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まじめな教育論

2006/05/10
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カテゴリ:まじめな教育論
私は中学高校大学時代、野球に異様にのめり込んでいた。
野球部に入部して甲子園を目指していたわけではない。野球を球場で観戦したり、テレビを見たりラジオを聴くのが好きだった。
新聞のプロ野球のスコアを丁寧にスクラップしたり、神保町の古本屋で古い公式記録を買ってウットリ眺めたり、野球をオタク的に楽しんでいた。

私は広島の親元を離れて中高は東京で一人暮らしをしていたが、夜になると後楽園や神宮や横浜スタジアムの外野席でカープを応援した。
帰省すると広島市民球場へ行くのが、何にもまして楽しかった。

親からは「野球に熱心にならずに、もっと勉強しなさい」とよく叱られたが、聞く耳を持たなかった。
20歳を過ぎてからは、仕事とナイターの時間が重なるので以前ほどの野球熱は自然消滅したが、それでもカープへの愛だけは持ち続けている。

さて、私が中高時代に野球を通じて最も関心を持ったテーマは
「どんな監督がチームを強くするか?」
ということである。

監督の人柄・能力と、チームの強さの連関性を探った。強いチームの監督が書いた著作は、何度も何度も繰り返し読んだ。
選手のモチベーションを高め、強いチームに仕立て上げるために、監督やコーチはどう振舞えばいいのか、徹底的に探り尽くした。

もちろん私は中高時代教師になるなんて、一瞬たりとも考えていなかった。
ただ研究対象として、良い監督とはどんな人間かというテーマに興味があっただけなのである。
まさか中高生時代の野球に対するのめり込みが、大人になってからメシの種になるとは予想すらしなかった。
良い監督像を研究することが、自動的に良い教師像を捜し求めることにつながった。

若い時に、一見無駄に思えることでも、深くのめり込む経験があれば将来役に立つとよく言われるが、私に関しては正しい。

さて、どんな監督がチームを弱くするのか?
私の答えは、ただ一つ。

チームを弱くする監督、子供の学力を下げる教師は、総じて選手や生徒に対して「無関心」な人でである。
「無関心」こそが、ダメ教師ダメ監督に共通する最大の欠点だと僕は思う。

たとえば、近鉄に鈴木啓示という監督がいた。
現役時代は300勝を上げた稀代のサウスポーで、左腕一本で西宮の高台に豪邸を構え、大阪湾を見下ろす大浴場を作った。

鈴木啓示は投手独特の自己中心的人間だった。異様なほどのエゴイストである。
現役時代、ヤクルトから鈴木康二朗投手が移籍してきた時、新聞に「鈴木啓」と書かれるのを嫌がり、
「近鉄の鈴木といえば私のことだ。あっちを鈴木康と書けばええでしょ」
とマスコミに言い放ったというエピソードがある。

彼は自分以外の人間には興味がなかったのではないか。愛情の総量の100%が、自分自身に向けられた。
そんな男が監督として成功するわけがない。案の定、監督時代に選手と揉め事を起こし、せっかく仰木彬監督の元で常勝西武ライオンズに対抗するチームになった近鉄を、元の弱小チームに貶めてしまった。

当時近鉄の主力投手だった野茂がメジャーに挑戦したのも、鈴木監督の下では野球をやりたくないというのが遠因だったと噂される。
野茂が先発して完投勝利を挙げたあとマッサージ室に向かったら、鈴木監督が疲労の極地にある野茂を差し置いてマッサージを受けていたエピソードがある。

野茂の他にも、吉井や阿波野といった主力選手が鈴木監督に嫌気がさして、どんどん近鉄を離れていった。
鈴木監督の強い自己愛が原因の、選手に対する「無関心」が近鉄を凋落させたのだ。

鈴木監督は自己愛を抑えきれず、監督として失敗した。
ただ、自己愛の強いエゴイスト・ナルシストが、名監督・名教師になれないかといえば、そうではない。
自己愛が強ければ、その強い愛情を他者に対する愛に転化する装置があれば、端から見ていて病的で気色悪いほどのエゴイスト・ナルシストでも、一気に名監督・名教師になり得る。
愛情という川の流れを、治水工事で自己から他者に変えれば、爆発的な名監督・名教師が誕生する。

