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まじめな教育論

2006/03/28
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カテゴリ:まじめな教育論
アメリカ映画は今、自然でさり気ない、アクターズ・スタジオ的演技が主流になっている。
いかに観客が俳優に自分の姿を重ね合わせられるか、いかに観客が物語に集中し、映画的「ウソ」の世界に沈没するか、そのために映画俳優は、自分を殺さなければならない。
下手な演技は、観客をわれに返らせ、現実の世界に引き戻す。

アメリカ映画界の男優は、ハリソン・フォードとか、トム・ハンクスとか、マッド・デイモン、ケビン・スペイシーとか、決して美男ではないが、自然な演技ができる役者が主役を張っている。

かつて映画の主役は美男美女と相場が決まっていた。
ゲイリー・クーパーやイングリッド・バーグマンが全盛期のハリウッドに、ラッセル・クロウやレニー・ゼルウィガーが乗り込んでも、「おまえみたいなブサイク、何しに来たの?」と相手にされないだろう。

いまやアメリカ映画界では、オーバーアクションはもとより、素晴らしすぎるルックスすら、物語の進行の邪魔として敬遠される傾向がある。

アメリカに限らず日本の映画界ドラマ界も、美女はとにかく、絵に描いたような美男が主演の座から、少しずつ遠のきつつある。
だからこそ、草なぎ君がドラマの主役として、もてはやされるのだろう。

ただ視聴者が、そんな業界の美男美女敬遠志向を歓迎しているとは限らない。だからこそ、古典的なハンサムを惜しげもなくテレビドラマに投入してくる、韓流ドラマがブームになった。
年配の女性は、美男に飢えていたのだ。

さて、「自分を殺す、さり気ない演技」と聞いて、退屈な演技を想像される方も多いだろうが、決してそうではない。
自分を殺す、さり気ない演技の大成功例は、「ゴッドファーザー」のマーロン・ブランドの演技である。

貫禄たっぷりで、愛情と残酷さを同時に高いレベルで兼ね備えているマフィアのドンを、マーロン・ブランドは決して大きな声を張り上げたりせず、キレたりもせず、観客が聞き取れるギリギリの、ささやくような声で演じている。

演技のさり気なさがマフィアのドンのリアルな実体感を醸し出し、自分を殺せば殺すほどマーロン・ブランドの無気味な狂気が際立つ。
超ハイレベルな演技だ。

実は、キムタクのつぶやくような演技も、実はマーロン・ブランドの「自分を殺す、さり気ない演技」の延長線上にある。

ところで、塾講師のDVDはどうだろうか?

オーバーアクションの講義が嫌われるからといって、逆に自分を殺しに殺して、授業を淡々と進めたら、ショボイDVDしかできない。

塾講師のDVDを買ってみたら、学校で日常やってるような普通の授業が映っている。それなら世の講師は「これだったら俺でも私でもできる、金返せ!」と憤慨するし、子供は「学校と同じジャン」と落胆する。
DVDを売り物にするなら、ある程度のケレン味は必要だ。

自分をアピールしすぎて演劇的なナルシストに堕ちてはならぬ。また逆に淡々としすぎて平凡な商品として成り立たぬものを売ってはならぬ。
そこらあたりのバランスが難しい。

ところで、最近私が見た、最高の教育映像がある。
これは昭和35年前の物価と、現在の物価を比較した、社会科の講義を収録したものである。
Ryoさんに紹介していただいた。

講師の魅力、ユーモアや語り口、すべてにおいて私の趣味に合っている。
演技もさり気ないし、自分を殺している。でも十分おかしい。

私が授業DVDを作るなら、こういう路線のものを作りたい(無理だけど)
授業をDVDにするなら、これくらいの才気を見せたい。






Last updated  2006/03/29 12:25:28 AM


2006/03/27
カテゴリ:まじめな教育論
いじめの復讐の鉄則は、等価交換である。
言われたら言い返す、蹴られたら蹴る、殴られたら殴る。
いじめられっ子は、いじめっ子から得た苦痛と同じ痛みを返してやればばいい。

ハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を」という復讐法で有名だが、同時にハンムラビ法典は、刑罰の等価交換を示している。

目を潰されたら、相手の目を潰す以上の復讐はしない。
自分が加えられた危害と、犯人が受ける刑罰は等価でなければならない。

ハンムラビ法典は被害を超える痛みを与える復讐を禁じている。ハンムラビ法典が「目には命を、歯にも命を」という法ではないことに注意して欲しい。

だから、ハンムラビ法典に照らし合わせるなら、いじめられっ子がナイフでいじめっ子を刺し殺害したら、それは明らかに過剰な復讐で、等価交換の原則に大いに反する。

もし誰かにいじめられた子が学校に爆弾を投げ、死者が多数出たら、それは1対10万ぐらいの巨額の暴利で復讐したことになる。



さて、少年事件が発生すれば必ず、子供の「想像力の欠如」を指摘する声が必ずあがる。
もし、爆弾を教室に投げたり、ナイフで同級生を突き刺したりしたら、同級生は死んで自分は少年院に入れられ、一生日陰者の暮らしをしなければならない。
事件後には100%、そんな事態が招来するという想像力を加害者が持っていれば、人殺しなんかする必要はない、と多くの人は考える。

