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まじめな教育論

2006/07/14
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カテゴリ:まじめな教育論
芝居は楽しい。良い芝居は演者と客が一体化する。

良い芝居は、舞台上の演者の輪の中に、客を完全に食い込ませる。客は芝居の世界に自分の居場所を見つける。芝居小屋は家になり、役者と客は家族になる。

だからこそ良い芝居は、芝居が終わったあとの反動が大きい。芝居の親密な小宇宙からひとり取り残されたような猛烈な孤独を客は感じる。芝居終了後客に猛烈な孤独を感じさせる芝居こそが良い芝居である。

ところで最近、学校で芝居をする機会が減ったような気がする。

私はもっと学校で芝居に力を入れてもらいたいと思う。小学校・中学校では、1年に2~3回は芝居をする機会を与えてほしい。
芝居は子供を成長させる踏み台になる。

子供に芝居を演じさせる利点は、まず第1に国語力がつくことだ。
暗記暗唱は学力向上のための最大の方法であろう。英文を暗唱し古典を暗記することは、学力向上への近道だ。
芝居を演じるには台本を完璧に「暗記」しなければならない。上質の台本を記憶し演じることで、必然的に国語力が上がるのは道理だ。
芝居とは、良いテキストを暗記暗唱させるための最高の手段である。

第2の利点は、芝居を演じると人前で物怖じしない度胸が身につくことである。
大勢の観衆の前で正面を向き、台詞を口にすると最初は緊張する。
しかし自分の発した台詞で、或いは自分の体の動きで観客を感動させ、笑いを取る快楽は何者にも変えがたい。
ふだん子供は学校で知識のinputばかりで、outputの機会があまりない。芝居は子供が自分を表現する手頃な手段だ。

第3は芝居は子供の団結力を高め、達成感を与える。
芝居には人手がかかる。役者・脚本・演出・舞台装置・照明・大道具・小道具・衣装・メイク・宣伝・・・・
多くの人間の努力と才能とアイディアが渾然一体となり、優れたリーダーの下に団結しなければ良い芝居は生まれない。また芝居のために汗水流し、観客から熱い拍手を浴びた時の達成感は何者にも変えがたい。

第4、これが一番重要だが、芝居は子供の「人格力」を高める。
芝居の役柄になりきり、舞台上で別人に憑依すれば、演者は役柄の人物のエッセンスを吸収し、強い影響を受ける。
良い人を演じれば、子供は良い人になる。

また役柄の人物の所作や立ち振る舞い、言葉使いを子供は芝居を通して身体で覚える。
若者の言葉使いや態度が乱れていると言う大人は多いが、どんな言葉使いが人に好かれ、どんな振る舞いが賢明か、大人は若者に模範的な「形」や「手本」を示せずにいる。
形や手本を示さずにただ「最近の若者の言葉使いはなっとらん!」と否定するだけで難癖つけるのは、まるで吉良上野介みたいな陰湿な態度である。
芝居を通して子供の頃に、自分以外の人物になりきる訓練をしておけば、成長した時「引き出し」が増えるような気がする。

ところで、学校が最近芝居に熱心でないことは、おそらく学校内で左翼教師の力が低下したことにも原因があるだろう。
左翼運動の啓蒙は芝居を通して行われた。かつて左翼演劇の説得力は、民衆を熱狂させた。
それと同じく、左翼の平和教育や平等教育の血肉化に芝居は大きく手を貸した。これは戦前の皇民化教育の手法をそのまま踏襲したものである。

戦前も戦後も、学校ではイデオロギーを子供に染みさせるために芝居を利用した。芝居は子供の頭も心も体も呪縛する。芝居は子供を洗脳する手段としては最高の装置である。芝居にはわれわれの想像以上に危険性を持つ。

でも逆に言えば、子供を正しく「洗脳」するには芝居ほど効果的な装置はない。
芝居は子供を洗脳する毒薬だ。しかし同時に子供に「形」や「規範」を叩き込む良薬にも成り得る。






Last updated  2006/07/14 06:56:53 PM


カテゴリ:まじめな教育論
高校生から、高校の授業が眠いという話をよく聞く。
生徒が授業中寝ているのは、絶対おかしい。
教える側は、子どもの貴重な時間を奪っているのだという、「罪」の意識を持ってほしい。

ところで私は「勉強濃度」という数値にこだわってみたい。
「勉強濃度」とは、一定の時間に、どれだけ濃い勉強ができるかを示す数値である。

1時間の授業で、生徒が最初から最後まで爆睡していたら「勉強濃度0%」
きちんと授業を聞いて、ある程度満足感を覚えたら「勉強濃度80%」
ということになる。

授業を充実させるのが勉強濃度を高める最適の策であることは言うまでもない。
ただし、授業だけで勉強濃度を高めようとしても限界がある。
特に数学に関しては、どんなに立派な授業をしても、すべての生徒に同じ満足度を与えることは不可能である。数学という科目には歴然とした学力差がある。