ただ愛情の総量を自己の中に留めたままで、他人に対して無関心な態度を取る人間には、教師や監督になる資格はないのである。







Last updated  2006/12/06 03:32:37 PM


2006/05/06
カテゴリ:まじめな教育論
「塾経営コンサルタント」という職業があるらしい。
「生徒数を100人増やす秘訣」などと書かれたダイレクトメールが、私の塾の郵便受けに頻繁に入っている。

ブログ界でも「コンサルタント」を名乗る人を、ちょくちょく見かける。
正直言って「自称コンサルタント」のブログの文章を読んで、「この人に金を払って、コンサルタントになってもらいたいな」と思った人は、残念ながらまだ一人もいない。

コンサルタントを名乗る人は、個人塾の塾長が無知で、自分が有能だという自信が根拠になっている。自分が上で、塾長が下。だから金払って教えを請いに来い、ということなのだろうか?
これは、非常に不愉快な振る舞いだ。

私がもし塾のコンサルタントを始めたら、どうやって個人塾の先生方から金を取るか、やり方をいろいろ考えてみた。

個人塾の先生は猛烈な潔癖症であり、「生徒への思い」がまず頭にあるから、金儲けと聞いた時点で拒絶感や嫌悪感を抱く方が多い。「組織化」とか「事業拡大」という言葉を、ことのほか嫌う。

私がもしコンサルタントをやるなら、そんな塾長の純粋さを利用して説得するだろう。

「先生の生徒に対する愛情、熱意は凄いです。でもね、先生、その熱意をもっと多くの生徒に伝えていく意志はおありですか? 先生がこんな小さなところでやっているのは、もったいないですよ。先生は金儲けのために塾をやっているのではないとおっしゃる。でも先生の人格で、講義で、愛情で、何人の生徒さんが幸福の道へ進んでいることか。あなたにはわからないのですか? お金はそんな生徒さんと保護者の方の、先生に対する感謝の気持ちです。先生はもっと儲けて然るべき方です。しかし先生は塾を大きくするやり方をご存じない。それは先生が純粋な方だからです。でもね、塾を拡大することが生徒への裏切りになるという、先生のお考えは素晴らしいですが間違っています。でもそんな先生が僕は好きだなあ。塾を拡大するのは相当のノウハウが必要ですが、そんな下品なことは私がやりますから、先生は今までどおり、生徒に愛を注いでください。先生の塾をホンダに例えるなら、先生は本田宗一郎みたいに一種の「技術馬鹿」になり、生徒さんのカリスマになればいい。私は藤沢武夫役になって、先生の熱意を世間に広め、また経営を担当するお手伝いをします。私は先生から50万円いただきますが、2年後には20倍にしてお返ししますよ。手を汚す役は、私にお任せください」

こんな風におだてて金を取るだろう。

冗談はさておき、私ならコンサルタントにすがる前に、ごうまじまじ先生の松江塾を真似る。

松江塾のブログを見たら、流行る塾がどうやったらできるのか、一瞬にしてわかる。
こんなに塾の内面を、ガラス張りで見せてくれる先生はいない。
まるで松江塾は、塾ブログ界の旭山動物園の円筒水槽に入れられたアザラシだ。

IMG_5131.jpg

こんな感じで、周囲から松江塾の中身がたちどころに分かる。ごうまじまじ先生の一挙一動が観察できる。先生の隠し事がなく、オープンな姿勢にはいつも感心する。

また、副塾長のあきらん先生や、松江塾生のafterlifeさんNoAhさん・BLACK・さんもブログを公開している。塾生が松江塾に何を感じて何を学んでいるのか、全部ガラス張りになっている。

ごうまじまじ先生の一挙一動を真似してみれば、たちまち塾の経営状態は改善するに違いない。
何で生きた手本が貴重な塾での日常を包み隠さず公開しているのに、わざわざコンサルタントに金を払って教えを請わなければならないのか?






Last updated  2006/05/06 02:08:24 PM
カテゴリ:まじめな教育論
またまたプロギタリスト志望のY君の話。
彼はスタッフとして申し分ない男だ。仕事の瞬間瞬間で「こいつやるな」と思わせてくれる。私は彼に全幅の信頼を置いている。

Y君には時々、塾のオリジナルテキスト・プリントを作るため、教材をパソコンに打ち込む仕事をしてもらっていた。文字をキーに打ち込むだけの単純な作業だ。

Y君はギタリストなので、キーを打つのが異常に速い。ちなみに携帯メールを打つのはもっと速い。世の中のギタリストはみな、キーボードや携帯メールを打つのが速いのだろうか?