しかし、大多数の少年事件は、「想像力の欠如」が原因では決してなく、逆に加害者の「あふれんばかりの強い想像力」が引き起こす。

いじめられっ子たちは爆弾を投げナイフで人を突き刺したら、いったいどんな騒動になるか、自分が今後どんな人生を送らざるを得ないか、認識しすぎるほど認識していた。
しかしプライドの高いいじめられっ子にとって、自分の将来が破滅する恐怖よりも、いじめの首謀者に対する怒りのほうが遥かに強い。

百回殺しても飽き足らぬほど憎い奴の身体が爆弾やナイフで痛みを感じ、子供のように泣き叫びながら、
「いじめてごめんなさい、許して、おかあさ~ん、痛いよお」
と血と涙で身体がグショグショになりながら死んでゆく至高の瞬間の到来を夢見て、いじめられっ子は犯行に及ぶ。

自分の長い人生が破滅することより、憎い奴を殺す甘美な一瞬を選ぶ。
想像力の欠如なんてとんでもない。加害者は想像力に陶酔する。

そんな加害者達は、事件後、絶対に反省の色を見せない。当然だ。

もし殺人が完遂できたら、加害者は達成感に狂喜する。
逆に殺人が未遂に終わったら、いじめっ子が生き残ることを激しく後悔するはずだ。何で殺せなかったのか?
犯行前はいじめっ子として学校で自分に屈辱を与え、犯行後は生き残った被害者として自分の人生の重荷となる。お前なんかのために、オレは刑務所にいるんだぞ! 二重の意味で自分を束縛するウザイ奴だ。

無差別的な復讐は断じて良くない。
だが、学校でいじめられる子の恨みは、いじめの首謀者個人に対するものだけでは決してない。その怨念は、教室という「空間」に対しても向けられる。いじめに加担し、いじめられる自分を冷笑し無視するクラスメイトが作り出す、教室という「空間」を破壊したい。

怨恨がいじめの首謀者に対してだけなら、いじめられっ子は凶器に刃物を使う。しかし教室という「空間」もろとも破滅させたい「いじめられっ子」は、凶器に爆弾を選ぶ。






Last updated  2006/12/06 03:39:35 PM
カテゴリ:まじめな教育論
TOMA先生の「塾の進化」というテーマが面白いので、少々感想を述べさせていただきます。

私は結構ビジネス書を読む。ビジネス書には、「IT産業は進化する」「居酒屋は進化する」「コンビニは進化する」「ラーメン屋は進化する」という具合に、「進化」というキーワードが、うんざりするほど見受けられる。

そんな「BOOK OFF」で100円捨て売りされてるようなビジネス書を読んだ塾の経営者が、「塾は進化する」と格好つけて書きたがるのも、わかるような気がする。
決まって最後には「進化しない塾は生きてはいけない」と、誰に向けられているのかわからないメッセージで締めるところも、ビジネス書の真似だ。

日本中の塾がぶったまげるような試みの具体例を書いて、「おおお、この塾はスゲエなあ、10年先の塾はこんな感じなんだ。見習いたいなあ、進化してるなあ!」と、ガツンとかましてくれるのなら、説得力がある。

しかし、ただ「塾は進化しなければならない」と漠然と、死んだ手垢のついた言葉で書かれているだけでは、説教臭いだけで説得力はない。

「塾は進化しなければならない」と言っている人がもしいるなら、「進化」という手垢のついた言葉を使用している時点で、既存の言葉にしがみつき、人を説得する言葉の開発に「進化」がないことを暴露している。
「進化」という言葉の安易な使用は、使った人間が「退化」していることを皮肉にも表している。

そもそも、大企業の事例が書かれたビジネス書の教訓を、そのまま小さな個人塾に応用するには無理がある。
ユダヤ人と大富豪とか、ドラッカーとかMBAとか、読んでいて確かに面白く、夢をかき立てられるところはあるが、それを直接生のまま個人塾の経営に落とし込むのは、アンバランスな印象を受ける。

塾を拡大して、支店を出して一部上場を目指すのなら、ビジネス書は大きな糧になるだろう。
ただ、私がやっているような小さな個人塾は違う。

たとえばうちは、カウンター10席と、テーブルが2席程度の、小さな寿司屋みたいな塾だ。
小さな寿司屋がお客に満足してもらうために一番やるべきことは、美味い寿司を作ることである。それ以外には考えられない。
美味い寿司を作るためには、あちこち美味い寿司を食べて研究を重ね、自分の技量を上げることが肝心だ。

個人塾が生徒に満足してもらうには、万巻の書に接し、旅をして見聞を深め、音楽や映画で感性を磨き、話し方の研究をし、黙々と教材を作り、手間をかけてテストをこしらえ、粛々と毎日の授業を手を抜くことなく進めていくことだ。
日々の仕事こそが、塾講師の「進化」をもたらす。それ以外に「進化」の道はない。

資本主義社会は確かに弱肉強食の社会である。「勝ち組」の人から見れば、われわれ零細塾の講師は、犬畜生以下かもしれない。
しかし犬畜生から言わせてもらえば、自分の「お金儲けしたい」という私利私欲を、ビジネス書の洗練された言葉でカムフラージュして正当化する人間には、強い嫌悪感を覚える。

また、世の中で大成功を収めている一流の起業家、たとえば松下幸之助氏や、稲盛和夫氏なんかは、文章を読んでいて、私利私欲を超越した、どこか淡々とした印象を受ける。
「進化しない塾はつぶれる」と言ってる人がいたとするなら、もう少し深い思索で、物事を考えて欲しい気がする。






Last updated  2006/03/27 12:56:49 PM
2006/03/24
カテゴリ:まじめな教育論
子供に対する体罰は是か非か? 盛んに議論されてきた話題である。

よく考えたら、教育の場においてのみ、体罰という暴力が「是か非か」と議論されるのは、不思議なことだ。
暴力は絶対的に悪い、というのが世間の共通認識だ。でもどうして教育の場では、体罰容認=暴力OKという論者が現れるのか?

