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2006/06/30
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カテゴリ:塾の日常風景
kamiesu先生の自習室のお話に便乗して、私も自習室の話を・・・

今日は中1の女の子が自習室に勉強に来た。学校帰りの午後3時から6時までずっと勉強していた。
私は6時ごろから「お腹減ったら帰っていいぞ」と何度も言ったのだが、彼女達は無視して勉強を続けている。
私はまるで、夜中勉強している子に「もう寝なさい」と声をかけるお母さんみたいだ。いいぞいいぞ。

自習室の集中力は凄い。友人同士しゃべるなんて想像もつかない、緊迫したガラス細工のような雰囲気になっている。

まるで鼻息一つで壁画が剥落してしまいそうな、高松塚古墳みたいにデリケートな自習室だ。






Last updated  2006/06/30 10:59:14 PM


カテゴリ:まじめな教育論
個人塾やってる私が言うのもなんだが、個人塾の門を最初にたたく時、お母さんや子供は怖いんだなあと思う。

大手塾なら1階がガラス張りになっていて、中ではネクタイ姿の先生や、制服を着た事務の女性がテキパキと仕事をしている姿が見える。ドアを開けても洗練された反応が返ってきそうだ。
また、講師がズラリ玄関前に並んで送り迎えしている大手塾もあり、それならどんな人が子供を教えているのか一目瞭然で、尚更入りやすい。

しかし個人塾は違う。個人塾の先生は怪しい。私が以前個人塾の長渕剛で書いたように、個性的といえば聞こえはいいが、とんでもない人物が先生だったりする。

だから雑居ビルの3階4階にある個人塾にお母さんや子供が最初に訪れる時は、塾長がどんな人かわからないので、興味と恐怖で心が一杯になり、コンクリートの階段を上がりながら肉体の疲れだけでなく、緊張で息切れしてしまうだろう。

お母さんが個人塾のドアを開ける。「ごめんください」と言う。中から反応は無い。もう一度今度は少し大きな声で「ごめんください」と叫ぶ。奥から「は~い」という声が。塾長だろうか。足音が近寄ってくる。スタスタ。どんな人なんだろう・・・

こんな具合だから大手塾のほうが親しみやすく、個人塾は取っ付きにくいと考えるのも道理だ。

商店でもそうである。スーパーやコンビニは自由に入れて、何も買わなくても遠慮なく出られる。「来るものは拒まず、去るものは追わず」といった感じだ。

逆に個人商店は入りづらい。入った途端に商品をしつこく勧められるとか、あるいは古本屋みたいに偉そうなオッサンが店の奥で腕組みしているとか、買わないと嫌味を言われそうだとかで足が遠のく。

またコンビニやスーパーのいいところは、1万円札を出しても何も言わずお釣りをくれることだ。1万円出してガム1個買っても嫌がられない。だから買い物する時、ついついコンビニやスーパーに足が向いてしまう。

しかし個人商店では1万円札を出そうものなら、「細かいのはありませんか」「928円のお買い上げですが、8円お持ちじゃないですか」と批難されそうで困る。個人商店にはお釣りの出し方1つにしてもローカルルールがあり、客は店独自のルールに合わせなければならない。
大手のチェーン店なら、どこでもルールが同じだから気をつかうことが無い。

個人塾にも塾長の個性の匂いがプンプンする独特のルールがあって、保護者や子供がそれに合わせなければならない。
それが嫌だから入塾を躊躇してしまうケースが、結構多いような気がする。

だから個人塾のルールはkamiesu先生の塾のように、普遍的で理に適ったものでなければならない。また、ある程度個人塾は、HPやブログで自塾の雰囲気を公開するのが望ましい。

私の塾のように、得体の知れない伏魔殿のような塾はそれはそれで面白いが、普通の方には怖いだろう、と思う。






Last updated  2006/06/30 06:03:30 PM
カテゴリ:まじめな教育論
齋藤孝が言うところの「教育欲」は、一定の年齢に達した人なら、ある程度は持ち合わせていることだろう。
ビジネスマンは後輩社員に、高校野球の監督は選手に、学校教師は生徒に、相撲の親方は力士に、落語家は弟子に、教育欲のはけ口を求める。