それはともかく、Y君は仕事で決して手抜きをしない。裏表が全くない男なのだ。

ある日のこと、Y君が都合で塾にいなくて、別の教え子P君にパソコンの打ち込みをバイトで頼んだ。
パソコンのある講師室は、授業の部屋とは離れ密室のようになっている。私は時々講師室に資料を取りに帰ったり、お茶を飲みに戻ったりする。

ところがP君は私が講師室に戻るたびに「ガサッ」と音を立てる。そして、パソコンの横には本が置いてある。
要するに、私が講師室にいない時は仕事に手を抜いて本を読み、私が戻る気配を感じると仕事をやった振りをする、というわけだ。
P君には何も言わなかったが、二面性のある彼を塾で雇うことは2度となかった。

逆にY君は、いつ私が講師室に戻っても、背筋を伸ばして黙々とキーを打っている。私が「休めよ」と言っても、「キリがいいとこまでやります」と、しばらくキーを打ち続けている。
そんな裏表のない姿勢が、塾のある種の「凛」とした空気を与えている。

それから、こんなことがあった・・・

うちの塾生は車でお迎えに来られるケースが多い。田舎の島なので夜10時には公共交通機関なんて全く走っていないのだ。

学年が重なると、外には車が40台ぐらい並んでいることがある。狭い島が喧騒となる。

その日も中2と中3の授業が重なり、塾の外は車であふれた。窓の外は車のライトで眩しかった。
そこへ、パトカーのサイレンの音が聞こえた。私は「やばい」と思った。
近所から苦情が来たのだろうか、警察が塾にやって来たのか?

私は警察に弁解するため外に出ようとした。しかし警察に対する恐怖で、足がすくんで動けない。出て警察に叱られるのは嫌だ。でも行かなければならない、そう意を決した時、Y君が現われ
「僕、ちょっと見てきます。」
と、自分に任せてくださいと言わんばかりに、ダッシュで外に出て行った。

しばらくしてY君が嬉しそうに戻ってきて
「警察行っちゃいましたよ」
と報告してくれた。どうやら警察が来たのは、塾の外にあふれている車の件ではなかったらしい。

Y君、何という頼もしい男だろうか。
警察が来て足がすくんで動けない情けない経営者、逆にただの一従業員なのにピンチの時に迅速な行動力を発揮するY君。

人間の本質は、ピンチの時に如実に表れる。それをまざまざと見せつけられた。






Last updated  2006/05/06 11:04:22 AM
2006/05/01
カテゴリ:まじめな教育論
kamiesu先生の塾行脚がつづく。
先生のお好きな井上陽水ではないが、まさに「東へ西へ」だ。

ネット時代になって、文章を拝見した後でご本人の姿に接するケースが増えた。
「文面が先、顔面が後」といったところだろうか。
以前にはあまりなかった「出会い」の形だ。

文章から人となりを想像するのは実は結構たやすいのだが、文から顔や容姿をイメージするのは難しい。頭蓋骨から生前の顔を想像する100倍難しいと思う。

過激な文章を書く女性に対してナンシー関みたいな容貌を想像してたら黒木瞳みたいなフォルモン出しまくりの奥さんだったり、松山千春みたいな傲慢オヤジっぽい文を書く人が実は妻夫木聡みたいにシャイだったり、スタイリッシュな文章からオダギリジョーみたいな風貌だと思ったら意外や意外サンボマスターのボーカルみたいなルックスだったり、初対面の瞬間は緊張もするが楽しい。

でもよく考えてみたら、大昔も「文面が先、顔面が後」だった。
平安時代は歌を詠み合い、歌からお互いの性格や容姿を想像し、それから対面した。
戦国時代や幕末も、書簡を交わしてから人を訪ねるケースが多かった。

ネット時代になって突然「文面が先、顔面が後」という古代中世近世の古めかしい出会い方が復活するなんて、何と素晴らしいことか。

さて、kamiesu先生は写真と文章から得たイメージと寸分違わぬ方だった。
講師としての力量は素晴らしいのに、とても謙虚な方だ。ブログの写真の、少し恥ずかしそうに下をお向きになったアングルが、先生の人柄を物語っている。