だって、
「企業で上司が部下に暴力を振るうのは是か非か?」 
「老人ホームで管理人が痴呆のお年寄りを殴るのは是か非か?」
「家庭で夫が妻に暴力を振るうのは是か非か?」
そんな議論は聞いたことがない。
誰もが「非」と答える命題だから、議論になりはしない。

「アントニオ猪木がファンにビンタを喰らわせていいか?」 
「浜ちゃんがタレントをはたいてもいいか?」
という命題なら、「まあ、いいんじゃないの」と肯定派のほうが多いような気がするが。

冗談はともかく、
「学校や塾で先生が子供に体罰を振るうのは是か非か?」
という命題になると、たちまち議論が沸騰する。
不思議なことだ。

歴史の叡智は、この世から暴力を消し去ることを選んだ。暴力を振るって罰せられないのは、戦争という地球上で一番巨大な暴力と、子供の喧嘩という地球上で一番小さな暴力だけである。
国家の争いと、子供の争いだけが、暴力という最終手段を選ぶ。そのほかの暴力は穢れたものとして、地球上から抹消された。暴力を振るう者は罰せられる。

では、教師が生徒に振るう暴力は、アリかナシか?
言うまでもなく、ナシである。

体罰はなぜ駄目か?
体罰が、子供の命を奪うからである。

体罰とは、子供の身体に触れることである。身体に触れるということは、相手の身体を支配することである。身体の支配の行き着く先は、相手の肉体を抹消することである。
体罰は子供の「肉体」に手をかけることだ。それは殺しの第一歩だ。だから体罰は非である。

ところで、学校をはじめとして、警察や軍隊や刑務所のような、強者が弱者を「支配」する機関は、暴力の温床になりやすい。
警察も軍隊も刑務所も学校も、警察官・上官・看守・教師という強者が、容疑者・兵隊・囚人・生徒という弱者を管理する機関である。閉塞的な上下関係が生まれやすい機関であるから、体罰が起こりやすい。

学校は、社会の規範的な人物を製造するところだ。
学校とは、生まれながらの餓鬼、すなわち放任しておいたら反社会的な大人になりうる子供に、大人の価値観を強制する場所である。

学校は反社会的な人間を作らない場所であり、警察・刑務所は反社会的になってしまった人間を矯正する場所である。
そういう意味で、学校と警察・刑務所は、同質の意味を持つ。

しかし、警察・刑務所・軍隊と、学校の間には、絶対的な大きな違いがある。
それは、警察・刑務所・軍隊が、人間の「死」を扱う機関なのに対して、学校は人間の「生」を育む機関だということだ。

警察・刑務所には、他人の肉体を損傷あるいは抹消した人間がやって来る。彼らは罰として身体を拘束され、労役に服すことを強制され、首を吊られる。
死刑は究極の体罰だ。
警察・刑務所は、人間の肉体が生々しく官憲や刑務官から支配される、「死」の匂いがプンプンする場所である。

軍隊に至っては警察・刑務所とは比較にならないくらい死臭が漂う場所だ。
軍隊とは集団で、相手国の国民の肉体を地上から奪い去り、自らの肉体を消し去る場である。
上官は兵隊を軍靴で足蹴にし、ビンタを張り、訓練された兵隊は殺人マシンと化し、相手国の兵隊住民を殺し、自分も殺される。

軍隊は人間の肉体が屠殺所のように粗末に扱われるところだ。
軍隊は人間の「死」で成り立っている組織である。

教育の場で、刑務所や軍隊のような、肉体が直接支配される状況は避けねばならない。
教育機関では体罰という死臭を漂わせてはならない。

繰り返すが、暴力の行き着く先は「死」に他ならぬ。

ただいきなり宗旨替えして恐縮だが、私はスキンシップ的体罰は「いいんじゃないか」と思う。むしろ生徒と教師の関係を深める。
逆に「体罰は絶対に良くない、教育者の風上にも置けない!」と、体罰を根本から批難する人に対して、私はなぜだか懐疑の目を向けてしまう。

体罰に対して、アレルギー的に目くじらを立てる人は「言葉で子供を説き伏せましょう。子供は話せばわかる」と言う。
確かにその通り。でも、言葉の力は時に、暴力よりも恐ろしい力を振るうことがある。

たとえば、私は生徒から、頭のキレる人間だとよく言われる。
10代の青少年から見ると、37歳の私は経験も知識も20年分先を進んでいるわけだから。頭がキレる人間に見えるのは、当然のことだろう。

ただ、私が他の大人と違う所があるとすれば、心の中に放射能のような、沸々としたものを誰よりも抱えているところだろう。
私は原子力発電所みたいな人間だ。心の放射能は厚いコンクリートで十重二十重に厳重にブロックしている。

