された思想は、大人になって必ず反発を食らう。
たとえば、我々が子どもの頃は、日教組教育が全盛期だった。
もし日教組の思想信条が適切なもので、子供の心を虜にするものだったら、今頃社会党や共産党は政権を握っていただろう。歴史は変わり、土井たか子や不破哲三が歴代首相として名を連ねていただろう。

社会党や共産党が泡沫政党になったのも、我々日教組教育を浴びた世代の多くが、左翼的な思想信条をジワジワ強制されたことに反発を感じたからに他ならない。

いままた愛国心を強制することは、10年後20年後の成長した子供に、再び愛国心アレルギーを感じさせるだろう。過度の強制は反動を起こす。
私は右翼でも左翼でもないが、教育現場での思想信条の強制には頭を痛める。教育現場を軽やかさのない閉塞的な雰囲気にしてはならない。

とにかく、もうやめようよ。「愛」なんてものを強制するのは。






Last updated  2006/06/20 05:26:39 PM
2006/06/17
カテゴリ:まじめな教育論
「自由」な校風を謳う、教師からの拘束が少ない難関中学の生徒が、中1最初のテストで悪い結果しか残せなかった場合、挽回方法は簡単だ。

それは直ちに「塾に通う」ことである。

小学校で進学塾に通っていた時期は、宿題やテストに追われながら流れ作業のように勉強ができた。
1週間1ヶ月に1回は必ずテストがあったし、テストが勉強のペースを作った。
塾から与えられる適度の拘束が、ペースメーカーのように心地よかった。

しかし難関中学に入学したら、いきなり「自由」を与えられ、「自由」に戸惑ってしまう。
過度の自由は人間を不安にする。勉強は適度に上から拘束された方がやりやすい。「自由」な校風を謳っている難関中学の先生は子供を拘束しないから、学校だけに頼っていたら子供は拘束される機会がない。

そりゃあもちろん、自力で成績を上げ這い上がるのがベストには違いない。
ただ、進学塾のレールに慣れている子から、レールを取り上げてしまえば、機関車は道の真ん中でどうすればいいのだろうか?

善は急げ。
成績が下がったら、直ちに塾に通わせるべきだ。

「自由」に慣れずに何を勉強しようかウジウジ悩むより、塾で拘束されたっぷり課題を与えられ勉強疲れする方がどれだけ楽か。

子供を何を勉強していいかわからない「自由」という名の砂漠の真ん中で迷わせてはならぬ。一本道を1歩1歩噛み締めながらゴールに向かって行く環境を作ってやらなければならない。
その一本道とは塾に他ならない。砂漠で膝を抱えて途方に暮れる子供に、道を指し示してやるのが大人の役目である。






Last updated  2006/06/17 12:58:50 PM
2006/06/15
カテゴリ:まじめな教育論
難関中学に入学した子にとって、中学校最初の中間試験は非常に勉強がやりにくい。
どうやったらいい点が取れるのかわからない。
とにかく勉強のやり方がわからない。「のれんに腕押し」のような感覚だ。

定期試験の勉強がやりにくい第1の原因は、難関中学に入学した子が、進学塾のカッチリした勉強のやり方に慣れているからだろう。

進学塾ではテキストもカリキュラムも「カチッ」としている。綿密にシステム化されている
テキストとカリキュラムは密接に連動していて、カリキュラム表を見ればテスト範囲は一目瞭然だ。
試験範囲は「算国理社すべてテキスト第2分冊第7回」という具合に明確で、試験勉強がしやすい。

また塾のテスト問題も何百人何千人が同時に受験する問題であるから、必然的に最大公約数的な問題になり、難問ではあるがクセが極力排除された、出題者の体臭がしない問題になる。
だからテキストを勉強すればするほど、正比例してテストの点数は上がる。

対して中学校の定期試験は範囲も曖昧で、各教科の統一感もなく、問題も各先生の体臭がプンプンするローカルなもので、子供は戸惑う。

そして、学校の定期試験で子供が一番困惑するのは、進学塾の試験範囲が「テキスト」中心であるのに対して、中学校の試験では先生の板書を写した「ノート」が出題のメインを占めることだ。

進学塾のテキストは問題形式になっているものが主で、問題を解いていれば自然にテストで点を取れるようになっている。勉強が非常にやりやすい。

逆に板書ノートはテスト勉強が非常にやりにくい。
ノートからどのような問題形式で出題されるか、慣れないうちは非常に戸惑う。
だから塾の先生は試験勉強がやりやすいように、学校の先生の板書ノートを元に、せっせと一問一答問題を作ったりするのである。

さらに困ったことに、難関中学の先生は学究肌の先生が多く、教える内容も出題方式も独特だ。先生の「体臭」に慣れなければならない。

おまけに板書をしない先生もいる。
中学入りたての子にとっては、内容が独特でしかも板書をしない先生のテストに向けて、何を勉強すればいいのか途方に暮れてしまう。
とにかく大学の試験勉強と同じ勉強法が、中1の段階で求められる。

要するに進学塾のテストは相撲のようなルールがわかりやすい「単純系」で、中学校の定期試験はルールが難しい野球やアメフトのような「複雑系」だと言えるのかもしれない。






Last updated  2006/06/15 04:53:50 PM
2006/06/14
カテゴリ:まじめな教育論
中学受験の際に親はエキサイティングし、子供の教育に大いに口出しするが、中学に入学したらいきなり「本人任せ」になってしまうケースが、結構多いような気がする。