また、先生は紳士・ジェントルマンである。私のようなガキがそのまま30代後半になってしまったような、いびつな人間とは違う。

なにしろkamiesu先生は、関西の大手塾で口うるさい百戦錬磨の保護者の方たちに高い評価を得てきた方である。
保護者の方には、アクの強い方もたくさんいるだろう。面談はさぞ大変だったに違いない。
やしきたかじんみたいに毒舌で吼える父親、上沼恵美子みたいに自慢ばかりする母親、上岡龍太郎みたいに偏屈な理屈で攻める祖父、ミヤコ蝶々みたいに自分の生き様を延々と何時間も語る祖母・・・・・
そんな方と渡り合い味方につけてきた方だ。私のような引きこもりの、経験不足な人間とは違う。

おまけに先生は紳士然とした中にも、強い独立の気概を持っていらっしゃる。そんな良い意味での、二重性のある方だ。
大手塾の看板講師の安定感と、個人塾の塾長の野人の魅力を、6:4ぐらいの割合で持っていらっしゃる。この6:4という比率は、私にいわせれば成功の黄金比だ。

大手塾の雇われ講師では収まらず、また個人塾の閉塞された空間では息苦しい。

個人塾はアナログ、大手塾はデジタルという一般的なイメージがあるが、先生がもし塾を開かれるなら、「アナログな大手塾」をお作りになりそうな気がする。






Last updated  2006/12/17 09:39:13 AM
2006/04/27
カテゴリ:まじめな教育論
私は本を読むのが遅い。コミック本でも1冊40分ぐらい、西村京太郎の十津川警部モノのような、軽く読める本でも2時間はかかってしまう。

いま、最近75歳で作家デビューした注目の歴史作家、加藤廣「秀吉の伽」を読み終えたところだ。
「本能寺の変の主犯は秀吉」というストーリーの、ハードカバー2冊の重厚な歴史ミステリーだが、読了するのに丸4日かかった。

それにしても本屋に行けば、膨大な数の本があって圧倒される。時々「これを全部読まなければ」と、いらぬ強迫観念に襲われる。

だから、もっと速く本を読めたらいいのに、と思う。今のスピードの3倍で読めれば、3倍の量の本が読めることになる。

司馬遼太郎は新しい作品に取り掛かるとき、神田神保町の馴染みの古本屋に史料になる本の収集を頼み、それを何百万単位で購入し、物凄いスピードで読破し頭に叩き込んだという。
そんな話を聞くと、速読に憧れる。

しかし、世に出ている速読術には「文庫本を5分で読める」などとオカルト的な怪しいものが多いので、絶対に手を出さないことにしている。

ところで、本の種類によって読む速度が変わるのは当然だろう。
平易な文章で書かれた本は速読が可能だとしても、難解な本は速読が難しい。

ラーメンなら1杯5分で食える。しかし丼いっぱいのイカの塩辛を5分で食べれるだろうか?

たとえば、

神は実在統一の根本という如き冷静なる哲学上の存在であって、我々の暖き情意の活動となんら関係もないように感ぜられるるかも知らぬが、その実は決してそうではない。さきにいったように、我々の欲望は大いなる統一を求むより起こるので、この統一が達せられた時が喜悦である。いわゆる個人の自愛というのも畢竟此の如き統一的要求にすぎないのである。しかるに元来無限なる我々の精神は決して個人的自己の統一を以て満足するののではない。更に進んで一層大いなる統一を求めねばならぬ。我々の大いなる自己は他人と自己とを包含したものであるから、他人に同情を表わし他人と自己との一致統一を求むようになる。我々の他愛とはかくの如くして起こってくる超個人的の要求である。故に我々は他愛において、自愛におけるよりも一層大なる平安と喜悦とを感ずるのである。而して宇宙の統一なる神は実にかかる統一的活動の根本である。我々の愛の根本、喜びの根本である。神は無限の愛、無限の喜悦、平安である

という難解な哲学書を速読できるだろうか?