そんな頭のキレる教師が、子供の前でキレて、言いたいことを全部さらけ出して、放射能を撒き散らしたらどうなるか?
特に私は怒ると頭の回転が急速に速くなり、チャーリー=パーカーのアドリブのように、相手に暴言妄言を流暢に長時間浴びせかける。

ビンタ一発の方が、子供のダメージははるかに少ないでしょ?
体罰は悪くて、言葉は良いというステロタイプな判断は、言葉の力を過小評価している。

言葉の暴力は人を殺す。私は言葉で人を殺せると思っている。
寸鉄人を刺す言葉は、相手の身体を蝕む。教師の屈辱的な暴言で、子供の胸は震え、心拍数が増え、胃壁を血で濡らす。怒りで動悸が高まり、目の前が真っ白になるだろう。
文章は、相手の鼻面にパンチを食らわせる以上の効果がある。

特に塾講師は、話し言葉を飯の種にしている人間だ。毎日毎日4時間5時間、講師生活で延べ1000時間10000時間、生徒の前で話し続けている。だから講師の言葉は普通の大人より鋭く重い。

塾講師は「言葉の有段者」だ。剣の達人が素人に剣を本気で振るうのはルール違反であるのと同じように、言葉が売り物の講師が、子供相手に「本気の言葉」を発してはならない。
子供のハートを歪めてしまう。

体罰は恐ろしい。でも「ペンは剣より強し」とはよく言ったもので、時には言葉の暴力の方が恐ろしい。
言葉の暴力は、子供の「肉体」を蝕む。






Last updated  2006/03/24 05:49:25 PM
2006/03/23
カテゴリ:まじめな教育論
開成・灘が東大合格者を大きく減らしたのは既報の通り。開成は21人減、灘は33人減と、前期合格者数で、大きく合格者を減らした。

減少の大きな原因は、難関高校の教師の「怠慢」にあると私は思う。

私が開成中学・高校に通っていた時、学校で宿題を出されたことは、ほとんどなかった。「暗記」の宿題にいたっては、数えるほどしかなかった。

今の開成が、どういう指導法を取っているのかわからないが、開成の先生は、子供を放任し過ぎるように思う。

もっと、宿題"homework"を出したらいいのに、と思ってしまう。

おそらく開成の先生方は、「あなたは生徒を放任していますね?」と聞かれたら、「生徒の自主性に任せています」と答えるだろう。
しかし生徒の自主性に任せることと、生徒を無責任に放任することは、紙一重の差である。

地方公立高校の躍進で、開成の教師が生徒を放任していても東大合格者数がトップ安泰だった時代に、黄信号が燈っている。

確かに開成の生徒の自主性は凄い。あの激しい運動会を見たら一目瞭然だ。教師の指導なしで、どこの高校よりも感動的で男くさい運動会をやり遂げる。
開成の生徒は、単なるガリ勉ではなく、遊ぶ時には思いっきり遊び、勉強する時には瞬時にスイッチが切り替わり、別人格のように真面目になる。

開成高校の教師は、そんな生徒の潜在能力の高さ、自主性の素晴らしさに胡坐をかいてきた。もしかしたら教師の中には、東大合格者数の多さを自分の能力の高さと勘違いした人も多かろう。

開成の先生には、学究肌の人が多い。今はどうか知らないが、ガツガツ勉強して成り上がった人は少なかったように思える。
そんな頭の切れるのんびりした先生と、誰から干渉されなくても自主的に勉強できる生徒は、非常に相性が合っていた。

開成の先生がもし荒れる工業高校へ行ったら、狼の檻の中に投げ込まれた子猫ちゃんみたいにイジめられるだろうし、また逆に開成の生徒を戸塚宏みたいなスパルタン体育教師が教えたら、これまた大いなるミスマッチだ。

実は開成高校の生徒も先生も、東大へ行くことに極度にガツガツした態度を取ることに対して、「恥じらい」の気持ちを持っている。
また、東大合格者数で自分の学校が語られることを、どこか嫌っている部分がある。
今回の東大合格者数の減少にも、「私は東大合格者数の多少で自分を語られたくない」と、淡々と構えている先生が多いような気がする。

確かに、開成の先生の、生徒の自主性に任せるノンビリした態度は、本来の学校=schoolのイメージに近い。

"school"という英単語は、もともと古代ギリシャ語の"skhole"が語源だ。
"skhole"とは、「個人が自由に主体的に使える時間」という意味だ。要するに「暇な時間」ということである。

古代ギリシャでは、人間の営みは、"work"つまり生計を立てるために働く行動と、"schola"働かない時間の活動のふたつに分けられていた。
意外なことに "skhole"は"work"の対義語なのである。

ギリシャ人は働いていない"skhole"な時間を、学ぶことに費やしていた。
このような背景から、"skhole"という言葉は、暇人たちが集まって学び、知識を増やすという意味を持つようになり、"school"という言葉が生まれた。

立身出世のためにガリガリ勉強するのが"work"、知的好奇心の赴くままに学問を楽しむのが"school"ということになろうか。

補習や再テストを繰り返し、先生が機関車のように生徒を牽引することで東大合格者数を上げる公立高校が"work"なら、開成はまさしく"school"である。
"school"である開成に、強制的な"homework"は相容れないのだろう。