ところで、明治以降武士は俸禄を停止され、武士階級の特権もなくなり不満が嵩じた。不満のはけ口をある者は西南戦争をなどの不平士族反乱に求め、またある者は自由民権運動に携わることで解消しようとした。

しかし多くの士族は、自分自身の現世での出世栄達を諦め、夢を子供に託した。没落士族は現状の不満を子供の教育でぶつけたのである。
おりしも当時のベストセラー福沢諭吉の「学問ノススメ」は、学問を修めることが立身出世の王道である事を説き、多くの士族の共感を得た。
福沢諭吉のアジテーションに感化された武士階級は、子供の教育に力を入れた。没落武士の「教育欲」は、自分の現世での不遇に対する怨念とあいまって強い欲望になった。

親の強い「教育欲」の結果、学問に励んだ子弟達は、官吏や軍人、或いは実業界で活躍するようになり、富国強兵・殖産興業の原動力となり、明治の日本の隆盛を築き上げる力になった。
自分に代わって息子を出世させたい親の執念が、産業の未曽有の発展を成し遂げた。

結局、没落武士の「教育欲」は、自分達を武士という特権階級から引きずり下ろした明治新政府に、息子を人材として送り込むことに結びついた。なんとも皮肉なことである。






Last updated  2006/06/30 05:00:07 PM
2006/06/29
カテゴリ:まじめな教育論
高校生のとき、学校サボって図書館で読書に励んでいたら、ある本の中に「民族別知能指数」という恐ろしげなランキング表があるのを見つけたことがあった。
民族のIQを、まるで大学の偏差値表のように上から順番に並べたものだ。

それによると、

1位 ユダヤ人(ダントツ)
2位 日本人
3位 中国人

で、その続きは忘れてしまった。
どうせこんなのは、ユダヤ人が調査した結果なのだろうから、1位がユダヤ人という結果はユダヤの陰謀で、実質日本人が1位なんだろうと勝手に解釈する。

そして、表の一番下には

黒人
プエルトルコ人

と書いてあったと記憶する。
刺激的な本だった。

ところで、最近の小学校では子供にIQ調査をしているのだろうか?
私は小学校でIQを調査された記憶がある。小学校の時は体育館で迷路のクイズをやった。今思うとあれはIQ調査なのだろう。結果は知らされなかったけど。

偏差値や学年順位は、子供の努力で上下する数値だからテストをバンバンやって公表してもいいのだろうけど、知能指数は先天的絶対的能力だから困る。

いま、子供のIQを調査することはタブー視されているのだろうか?

たとえば「男女の間に、IQの差はあるのか?」という調査1つをするにしても、見えない圧力で厳しく戒められているような気がする。

あと、私は島で塾を開いているが、ある人が
「うちらは島じゃけえ、血が濃ゆうて、知的障害持った人間が多いわ」
という恐ろしい説を唱えていた。

確かにうちの島では、「金」や「李」や「朴」という苗字が圧倒的に多い韓国・北朝鮮みたいに、特定の苗字が異常に多い。
4つの苗字だけで、島の人口の70%ぐらいを占める。

韓国だと、同じ「金」姓の中に「本貫」という細かい区別があって、同じ「本貫」同士では結婚できないと聞く。
韓国ではそんな工夫をしながら、「血が濃くなる」ことを防いでいるのだろうか?

ところでもしかしたら、雑多な人間が集まる都会と、閉鎖された空間で「近親婚」が続く島と、どちらのIQが高いのか比較実験している研究機関もあるかもしれないが、公表したら大騒ぎになるだろう。

たとえ調査していたとしても、興味本位で語られやすい内容だから、調査結果は象牙の塔の塀の中に隠しておいた方が、賢明だと思うけど。

それはそうと、私は自分の知能指数が知りたい。小学校の倉庫の奥のファイルに調査結果が残されているのだろうか?