同じ数学の授業を受けるにしても、理解できる子には勉強濃度80%、しかし分数の計算も覚束ない子にとっては、勉強濃度は1%ということになる。
逆に勉強ができる子が、簡単すぎる授業を聞く時の勉強濃度は下がる。内容が薄すぎて無駄な時間を過ごす事になってしまう。

そう考えてみると、個別や家庭教師が、勉強濃度を高めるためのベストな方法なのだろうか?

とにかく授業中、生徒に濃い時間を過ごしてもらう工夫をしたい。
勉強濃度を高めるシステムの構築し、実践したい。
アルコール度数の酒は少量でも酔えるように、勉強濃度の高い授業やシステムがあれば凝縮した短い時間で子供に満足感を与えることができる。
幸い、某書でフィンランドの学校の授業のルポが掲載されていた。面白そうだ。少し真似をしてみようと思う。






Last updated  2006/07/14 01:11:44 PM
2006/07/10
カテゴリ:まじめな教育論
3歳の子供に対して、父親が大声で怒鳴りながら泣かせて勉強を教えたら、それはかなり異様な光景だろう。

しかし、狂言の野村萬斎は、3歳で舞台デビューする自分の息子を、怒鳴り上げ泣かせながら稽古していた。
3歳の男の子は初舞台で子猿を演じる。子供が一生懸命「キャッ・キャッ」と叫んでも、野村萬斎は狂気を含んだ厳しい目で子供を見据えながら、「駄目だ」とよく通る声で叱りあげていた。

お父さん野村萬斎は「キャッ・キャッ」と子猿というより狼みたいな怖い声で見本を示す。子供が「キャッ・キャッ」と可愛い涙声で叫ぶ。
そんな親子の格闘が、テレビで映し出されていた。

ところで、子供に厳しく勉強を教える父親に対して、私は病的なものを感じる。
父親が会社や組織で不遇感や疎外感を味わっている。その復讐を子供の教育にぶつけるケースが多い。
子供から「父さんはオレを利用して社会に復讐しようとしてるんだろ!」と言われても仕方ない教育熱心ぶりだ。

自分を冷たくあしらった巨人軍に対する複雑な感情を、息子を鍛え巨人軍に入団させることで晴らそうとした星一徹みたいな父親には、男同士の近親相姦みたいな、歪んで淀んでひねくれた不潔な匂いがして、私は強い嫌悪感を抱く。

しかし野村萬斎親子の厳しい稽古には、逆に心地よい清涼感を覚えたのはなぜか?






Last updated  2006/12/06 03:24:08 PM
2006/07/07
カテゴリ:まじめな教育論
パンチ力と、抜き身の刀のような鋭さを合わせ持つ授業がしたい。

3時間の長丁場の授業なのに、知的な話術と爽快なスピード感がみなぎるおかげで、体感時間がたった30分、そのくせ10時間分の濃厚な充実感を得ることができる授業。
そんな授業ができたら、子供の学力は驚異的に伸びるに違いない。

勉強ができる子に対しては知的刺激をふんだんに与えると同時に、勉強にそれほど自信がない子にも上昇志向と向学心をもたせる授業。

そんな授業をしたいな。






Last updated  2006/07/07 04:43:53 PM
2006/07/04
カテゴリ:まじめな教育論
私が求めてきたライフスタイルについて話そう。

私は中学校・高等学校を通して、登校拒否の気があった。
小林秀雄は「世捨て人は世を捨てた人ではない、世に捨てられた人だ」と言っていたが、今考えると私も「登校を拒否した人ではなく、登校を拒否された人」だったのだろう。

アクの強い人間は毒をまわりに放つ。まわりの人間は毒を恐れて近づかない。やがてアクの強い人間は孤独になる、学校を避ける。
自分の意思で登校を拒否したのではない。アクの強い性格のせいで居場所がなくなったのだ。

とにかく極度な学校嫌いになり、進級会議に引っかからないギリギリの限度だけ出席して、あとは野球場と映画館に入りびたっていた。
塾へも小6の時1年間広島の進学塾へ、高1のとき半年間代ゼミの本校へ行ったきりだ。

友人も深くつき合える3~4人を除いては表面的にしか会話をしなかった。私は人の好き嫌いが異常に激しく、自分と向き合えない軽薄な人間が大嫌いだ。相手方はもっと私が嫌いだろう。とにかく社交的とは程遠い性格だった。