ところで、中高一貫制の難関校の生徒は、高校受験が免除される。高校受験がない。

同世代の大部分の生徒が高校受験で忙殺されている時、遊びやゲームやスポーツや読書や映画や音楽やデートに夢中なのだ。
もちろん、勉強している子は、きちんと勉強しているけど。

高校受験のない難関校の生徒が、中3・高1の時期に、遊び呆けていないでもっと勉強すれば凄いことになるんじゃないかと思われるかもしれないが、実は違う。
彼らは15歳~16歳にかけての暇な時間を利用して、知らないうちに教養を貯め込み、涵養しているのである。

そんな"schole"的な、高校受験という「俗世」と接触しない暇な時間が、彼ら15歳~16歳の頭脳をレベルアップする。

難関中高の生徒は、遊んでいる時も暇な時も、世の中の森羅万象から学ぶ癖が抜けてはいない。どんな状況でも、頭の中はグルグル回転し続けている。

「さあ、やるぞ!」と机に向かわなくても、通学途中の自転車の帰り道も、寝転がって音楽を聴いている時間も、一人旅の道すがらも、ゲームにエキサイティングしている時も、贔屓の野球チームをテレビ観戦している時も、昼休みに友人とバスケに興じている時も、鼻くそをほじくっている時も、どんなときも常に、頭脳は吸収している。

知的好奇心の塊の人間にとっては、気合を入れて勉強しなくても、起きている時間が全て勉強時間になる。脳味噌は常に学びのモード、目に映る全てのことが教材だ。

暇な時間が涵養した力は、彼らの国語力に最も現れる。彼らは無意識のうちに脳内に国語力の菌を培養し、他の科目に影響を与える。

いざ彼らが受験勉強を始めた時、国語力は強さを大いに発揮する。
国語力とは人の話を聞く力、誤解や誤読を最小限にとどめながら、本から知識を得る力である。
強い国語力は、まるで吸引力の強い掃除機のように、受験の知識を吸収する原動力になる。

そのうえ、暇な環境から作られた豊かな教養は、突然変異の「閃き」をもたらす。
難関校の難問を解くためには、「閃き」がとってもとっても大事だ。

もちろん教材にかじりついている時間が長ければ長いほど、学力は上がる。
しかし、難問を閃くには、暇な時間が生み出した知識教養の土壌が絶対に必要だ。
単純な物理的な知識の積み重ねだけで難問は解けない。複雑で化学的な知識の変容が求められる。

「閃き」を生み出し、頭に化学変化を起こす暇な時間を作るには、教師が過大な宿題を鬼ノックのように浴びせる環境は、かえって逆効果なのかもしれない、と思う。

ついでに言うと、独創的な「閃き」を生み出す知性は、暇な時間を保障してくれる、静かな環境が生み出す。

それは欧米の大学の立地を見れば明らかだ。イギリスのオックスフォードにせよ、ケンブリッジにせよ、ロンドンから電車で1時間ぐらい離れた、閑静な田園都市にある。
大学の立地は、都会からつかず離れずの、静かな環境が理想的だ。田舎過ぎても駄目だ。都会の刺激臭がほんのり漂っているぐらいの田舎がいい。

日本でも、無数の大学がある京都には、街を少し離れると西田幾多郎が思索の場所に使った「哲学の道」のような閑静な散策場所がある。
京都の町が凄いのは、都会の中に忽然と田舎が現われるところだ。

さて、開成の先生が生徒の自主性を重んじ、勉強に対して口うるさく指示しないのも、暇な時間を生徒に与えることが、学問的「閃き」を生み出す土壌になるという経験則があるからだろう。
私はその考えは、間違っていないと思う。

ただ、改善の余地はある。

一つの方策として、週3時間ぐらい授業時間を「暗記の時間」に当てたらどうか?
科目問わず、あらゆる勉強に必要な暗記事項を、「強制的に」生徒に暗記させる。ゲーム感覚でやってもいいだろう。

暗記は開成の生徒にとって、得意中の得意な分野だ。もともと記憶力は抜群の生徒達である。腰を据えて暗記にかかれば、とてつもない効果が現われる。誰にも負けやしない。

教養の涵養は、生徒の自主性に任せればいい。しかし暗記の時間をちょっとでも設けて、涵養した土地に種蒔きするのも悪くないだろう。
週3回ぐらいの暗記時間では、彼らの貴重な「暇な時間」を妨害し、「閃き」を生み出す涵養された土壌を、砂漠化させることはないだろう。

適度の暗記の強制は、「閃き」を生み出す力をアップする。

(つづく)






Last updated  2006/12/07 04:46:44 PM
2006/03/21
カテゴリ:まじめな教育論
うちの中学生は、社会科の用語は必ず漢字で書いてもらう。
中学校には、定期試験の答案をひらがなで書いてもOKのところもあるが、高校に進学したら漢字じゃないと汎用性がきかないので、私は漢字以外は許さない。

もちろんアメリカを亜米利加、オランダを和蘭陀、オーストラリアを豪太刺利と書けなんて無理は言ったりはしないけど。
イギリスを英吉利、ポルトガルを葡萄牙なんて格好つけて書いたら×になってしまう。