中学受験が終わると、親子ともども「祭りのあと」のような気分になる。
親の教育熱が中学受験前にはヒートアップし、合格したら急速にクールダウンしてしまう。

小学校までは子供扱いで過干渉、中学生になると途端に大人扱いして過放任。
小学校と中学校の間には大いなる断絶があるような感じがするが、よく考えてみると小6は12歳、中1は13歳。たった1歳しか違わない。
それなのに扱い方が180度変わってしまったら子供は戸惑う。

確かに思春期・反抗期の子供にかける言葉は難しい。

実は受験期の子供に対する声がけは結構簡単だ。
目標は中学受験一直線だから、ゴールが決まっていて、子供も十分それをわきまえている。

だから「努力だ根性だ」と、旧日本軍的なチープな精神訓話でも子供は素直に受け取る。
しかし受験が終わると、手垢のついたワンフレーズの、勢いに頼った無神経な励ましの言葉は効果がない。

たとえば中1の最初の定期試験で大きな挫折感を味わった、私のようなひねくれた子供に、「お前は中学受験の時みたいに勉強しなくなった」なんて言ってしまったら、親子断絶への道まっしぐらである。

また「お前はやればできるんだから」という励まし言葉も、親は絶対に口にしてはならぬ。
「やればできるんだから」という言葉は一見無難に聞こえるが、実は子供を敵に回す毒が仕込まれている。

「やればできるんだから」と言われたら、中1の私はどう受け取るか?
まず「やれば」という仮定の言葉には「お前はいま勉強をしていない」と努力不足への批難が含まれている。

そして「できるんだから」と言われることは「お前はいま勉強ができていない」と言われるのと同じことだ。
「できるんだから」という言葉をかけられると、成績の悪さをグサリと客観的に指摘されたようで、子供はショックを受ける。

結局「やればできるんだから」という言葉は、子供にとって努力も能力も否定される嫌な言葉なのである。

それから、親は思春期反抗期の子に対して、「私はあなたのことを、こんなに思っているのに」と、愛情を表に出して説教しては絶対にならない。
4歳5歳の子が「お母さんはあなたのことが一番好きよ」と言われたら嬉し泣きするだろうが、ティーンエイジャーの思春期反抗期の子に「あなたが一番好きだから頑張って」なんて言葉をかけると気持ち悪がられる。

親離れが加速的に進む思春期反抗期は、親の心配、親の愛情、そして時には親の存在すら「ウザイ」時がある。その事実を親は絶対に忘れてはならない。
親が説教中に自分に酔って涙を流しても、親の熱い意に反して、子供は冷めた目で親の涙を眺めている。

とにかく、思春期反抗期の子供は難しい。
ただだからといって、子供に対して腫れ物に触るような扱いは良くない。

思春期反抗期の子供は途端に気難しくなるが、自分を真に理解してくれるような、ピンポイントの鋭い言葉を実は求めている。

(気が向いたら続く)






Last updated  2006/06/14 05:46:03 PM
2006/06/13
カテゴリ:まじめな教育論
厳しい中学受験を突破して、晴れて難関中学に合格した中学1年生の子供達は、ちょうどいまの時期、中学校ではじめて定期試験を体験した直後だろうか。

難関中学に合格した子は、小学生の時に学校のテストを意識したことは、ほとんどなかったに違いない。
勉強しなくても満点が取れた。小学校でテスト順位を発表することはあまりないが、学校のクラスの誰もがNO.1と認める学力を持っていただろう。

しかし難関中学のテストは、そんな簡単にはいかない。
難関中学で1番を取るのは1人。当然あとの子は1番になれない。

難関中学の中1たちは、クラス順位を異常に気にする。
小学校でダントツで一番だった子が、クラス50人中37番なんて結果が返却されたら、大いに傷つく。屈辱を感じる。
難関中学最初の中間試験は、自分の学力が意外と振るわない現実をグサリと突きつけ、強いショックを子供に与える。

難関中学で定期試験の順位は、子供の世界で一種の「ヒエラルキー」になる。
偏差値やクラス順位はもちろん変動可能な数値であり、方向性を間違えず努力精進すれば上昇する数値なのだが、最初の試験で衝撃を受けて、その衝撃が無力感につながると、子供は偏差値やクラス順位をインドのカースト制度のような、固定した数値として捉えてしまいがちになる。
俺はクラスで37位の男、私は偏差値43の人間と自己既定してしまう。

自分をヒレラルキー下位の人間と規定することは、最初のうちは痛恨の極みでショックが大きいが、低い成績にいったん慣れてしまうと、同時にそこが安住の地になってしまう。
「俺はバカだ」といったん開き直ってしまうと「低いポジションの方が居心地がいいや」という退廃的な気分になる。
努力して好成績をめざす過程で傷つくより、低い位置に安住している方が楽であることに気付く。
また大学入試は6年後という遥か先だから、現実から思い切って目を背けることが可能だ。

「俺はバカだ」と言い放つことは、快楽であり現実逃避である。

とにかく、難関中学に通いだした中1の子は、人生最大の疾風怒濤の時期を迎えている。中学受験も大事だが、入学後の今の時期は人生最大の転機と呼んでいいくらい、とてつもなく大事な時期である。

kamiesu先生のブログにも似たようなご指摘があるし、私も中1の時にノイローゼになってしまった。

疾風怒濤の時期に試されるのは親の対応である。
最終的に子供を救えるのは親しかいない。






Last updated  2006/06/13 06:42:15 PM
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