ある種の教養人には可能だろうが、私には無理だ。というかこの手の文に速読の必要性を私は感じない。
新聞やビジネス書のような、情報を取り入れる文章は速く読めるに越したことはないが、小説や思想系の文章に対して、ことさらに速読を強調するのは、文書に対する冒涜のような気がする。

本にはそれぞれ、読むスピードの適正速度がある。難解な本の中には、作者が書くスピードと同じくらいの遅い速度で読まねばならぬ物もある。

あと、オリジナリティに溢れた名著は、読み流しを絶対に許さない。
ときおり文面を追いながら、著述に圧倒され、しばし感心し読むのを中断してしまうことがある。

本の中に素晴らしいフレーズがあった時は、本を開いたまま机に置き、文章の鮮やかな切り口と心地よい毒の刺激が、読者である私の体を循環するまでしばし待つ。
作者の意見が憑依して自分の意見になるまで、脳の中を整理する時間を名著は与えてくれる。
内田樹氏や養老孟司氏の本が、私にとってそんな本だ。

とにかく、私は気の合う作者の本を、少量じっくり読めればいいと思っている。
世の中に人間は数多くいるけれど、友人になれる人間は少ない。
熟読に値する「好きな作家」が30人ぐらいいればいい。あとは適当に「速読」でお付き合いする。そんなスタンスで私は読書している。






Last updated  2006/12/06 03:36:55 PM
2006/04/23
カテゴリ:まじめな教育論
受験期の子供は格好いい。目標に向かって顔つきが変わる。受験は子供を一気に大人にする。
大人は子供が受験で苦しめば苦しむほど子供の将来について親や教師は安堵する。
「ああ、たくましくなった」と感じる。
これだけ自分一人で立派に勉強できるのだから、将来凄いことになるだろうと期待する。

受験は大人と子供の心を一体化する。受験という強敵に向かって意志が一つになる。
子供は大人を頼る。大人はそんな子供達を可愛く思う。

子供が受験を通して世間の厳しさにほんの少し首を突っ込むことで、子供は今自分が経験している受験地獄より遥かに厳しい世間の荒波を耐えて来た大人を尊敬し始める。大人の経験から生まれた何気ない一言の的確なアドバイスが、子供の胸に染みる。
子供は受験を通して「大人の世界」にデビューする。

そして子供に認められた大人は自分の存在意義を感じ、世代間の壁が一時的に壊れる。
大人は受験によって子供に必要とされていることが、実は嬉しい。

しかし受験が終わった時、子供は楽しいフレッシュな学校生活を謳歌し始める。子供の人間関係の興味は、ピンチの時に頼りになる大人から、友だちや異性に移行する。
受験期二人三脚だった大人はポツンと取り残される。

新中1・新高1は、4月は新学期で緊張感が持続するのだが、5月頃からだらだらと弛緩し始める。
大人も5月くらいまでは
「まあ、厳しい受験の後だから少々遊ばせてもいいや」
とたかをくくる。
しかし6月・7月になっても子供は遊びつづける。大人は受験期の「格好いい」子供の姿があるから、その幻想に囚われる。

「高1のとき勉強していれば高3になって苦しまなくてすむのに。誰も勉強していない今やれば志望校のランクだって上がるはずなのに」と、大人には欲が出る。

受験の疲れと解放感でまだ遊び足りない子供と、親と教師のすれ違いが顕著に表れる新学期。
せっかく大人の世界にデビューしたと思ったら、また子供の世界に回帰する子供。
そんな「新学期ボケ」の子供に、大人はどう接すればいいのか?

少々話は変わるが、私はおくてだった。
20歳まで私は誰に対しても恋愛感情を持ったことがあなかった。20歳まで最愛の人は母親だった。母親が死んだら自分も自殺するだろうなと、漠然と思っていた。
20歳の時に恋愛の怒涛の嵐が押し寄せてくるまでは・・・

子供の中で、母親が最大の愛情の対象ではない時期が来る。新学期は、もしかしたらその転機かも知れぬ。
子供は着実に、親の知らない大人の世界に突入する。






Last updated  2006/04/23 06:15:34 AM
2006/04/22
カテゴリ:まじめな教育論
私は何故か斜陽産業に惹かれる。
小学校の時は国鉄に就職したかった。
高校生になったら映画関係の仕事。
そして今やっている職業は塾経営者。