去年の中3の途中入塾してきた女の子に、私が作った「歴史一問一答 500題」をやらせてみると、歴史用語を漢字とひらがなを、巧みに混ぜて書いていた。

「井伊直弼」を「井伊直すけ」、「墾田永年私財法」を「こん田永年私ざい法」、「運慶・快慶」を「運けい・快けい」と、画数の多い難しそうな漢字をひらがなで誤魔化して書いていた。
ピーマンやニンジンが嫌いな子供が、巧みに避けて食べるような感じだ。

まだ「井伊直すけ」「こん田永年私ざい法」「運けい・快けい」ならいい。解読可能だ。

しかし「本おりのり長」は困る。一瞬では拝読できない。
「本居宣長」を我々が一瞬で「もとおりのりなが」と読めるのは、「居」「宣」という2字の印象が強いからであり、その2文字ともひらがなに直されてしまったら、少々手間取る。

中途半端にひらがなが混じった人名や熟語は読みにくい。我々日本人がいかに漢字の絵文字性に依存し、文字を一種の映像として捉えているかがわかる。
本来漢字であるはずの部分が、不純なひらがなに変わっていると、文字を絵文字として一瞬のうちに頭脳に焼き付けることができない。

その上、パソコンで「本居宣長」なら一発で出るが、「本おりのり長」をパソコンで打つのは非常に面倒くさい。「本」「おりのり」「長」と分割して打たねばならぬ。

その子は他にも、「織田信長」を「お田信長」、「聖徳太子」を「しょうとく太子」、「近松門左衛門」を「近松門左えもん」、「吉田茂」を「吉田しげる」と書いていた。

「お田信長」はいかにも弱そうだし、「しょうとく太子」は明太子の親戚みたいだし、「近松門左えもん」はドラえもんの関係者みたいだし、「吉田しげる」は吉田しげる・梶原しげる・松崎しげる・克美しげる四兄弟の長男みたいだ。

あと歴史用語ではないが、小学生の作文はひらがなベースの文章に、漢字が無秩序に混入していて、とっても読みにくい。

ある小学生の作文に「百円きん一」とあったので、生徒の前で朗読するとき、間違って私は「ひゃくえんきんいち」と読んでしまった。
「均」が「きん」に変わっただけで、たちまち文章が読みにくくなる。

以下の作文は、私が作った「漢字とひらがながランダムに混じった、小学生が書きそうな読みにくい作文」の例である。ね、読みにくいでしょ?


ぼくの1ばんのたから物は家ぞくです。そのり由は、家ぞくがいると、じ分でできないことがあったら、相だんにのってくれるからです。てん国のおじいちゃんとおばあちゃんもたからです。家族には健こうでいてほしいです。

2ばん目のたから物は、友だちのしゃ真と手がみです。てん校してしまったけれど、手がみを読むと、友だちと一しょにべん強やうん動をしたことや、え顔を思い出します。友だちのしゃ真と手がみは、つくえのひき出しに、大じにしまってあります。






Last updated  2006/03/21 11:54:40 PM
2006/03/20
カテゴリ:まじめな教育論
私は25歳ぐらいまで、異常に東大コンプレックスが強かった。

私が東京を離れ、地方に隠居生活しているのも、東大のある東京から去りたかった、と無意識に思っていたんじゃないかと、今にしてみたら思う。

やっぱり小学6年生の頃から東大を意識して夢破れると、コンプレックスが強くなるのも無理はない、のかな?

東大コンプレックスが強い私は、25歳まで、地下鉄丸の内線と京王井の頭線に乗れなかった。
理由は、丸の内線には本郷三丁目、京王井の頭線には駒場東大前駅があるからだ。どちらの駅も東大キャンパスの最寄り駅だ。

丸の内線でも、御茶ノ水から新宿・荻窪方面なら平気で乗れた。しかし御茶ノ水駅から池袋へ向かうラインには、どうしても行けなかった。「本郷」という文字を見ただけで、胸が萎縮しそうになった。

京王井の頭線は全く駄目だった。1回大学生の時乗ってみたが、井の頭線に乗っている若者が、みんな東大生のような気がして、この場から消え入りたいような恥辱的な心境になった。

それ以後は渋谷から吉祥寺に行く用事があっても、わざわざ山手線で新宿まで行って、そこから中央線快速に乗り換える、遠回りの道を選んだ。

TVに東大卒の人間が出たら、すかさずチャンネルを変え、目を逸らした。
香川照之・加藤登紀子・桝添要一・草野仁・黒田あゆみ・・・・

小説家に関しては、東大卒かどうかはあまり気にならなかった。というか、日本の文学史から東大卒の作家を除いてしまったら、誰もいなくなってしまう。
夏目漱石・森鴎外・芥川龍之介・三島由紀夫・太宰治・川端康成・志賀直哉・谷崎潤一郎・・・
彼らはみな東大卒だ。

ただ、明治時代の東大の光景が痛いほど出てくる「三四郎」は、正視できなかった。

サンデー毎日の「東大合格者名」が掲載される時期になると、「東大」の赤い大きな文字が目に付かないように、書店の雑誌売り場を避けた。

25歳ぐらいまで、私は情けないくらい権威に弱かった。
よく人は官僚支配を批判するが、私は官僚に選ばれる人間の優秀さと、人に祝福されて学生時代を過ごしてきた人間独特の、ガツガツしない人柄の良さを肌身で知っていたから、「日本の官僚は無能だ」と嘘をつくことは、死んでもできなかった。
そう言った瞬間私は、無能なくせに嫉妬心の強い男であることがばれてしまうと思った。