私は人嫌いだ。小林秀雄風に言えば「人が嫌いな人間」ではなく「人に嫌われる人間」なのだろうか。

そんなわけで、私は集団生活ができない。また教師という人種に、学校生活を通じて生理的嫌悪感を強く抱いていた。

こんな性癖を持つ私が目指したライフスタイルは、「人といかに接触を少なくして食っていくか」ということだ。
企業への就職は、私にとって奴隷になるのと何ら変わりない苦痛だった。
ただフリーターのように、企業に安い賃金で酷使されるだけの存在になることは潔しとはしなかった。

だからこそ「個人塾の塾長」は、まさに私にうってつけの職業だ。天職だ。

相手にする人間は純粋無垢な田舎の子供だけ、サラリーマンのように嫌な上司に我慢することもない。何のしがらみもなく、自分が正しいと思ったことを素直に口にできる。

今の私は、自分の理想の生活を送っている。青春時代に自分が望んだ以上の、信じられないような生活だ。

自閉症的な性格を持つ私のような人間がやっている塾に、何故子供が来るのだろうか、親が子供を預けるのだろうか、そんな不思議な感触にとらわれつつ、日々を過ごしている。

そして最近、私の個人主義的な性癖が、現在の「自己中心的」な子供達の感性と、不思議に合うことに気がついた。もしかしたら私が自分の短所だと思っていたことが、特定の子供に受ける原因かもしれない。

私は自分の個人主義的ライフスタイルを絶対に守りたい。私がもし塾を拡大する場合があるなら、私の現在の幸福を脅かす異物の排除が目的だ。

でも、そんな偏屈な私にも最近、「社会的貢献」を成さねばならないという、どこからともなく湧き上がった衝動に突き動かされた。
自己を核とする小宇宙的を形成し、そこには誰も立ち入らせない、また自分からも出て行かないライフスタイルに疑問を感じた。正直言うと飽きがきた。
何か、教育界に爪痕を残す何かができないだろうか。

無名の人間が世の中を動かす最善の方法は、1に暴力、2に言論だというのが私の持論だ。
ただ暴力というのはあまりに突飛で非現実的、かつ共感を得づらい手段なので、ブログでものを書くことが、自分にできる等身大の実践だ。






Last updated  2006/07/04 05:49:14 PM
2006/07/03
カテゴリ:まじめな教育論
「天才」という言葉がある。「天才」とは「今まで誰も考え付かなかったモノを生み出せる」才能のことである。

文学や音楽や絵画の世界では「天才」以外は食っていけない。文学や音楽や絵画を愛好する人は「天才」にしか興味を持てないし、「天才」の作品にしか金を払わないから当然のことだ。

「天才」に必ずしも師匠は必要ない。「天才」の才能とは、師匠から弟子へ伝わるものではない。「天才」の才は伝承しない。個人から突然生まれてくるものだ。

だから、毎日のルーティンな授業や、厳しい訓練から「天才」は生まれてこない。「天才」は教育機関には似合わない。
文学部へ行っても誰もが小説家になれないし、美術学校へ行っても絵描きになれるとは限らない。小説家や音楽家や画家を確実に育てることを保障する教育機関はない。「天才」は教育機関の外部から、しばしば登場する。

繰り返す。文学や音楽や絵画で成功するには「天才」でなければならない。
では「天才」になるためにどういう努力をしなければならないか? 
そもそも努力してなれる才能を「天才」とは呼ばない。しかし努力はしなければならない。努力をすれば眠っていた「天才」を発掘できる可能性がある。
しかし勉強の世界とは違って、自らの「天才」を開拓するためには、努力の方法も独自のものでなければならない。

ミュージシャン志望の人間が一流になるためには、音楽理論を学び、楽器の腕を上げるよりも、クスリに手を染めた方がベターであるケースもある。単身NYで放浪し精気を吸った方が成功への近道になる。
文学や音楽や絵画で成功するには、努力の方法もオリジナルで「ぶっ飛んで」いなければならない。努力の方法で模索し悩む。

しかし勉強の世界は違う。勉強とは師匠から弟子へ、先生から生徒へ、参考書から脳味噌へ、知識や思考回路をそのまま伝承することに他ならない。
勉強には「今まで誰も考え付かなかったモノを生み出せる」才能は要らない。勉強とは「今まで誰かが考え付いたモノを素直に受け取る」作業だ。

音楽や芸術や小説の世界で成功するには「人の真似はしてはならない」か「人の真似はある程度するが、それに独創性を加える」必要があるが、勉強の世界で高い学力を上げるには「人の真似をしなければならない」のである。