流行の華やかな職業が性に合わないのかもしれない。
衰退する産業を少しでも立て直そうとするささやかな冒険心かもしれない。
とにかく、斜陽産業が好きだ。

ただこの職業をやってみて、我々の世代は「遅れて来た世代」だという悲しい事実に行きつく機会が多い。
今から天守閣のある巨大な石垣のある城を構えようと思っても、もう周囲は城だらけ。
百戦錬磨の大名達がしのぎを削っている。
私は離れ小島で、孤剣宮本武蔵を気取っているしかない。

一緒に働く若い人材がいない。
凄いヤツほど私はこの業界に誘えない。
誘いたい、誘えない。
せめて大学時代の4年間、輝きを子供に伝えてもらうしかない。

私は正直、起業家として名声で栄達を望むことは、きっぱりとあきらめた。
しかし私が子供に知識やイデオロギーを伝える塾という名の小宇宙は守りたい。
妨害する奴には、命のやり取りをするほどの気概をもって相手したい。






Last updated  2006/04/22 04:28:10 PM
カテゴリ:まじめな教育論
首都圏や京阪神の国立を目指せる子は別として、地方のある程度学力を持っている子にとって、志望校を地方の国立にするか、それとも東京の難関私立にするか、大いに迷うところだ。

僕は高1終了段階で、数学が苦手な文系の子に、数学を捨てさせることがよくある。
英語と国語と社会のうち2科目以上得意で、数学に苦手意識を抱いている子。
そういう子には迷わず、東京の難関私立をすすめる。

早慶に行けば、地方の国立大学よりも、就職戦線で絶対に有利だ。
数学が苦手でも、日本の「学歴社会」の勝者になれる。
数学で人生決められたら、たまりませんわ。

苦手な数学を抱えたまま、受験直前にバタバタと国立から私立へ志望校を転換した子を、どれだけたくさん見てきたか数知れない。自分の意に沿わない進学をする子があとをたたない。
直前になって早慶や明治や同志社に志望校を変更しても、絶対合格するわけがない。

地方は親も教師も官学志向が非常に強い。近所の進学高も、国公立以外は大学とは思っていない風潮がある。
昔ながらの「官高私低」感覚の人が多い。

だから数学が苦手な子は、国公立に行けない二流の人物とみなされる。それは間違いだ。
また私立文系の大学を、誰でも入れるものと甘く考えている。実際には中堅以上の私立文系は、直前になって対策できるほど簡単ではない。
たしかにここ数年、中堅私大はバブル期に比べ合格しやすいのは事実だ。だが、私立を「滑り止め」とか「直前の駆け込み寺」と考えていたら痛い目に合う。

私なら、高1段階で数学の偏差値が50を切った状態の子は、迷わず私立文系一本に、志望校を絞らせる。
数学は勉強時間に多大な時間がかかる。数学を捨てた分の時間を英語や社会に回す。数学を捨てる代わりに、英語の能力をハイパー化する。
高校の方針で数学に固執してしまえば、必ずや直前になって国立をあきらめ、中途半端な私立大学にしか合格できない。

社会が得意な子も私立文系がいい。
私立の問題は「社会オタクキング決定戦」のような細かいカルトクイズ的な問題がたくさん出される。センター試験の感覚で難関私立の社会の問題を解いたら、とんでもない目に合う。

ゲームでマイナーな戦国武将の名まえをたくさん知っている日本史オタクの子。
戦艦や零戦に詳しく、太平洋戦争の戦史について物凄い知識を持っていて、ミッドウエイ海戦やレイテ海戦について講師にレクチャーをする子。
そんな子には、興味がそのまま試験勉強につながる道を探ってあげたい。だから私立文系こそ最も有利かつ個性を生かした選択だと思う。

早期に私立文系一本に絞るのは、数学からの逃げではなく、英語・国語・社会の更なるパワーアップの積極的転進(旧日本軍が使った意味ではない)だと考えている。

また、私立文系大学は、いろいろな事情があって高校時代勉強していない子にとって、大逆転の大きなチャンスだ。

「ドラゴン桜」は、誰でも東大に合格できると謳っている。しかし現実的に東大は難しいことは確かだ。高3・浪人から勉強を始めて、英語数学国語理科社会、全科目高いレベルの学力に到達するのは難しい。
しかし英語・国語・社会の3教科なら何とかなる。