昔、貴乃花が横綱になってはじめて、明治神宮で土俵入りを披露した時、先日亡くなった父親の二子山親方が、澄ました顔だが感無量の面持ちをしていた。
息子が綱を張って、さぞ嬉しかっただろう。

二子山親方は、内臓疾患もあって、結局大関止まりで現役生活を終えた。
しかし、自分が果たせなかった横綱になる夢を息子がかなえた。自分ができなかった横綱土俵入りを、息子が堂々と披露している。
私も「二子山親方みたいになりたい」と思った。教え子を自分の手で東大に合格させたいと思った。

貴乃花親子は、その後はいろいろゴタゴタがあり、二子山親方は必ずしも世間的には幸福な死に方はしなかったが、息子が土俵入りした瞬間を見ただけでも、私なら「この世に生まれて良かった」と、幸福の余韻を残して死ねるだろう。






Last updated  2008/03/30 05:23:53 PM
2006/03/18
カテゴリ:まじめな教育論
近所のある塾から、うちの塾に転塾した子は定期試験の点数が下がる。
転塾したての頃は、5教科450点の子が380点ぐらいに減る。

それは近所の塾が、定期試験の過去問を集めて、解かせているからだ。

私は絶対に定期試験の過去問は解かせない。というか過去問を汚物扱いする。

南の海の音がする先生のブログを拝見して、過去問を解かせることを、私以上に強い意思で拒絶する先生が存在することに心を打たれた。

われわれ塾の仕事は、中学高校大学入試で、合格点を取らせることである。
入学試験には同じ傾向の問題は出るが、全く同じ問題は出ない。
日常的に定期試験の過去問を解かせて、実力以上の点数を取らせることに、何の意義があるのか、さっぱり理解できない。

南の海の音がする先生が仰るとおり、定期試験の過去問を解かせることは、カンニング以外の何者でもない。卑劣な行為だ。真の学力をつける行為ではない。

そんな勉強法を取って、中学生時代に定期試験で実力以上の点数を出していた子は、高校に入って自分本来の力に気付き、愕然とするのではないか?

また、テストを使い回しする学校教師は、いったい、どういうつもりなのか?
テストを作る手間を惜しんでいるのか?
自分の手抜きが、塾側に悪用されている事実に気付いているのか?

学校の先生は毎回テストを作り変えなければならないし、塾は過去問を解かせるという行為を止めなければならない。そんな当たり前のことができていない。

学校教師の手抜きと、塾講師の破廉恥さが作り上げた通知表の評価で、内申点という公式文書が作られ、高校入試の判断基準になる。
これでは真面目に勉強して来た子がかわいそうだ。

即刻、改善していただきたい。

なお、南の海の音がする先生のこの日記、学校教師批判で、これだ見事な切り口のものに、私はあまり出会ったことがない。






Last updated  2006/03/18 02:03:29 PM
2006/03/17
テーマ:人間関係(748)
カテゴリ:まじめな教育論
私は個性的だとよく言われる。人嫌いだし、感情の起伏は激しいし、言葉もきつい。
おそらく、一緒にいて疲れる人間だと思う。

私を嫌う人間は、個性が強いというオブラートに包んだ言い方ではなくて、変人だとか偏屈だとか傲慢だとか、悪意のこもった言葉で中傷してくる。

ところでここ数年、子供の個性を尊重しましょう、個性的な人間に育てましょうと巷では言われている。
文部科学省や地方自治体の教育委員会でも、「個性」をスローガンに掲げているところが多い。

個性的な人間とは、私のような人間に他ならぬ。一歩間違えると変人偏屈な大人のことだ。周囲に毒を撒き散らす変な奴のことだ。

文部科学省は、私のような「個性的な」大人を役所ぐるみ、学校ぐるみで育てたいのか。
日本の教育行政が教育機関で育てたい理想の人間とは、私のような男なのか?

お役所から子供の目標にふさわしい理想の人物像にされ、非常に光栄なことである。日本中の大人が全員、私みたいな狷介な個人塾経営者になればよい。

冗談はさておき、真に個性的な人間は、就職が決まって髪を切っても、制服に身を固めても、黙っていても、個性のオーラがにじみ出る。自分の個性から逃げ出すことはできない。
真に個性的な人間とは、個性が皮膚の毛穴から常に湧き出し、粘液を出し独特のにおいを放つ。

そんな人間は不幸だ。強い個性は凡人から距離を置かれ、凡人の仲間の輪に上手く溶け込むことができない。
個性的であるということは。言い方を変えれば、他人と違うということだ。
「どうして僕は普通じゃないの?」
自分の個性に羞恥心を抱く。自分の個性を呪う。

ところが、真に個性的な人間の寂寞感など想像もつかない平凡人たちは、ときおり個性的な人間に憧れ、よせばいいのに、個性的な人間を演じたがる。

平凡な人間が奇抜な髪型や服装で身を固め、刹那的な奇矯な言動で個性的な人間を演じても、すぐに見破られてしまう。
平凡人は、個性的な人物を演じても、イミテーションの個性に疲れたら、平凡さの安住の地へいつでも帰ることができる。