Last updated  2006/12/06 03:26:17 PM
カテゴリ:いろんな雑談
デブは他のデブと一緒にされることを最も嫌う。デブはデブ同士仲が良いと思ったら大間違いである。デブというものは近親憎悪で仲は良くない。

デブじゃない人が「デブは嫌だ」と言ってデブを恋愛対象から外すように、デブも他のデブを異性とは見なさない。デブじゃない人から見れば、同じデブ体型同士くっつけばいいじゃないかと思うかもしれないが、そんなに物事は簡単にはいかない
もし仮にデブを恋愛対象として見る奇特な人がいたら「デブ専」と呼ばれ変態扱いされてしまう。

デブじゃない人間がデブを嫌う理由は、遺伝子の中にデブを拒絶する要素がきっとinputされているからだ。デブと結婚しても強い子孫は残せない。デブと結婚してデブが蔓延すれば、人間は自然淘汰に負け種族滅亡してしまうのだろう。

しかし悲しいことに、デブの遺伝子の中にもデブを嫌う要素が入り込んでいるのだ。異性のデブに性愛を抱けず同性のデブを毛嫌いし、ダイエットと称してデブから「転向」を図る。

俺もダイエット進行中である。夜中にお好み焼き屋に行くのやめよっと。もっと痩せねば・・・






Last updated  2006/06/30 12:29:25 AM
カテゴリ:まじめな教育論
東大寺学園高1の放火殺人事件について、いましばらく、牛歩のようにじっくりと考察を進めてみたい。まずは当たり前のことから整理しよう。

いまでは、塾や学校が親から子供を預かり、親以外の大人が学力の成長を全面的に担当するようになった。
親が直接子供に勉強を教えることは稀で、学力向上は塾や学校に任せるのが当然だ。

でも子供の教育に関する「分業」が成立したのは、よく考えてみれば時代的に新しいことなのかもしれない。

昔は、仕事のノウハウは親が家で教えた。親が子に職業技術を教えるのは当然の事だった。
原始人は狩猟のやり方を、百姓は田植えを、漁師は魚の取り方を、鍛冶屋は鉄を打つ技術を、親は子の手を取り直接教えた。

身分が固定していて、親の職業を子が継ぐのが当たり前だった時代、父親は親と教師を兼ねていたのである。

現在では、子供は大きくなると親離れするのが当然のように思われているが、昔の子供は親離れすることは稀だった。親と子は死ぬまで一緒に暮らしていた。

確かに戦国時代になると一旗揚げるために鍬を刀に変え戦いに出る若者は増えたし、また江戸時代には江戸や大坂といった都市に移住する百姓の次男三男が後を絶たず、居住の流動化が進んだが、多くの人は一生同じ土地や家に定住したわけで、生まれた家はイコール死ぬ家だった。

ところが明治以降、身分や職業が流動的になると、子が親の職業を継ぐ割合が少なくなった。
全国に学校ができて、公務員とか軍人とか江戸時代に無かった職業も増えた。
社会構造は大幅に変化し、子は親よりも上のステージの職業を目指すようになり、そうなると親が持つ職業知識は子には不要なものとなった。
農民の父には、軍人の子は教育できない。

社会の「進化」及び近代の到来が、親と子を引き離した。子供は一定の年齢になったら親と別居し、親は子供に職業技術を教えるケースは少なくなった。

近代以降、子供には将来の職業の可能性ができた。子供は親の跡を継がなくてもよくなった。そんな環境の転回が、直接子供を手取り足取り教育するステージから、親は退場を余儀なくされた。
子供に職業技術や勉強を教える役目は、教育機関に一任されたのである。






Last updated  2006/06/29 08:19:11 PM
カテゴリ:塾の日常風景
試験対策真っ盛りだ。
うちの塾は試験前「自由に勉強に来ていいよ」という形式ではなく、強制的に何時から何時までいらっしゃいという形式を取っている。
試験前は週6回通塾しなければならない。

どうせ塾に勉強に来ない子は、試験前家で遊んでいるに決まっている。私生活がとっても怪しい。
家で勉強しているか疑わしいので、試験前塾に絶対に来てもらう。自学自習という理想はちょっと脇に置いといて、成績が伸びない子は、私が機関車みたいに引っ張らなければならない。

特に中1はまだ試験勉強の方法を把握していない。まるで赤ん坊だ。
ビャービャー泣いている中1の赤ん坊どもに「自分でえさを探して来い! 自学自習だ!」と叫んでも、何もできやしない。そんな冷たい仕打ちをしたら、中1は食にありつけなくて干からびてしまう。

勉強のやり方がわからない子に対しては、教師は距離を取ってはならない。乳離れするまでしつこく面倒を見るのが教師の役割だ。
過保護・過干渉・構いすぎ・教えすぎ、そう批判されてもいいから、懐に飛び込ませて思いっきり抱きしめながら教えよう。