高校時代回り道をしても、遊びまくっていても、慶応はともかく早稲田には合格できる。僕はそう信じている。やり方さえ間違っていなければ。

高校時代勉強が苦手でも、落ちこぼれ扱いされても、早稲田大学は下剋上が可能な大学なのだ。






Last updated  2006/04/22 11:14:57 AM
2006/04/19
カテゴリ:まじめな教育論
団塊の世代の大量退職者が教師を務める、公立塾ができるそうだ。
「塾」と名がついているわけだから、公立塾の授業は夜。われわれ民間の塾と真っ向から時間が重なる。学校と塾の直接対決だ。

授業料はなんと無料。長期休暇には講習会も行うらしい。
多くの塾関係者は、危機感を抱いているに違いない。

特に学校の補習中心の、定期試験対策をメインにしている塾は、大打撃を蒙るだろう。
だって、公立塾で教える先生は、ついさっきまで学校現場で定期試験を作っていた人である。
学校の試験対策には、学校のOBが一番だと思う人は多い。

学校OBの公立塾の先生に、
「先生さあ。去年まで試験問題作っていたんだよ。どんな問題が出るか、コツを教えてあげる」
と言われたら、説得力がある。公立塾は民間塾と比べて、定期試験に関する情報量が違うと考える人は多いに違いない。

とにかく公立塾が、なりふり構わず「定期試験過去問対策」をやり始めたら、補習塾の定期試験対策はお手上げである。
定期試験対策メインの民間塾は、厳しく淘汰される可能性がある。

また、近所の学校が加齢臭のするオッサン退職講師ではなく、バリバリの有名人講師を、夜の公立塾に投入してきたらどうなるか?

たとえば去年まで、私の塾の近くの小学校の校長は、あの「百ます計算」の陰山英男氏だった。
4月から陰山氏は立命館小学校の副校長に就任したが、陰山氏が校長だった2年間、塾生の5分の1は景山氏の小学校の生徒で、昼は陰山校長の小学校で学び、夜はうちの塾にやって来るという状況が続いた。

昼は陰山校長の授業を受け、夜は私の授業を受ける小学生は、私と陰山校長の力量を無意識に比べている。
日本で一番著名な教育者と比較されて、私が大きなプレッシャーを感じていたのは事実である。

さて、陰山校長級の有名校長がいる小学校・中学校が、公立塾を始めたらどうなるか?
陰山校長自身が、夜の公立塾に講師として登板してきたらどうか?

勝つ自信は、正直言ってあまりない。強い不安がよぎる。






Last updated  2006/04/19 11:08:43 PM
2006/04/18
カテゴリ:まじめな教育論
2002年に文部科学省本省から、文化庁文化部長に「左遷」されていた、ゆとり教育の推進役・寺脇研氏が、4月から大臣官房広報調整官に就任するらしい。
今回も部長級から課長級への降格という、事実上の左遷となる。

退職予定だった寺脇氏は、小坂憲次文科相から慰留されたという。
知名度抜群の寺脇氏を退職させて、在野に放ち活発な言論活動させるのを恐れての引き留めなのか、実際のところはよくわからない。

ところで、ゆとり教育の「罪」は、降格という形で寺脇氏が全てかぶることになった。
これって、何から何までおかしくないか?

どうしてこれまで一官僚・一個人に過ぎぬ男が、大事な大事な国の教育行政を振り回してきたのか。
官僚にしては、寺脇氏の影響力は大きすぎやしなかったか?

ここ数年の「ゆとり教育」騒動は、一官僚にすぎぬ寺脇氏の独断に振り回され、寺脇氏個人の奇抜なアイディアが文科省全体の意見とされ、学校・塾を問わず日本国のあらゆる教育機関を引きずり回したような印象を与えてきた。

教育行政は、財政・軍事・外交と並んで、国の大事なファクターであるはずだ。
本来なら、国民の代表者である政治家が教育の大計を練るべきであり、一官僚の寺脇氏の手に委ねられるものではない。

教育行政の指針は本来、国民のコンセンサスを得た政治家が立案し、実行し、失敗し、責任を取るのが当然の姿である。
「ゆとり教育」は寺脇氏個人が立案し、実行し、失敗し、責任を取ったというイメージが強い。
われわれは寺脇氏に、教育改革を委託したわけではないのである。寺脇氏は政治家でも国会議員でもない。