しかし真に個性的な人間はそうはいかない。個性的な人間にとって、個性とは運命共同体で、帰る場所などどこにもない。

平凡人の「個性」は髪型を変え服装を変え言動を変えたら消え去る。
しかし真に個性的な人間の個性は、頬のホクロのように、死ぬまで消えやしない。

個性が弱い人間なら、学校教育というやすりで研磨されることで棘がなくなる。
中途半端な個性が消え、子供が成長していく上で平凡さを身に付けることは、意外と思われるかもしれないが、実は幸福なことだ。

でも真の個性は、学校教育ごときで棘は消えない。縛られることでますます棘を尖らせてゆく。

そんな棘だらけの個性は不幸だ。棘があるから自分を防御できる。しかし反面棘があるから人が恐れて寄って来ない。

そして最も恐ろしいのは、個性の99%は「社会」や「世間」で必要とされていないことだ。
「社会」や「世間」で必要とされる個性は、実は「ゼニ」になる個性だけなのである。

イソップ物語の、アリとキリギリスの挿話がある。
私はこの話を、アリは平凡だから幸福で、キリギリスは中途半端に個性的だから不幸のどん底に落ちる話だと解釈している。

キリギリスは怠け者では決して無い。キリギリスはヴァイオリンの腕がある。
ヴァイオリンという楽器は、3歳4歳から英才教育を施さないと弾けない。キリギリスはヴァイオリンのため、幼少時から努力を続けてきたのだろうう。
ヴァイオリンの腕は、キリギリスの個性だ。

キリギリスの不幸は遊んでいたことではない。ヴァイオリンの腕で銭儲けできなかったことだ。
キリギリスは個性的ではあったけど、その個性が金を産むほど個性が輝いていなかった。圧倒的ではなかった。それがキリギリスを死に至らしめた。
キリギリスが、他人に喝采されるハイフェッツやオイストラフのような猛烈な腕のヴァイオリニストだったら、キリギリスは野垂れ死ぬことはなかったろう。

孤独な個性的な人間は、孤独な者同士の過酷な競争が待っている。ヴァイオリンでゼニ儲けできる人間は限られている。

皮肉なことに、個性的な人間同士の競争を審査するのは、実は平凡人である。大衆という名の平凡人の集団である。
平凡人は残酷に、「こいつは上手い」「アイツは下手だ」とゴミを分別するかのように、個性的な人間を審査する。

平凡人のアリは、キリギリスのヴァイオリンの腕が大したことなかったから、キリギリスを見放し、キリギリスの死体を食べた。
もしアリがキリギリスの腕に、ゼニ儲けができる価値があると判断したら、キリギリスを使って一攫千金を狙っただろう。
キリギリスのヴァイオリンは、平凡人アリの審査で、落第点を与えられたのだ。

結論。
子供に個性を求めてはならぬ。個性は絶対的に人を不幸にする。






Last updated  2006/03/17 05:27:14 PM
2006/03/16
カテゴリ:まじめな教育論
「ドラゴン桜」を読んで、一番影響を受けたのはたぶん、高校生自身ではない。
むしろ高校の先生のほうが、「ドラゴン桜」という漫画に素直に感化されたんじゃないか、と思う。

たとえばもし、私が地方の公立高校の教師だったら、絶対に「ドラゴン桜」の影響を受ける。間違いない。
阿部寛が乗り移ったような、東大一直線教師になるだろう。

というのも、私は小さい頃から青春ドラマが好きだった。「飛び出せ!青春」の村野武範みたいな熱血教師を格好いいと思った。
教師になって、クソ生意気だが骨のある、剛たつひとや石橋正次みたいな思春期の若者と喧嘩し、仲直りをして共に涙を流すシチュエーションに憧れた。

また私はスポーツができないくせに、スポ根マンガが大好きだった。
「あしたのジョー」や「巨人の星」や「スラムダンク」や「やったろうじゃん」や「はじめの一歩」や「MAJOR」は大好きな漫画である。

だから、私がもし高校教師になったら、クラブの鬼顧問になりたい気持ちを人一倍持つだろう。高校生をビシビシ鍛えてやりたい。

しかし残念ながら私は運動神経が鈍い。特に球技はからきし駄目だ。野球部の顧問をやってノックをやろうと思っても、バットに球が当たらない。ノックバットで空振りする顧問に野球を教える資格はない。

サッカーになるともっと駄目だ。小学生のとき、友人達とサッカーをする時は、いつもキーパーだった。私達が子供の頃はキーパーに対する大きな誤解があって、肥満児がキーパーをやるケースが多かった。表面積が広いから、ボールが当たる確率が高いと思われていたのだろうか?

また、私は太っているから、柔道や相撲や合気道の顧問ならできると思われるかもしれない。
しかし悲しいことに、私は格闘技の経験がないただのデブだ。私が格闘技系の顧問なんかやったらぜすと艦長先生のような格闘技の専門家で、高校に対して厳しい目をお持ちの塾の先生から
「あの高校の柔道部は、格闘技のイロハも知らない巨大ミジンコデブが顧問をやっている。どうしようもない」
と舌鋒鋭く非難されるだろう。

そんな情けない私には運動部の顧問はできない。
だから、ただ淡々と授業をやって家に帰る、生き甲斐を持てない高校教師になっていただろう。

そんな閉塞された高校教師の私を、「ドラゴン桜」は変えた。

(つづく)






Last updated  2006/03/17 12:01:17 AM
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