気色悪い比喩で恐縮だが、私が巨乳を丸出しにして、中1に母乳をたっぷりと与えてあげなければならない。
小学校時代勉強をろくにしていない貧相な頭脳を豊満にするには、母乳が一番さ。






Last updated  2006/12/06 08:18:24 PM
カテゴリ:まじめな教育論
誰かがTVで、これからはどんどん生徒の学力低下が進んで、先生方も学力が低い子相手に授業がやりにくくなるでしょうねえと発言していたのを耳にはさんだが、私はそんな危惧はしていない。

だって、これからますます学力低下が進めば、子供の学力が徐々に下がってゆくのに比例して、教える側の学力も一緒につられて下がってゆく。
学力低下した子供が大人になれば、学力の低い教師や大学教授になるのは道理だ。

教師のレベルが高過ぎて、「こんなアホなガキ相手にやってらんねえや!」という事態は起こらない。教師もつられて学力低下しているからだ。

学力の低い教師が、学力が低い生徒を教える学力低下スパイラル。授業がやりにくくなるなんて、危惧することなんかないのだ。






Last updated  2006/12/06 03:26:48 PM
2006/06/28
カテゴリ:まじめな教育論
保健体育という科目の、通知表の評価がよくわからない。

私が高校1年生の時、体育のカリキュラムは、1学期はバスケッットボール、2学期は陸上(走り幅跳び)、3学期は柔道と、くっきり分かれていた。

私は高1の時、非常に太っていた。

1学期のバスケは、コートをぶよぶよした体躯を持て余してうようよしているだけ。時々相手に体当たりして、反則取られ周囲の顰蹙かっていた。

2学期の走り幅跳びは最悪。ドタドタ走って砂場にドテンと尻餅をついた。

3学期の柔道は、技の切れ味は全くないけど、巨体なので投げられることは絶対になかった。最強だった。

しかし通知表の評価は10段階で全学期とも6。
自己評価ではバスケが4、走り幅跳びが5、柔道が8なんだけど・・・
なんだか、凄くいい加減な評価だったような気がする。
もしマイケル・ジョーダンやカール・ルイスや小川直也が生徒でも、全学期同じ評価をするのだろうか?

塾生の通知表でも、怪しい評価はある。
バレー部レギュラーなのに、体育がバレーで5点満点で3とか、結構ひどい評価だと思うヨ。
一度「こいつは体育は3」とイメージが付いちゃったら、先生が変わるまで3のままなのかしらね。






Last updated  2006/06/28 11:53:14 PM
カテゴリ:まじめな教育論
うちの子猫は、鶏のささみとチーズと鰹節が好物で、1日5食もするので身体が結構大きくなった。子猫と成猫の中間ぐらいの大きさになり、とにかくよく食べよく動きよく太る。

子供がいない私にとって、小さい生命体が食料を得ることで、日に日に身体が大きくなる体験は新鮮だ。
猫の身体が大きくなると、猫は私が稼いだ金で買った食べ物で大きくなり、私がいなければ猫は餓死していたかもしれないという、妙な実感が生まれてくる。
「こいつの身体は俺が大きくしてやったんだ」と偉そうなことを思ってしまう。

心の成長は目ではあまり確かめられないが、体の成長は一目でわかる。子猫の身体の成長は子猫の可愛らしさが失われることでもあり微妙に残念だが、やはり嬉しい。

ところで、私のような塾講師や学校教師は、子供の心や学力の成長には関わっているかもしれないが、身体の成長には全く関係がない。塾講師と一緒にいても、子どもの身体はデカくなったりしない。
自習室の休憩時間におごったラーメンぐらいしか、塾の講師は子供の身体の成長には寄与していない。

だからこそ、子が無い塾講師の私は、猫の身体の成長を新鮮に感じたのだろう。
とにかく、塾講師は専ら子供のBODYではなく、SOULを成長させる役割を与えられているのだなと、大きくなった子猫を見てつくづく思った。

ところで、親は自分の子供に対して、私が子猫に感じたような「この子の身体は私が大きくした」という気持ちを持っているのだろうか? 
身体が大きくなった子供と喧嘩した時に親が、「誰のおかげで大きくなったんだ!」と怒鳴る気持ちが、子猫を育てていて非常によくわかった。






Last updated  2006/06/28 07:43:13 PM
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