行政は政治家が主導して行われるべきものであり、官僚が表面に出てはならない。政治家の指示によって、官僚が動くのが本来の形である。
政治家は行政機関の「脳」であり、官僚は「身体」であるべきだ。

ところが、一連の「ゆとり教育」騒動には、政治家の匂いがしない。
利権の絡む建設行政には細かいところまで口出しする政治家が、文部行政には無関心すぎる。教育行政は官僚に丸投げされているかのようだ。

教育に関しては、政治家が「脳死」状態になって、官僚の「身体」が勝手に動いている印象が強い。
お父さんがお母さんに子供の教育を任せっきりにしまうように、政治家は官僚に教育行政を一任しているみたいだ。

もし、巷で言われているように「ゆとり教育」が寺脇氏の独断で行われてきたのなら、今回の「ゆとり教育」騒動は、一人の官僚が国に強烈な影響を与えた、稀有な一例である。
寺脇氏は、昭和初期に満蒙対策に独断で大きな力を振るった、陸軍の石原莞爾以来の官僚権力者ということになる。
政治家が脳死状態になり、官僚に権力を振るわせてしまえば、亡国の危機に陥ることは歴史が証明している。

ところで、日本の政治家の教育に対する無関心とは逆に、イギリスのブレア首相は「Education! Education! Education!」をスローガンに、教育を国家の最重要課題と位置づけ、積極的に教育改革を推し進めてきた。

ブレア首相は公立校の充実を計り、また金持ちの私立校の子しか進学できなかったオックスフォードやケンブリッジ大学に、公立校から一定枠進学できるシステムを作った。

ブレア首相は、極左政策を堅持し政権から遠ざかっていた労働党を、中道左派にシフトすることで政権を得た。労働党の支持層のターゲットを、ブルーカラーから中流家庭に移した。
一見、長い間労働党を支持してきた、貧困層のブルーカラーに対する裏切り行為のようだ。

だが労働党本来の左翼的革命精神は、教育の充実によって受け継がれている。
かつてはブルーカラーが成り上がるためには、ロックやアートやスポーツしか道がなかった。だが、ブレア首相は、ブルーカラーが教育でも出世できる環境を整えようとしてきた。
ブルーカラーが貧乏から脱却するためには、教育こそが最高の道筋だと主張し続けている。

逆に、日本の内閣はどうだろうか?

首相にとって教育改革は、自分の手柄にならない。即効性が強い改革が優先される。

たとえば、ある内閣が教育改革を実行したとする。ところが改革の成功・失敗がわかるのは、改革実行から長い時間が経過してからだ。
一内閣が教育改革に取り組んでも、結果が出るのは早くて5年、長くて20年先のことだ。

10年も20年もの長期政権を保障されている内閣なら、結果がロングスパンで現われる教育改革に積極的に取り組めるが、基本的に任期が短い日本の内閣では、教育改革の重要性がわかっていながら教育改革は後に追いやられ、首相のパフォーマンスが生かされる政策や、短期間で結果の出やすい緊急の懸案事項が優先される。

せっかちな小泉首相が、ロングスパンでしか結果が出せず、成功しても自分の手柄にならない教育改革に興味を持たないのは当然の帰結だ。
国民の支持を得る政策の開発に神経を尖らす小泉氏が、持ち前の嗅覚で「教育では票にならない」という結論を出すのは正しい。

イギリスのブレア首相が教育を国家改革の最大の懸案事項として取り組めたのは、イギリスでは上流下流の二極分化が今の日本と比べ物にならないくらい激しくなり、退廃的な気分が社会に蔓延し切羽詰った状況になったからだろう。

小手先の改革ではもはや手の施しようがない。国家の根幹を長期間で改革する必要に迫られた。
イギリスでは教育改革を推進し、子供に学力をつけ、50年先の国家の大計を子供に託したのである。

教育改革とは、実はどうしようもなくなった国の改革を子供に「丸投げ」することなのである。
国家は国債という借金を子供に残す。でも、しっかりした教育を施すことで、借金を返済する知恵も同時に与える、というわけだ。

日本もあと5年くらい後に、1970年代後半パンク音楽が流行した時代のイギリスのような淀んだ社会が現われてはじめて、政治家は腰を据えて教育改革に真剣に取り組み始めるのかもしれない。






Last updated  2006/04/18 06:24:25 PM
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