文学部へ行って「真面目に」努力しても実際に小説家になれる人間は少ない。しかし法学部や理学部や工学部や医学部で「真面目に」教授や先生の言いなりになっていれば、希望の職業に就ける。真似をする努力が自分を高める。

勉強の努力は物理的な積み重ねの努力である。しかし小説や音楽や絵画で飯を食うには自分の中で化学的な「変異」を待たなければならない。時には爆発しなければならない。

芸術家の大爆発は岡本太郎氏のように面白い作品を生み出し見る者を喜ばせる。
しかし外科医が手術中に大爆発を起こしたら患者が困る。
手術中の医者は自分が勉強した内容の忠実なしもべでなければならず、オリジナリティの発揮は学んだ内容の延長線上でなければならない。

もちろん医学や理学や工学や社会学にも「天才」は必要だ。しかし医学や理学や工学や社会学では「天才」の真似でも食っていける。天才は1%存在すればいい。「天才」以外の人は模倣に徹すればいい。模倣こそが人の役に立つ。そして「天才」の模倣の過程を努力と呼ぶ。






Last updated  2006/07/03 04:58:23 PM
2006/06/30
カテゴリ:まじめな教育論
個人塾やってる私が言うのもなんだが、個人塾の門を最初にたたく時、お母さんや子供は怖いんだなあと思う。

大手塾なら1階がガラス張りになっていて、中ではネクタイ姿の先生や、制服を着た事務の女性がテキパキと仕事をしている姿が見える。ドアを開けても洗練された反応が返ってきそうだ。
また、講師がズラリ玄関前に並んで送り迎えしている大手塾もあり、それならどんな人が子供を教えているのか一目瞭然で、尚更入りやすい。

しかし個人塾は違う。個人塾の先生は怪しい。私が以前個人塾の長渕剛で書いたように、個性的といえば聞こえはいいが、とんでもない人物が先生だったりする。

だから雑居ビルの3階4階にある個人塾にお母さんや子供が最初に訪れる時は、塾長がどんな人かわからないので、興味と恐怖で心が一杯になり、コンクリートの階段を上がりながら肉体の疲れだけでなく、緊張で息切れしてしまうだろう。

お母さんが個人塾のドアを開ける。「ごめんください」と言う。中から反応は無い。もう一度今度は少し大きな声で「ごめんください」と叫ぶ。奥から「は~い」という声が。塾長だろうか。足音が近寄ってくる。スタスタ。どんな人なんだろう・・・

こんな具合だから大手塾のほうが親しみやすく、個人塾は取っ付きにくいと考えるのも道理だ。

商店でもそうである。スーパーやコンビニは自由に入れて、何も買わなくても遠慮なく出られる。「来るものは拒まず、去るものは追わず」といった感じだ。

逆に個人商店は入りづらい。入った途端に商品をしつこく勧められるとか、あるいは古本屋みたいに偉そうなオッサンが店の奥で腕組みしているとか、買わないと嫌味を言われそうだとかで足が遠のく。

またコンビニやスーパーのいいところは、1万円札を出しても何も言わずお釣りをくれることだ。1万円出してガム1個買っても嫌がられない。だから買い物する時、ついついコンビニやスーパーに足が向いてしまう。

しかし個人商店では1万円札を出そうものなら、「細かいのはありませんか」「928円のお買い上げですが、8円お持ちじゃないですか」と批難されそうで困る。個人商店にはお釣りの出し方1つにしてもローカルルールがあり、客は店独自のルールに合わせなければならない。
大手のチェーン店なら、どこでもルールが同じだから気をつかうことが無い。

個人塾にも塾長の個性の匂いがプンプンする独特のルールがあって、保護者や子供がそれに合わせなければならない。
それが嫌だから入塾を躊躇してしまうケースが、結構多いような気がする。

だから個人塾のルールはkamiesu先生の塾のように、普遍的で理に適ったものでなければならない。また、ある程度個人塾は、HPやブログで自塾の雰囲気を公開するのが望ましい。

私の塾のように、得体の知れない伏魔殿のような塾はそれはそれで面白いが、普通の方には怖いだろう、と思う。






Last updated  2006/06/30 06:03:30 PM
カテゴリ:まじめな教育論
齋藤孝が言うところの「教育欲」は、一定の年齢に達した人なら、ある程度は持ち合わせていることだろう。
ビジネスマンは後輩社員に、高校野球の監督は選手に、学校教師は生徒に、相撲の親方は力士に、落語家は弟子に、教育欲のはけ口を求める。

ところで、明治以降武士は俸禄を停止され、武士階級の特権もなくなり不満が嵩じた。不満のはけ口をある者は西南戦争をなどの不平士族反乱に求め、またある者は自由民権運動に携わることで解消しようとした。

しかし多くの士族は、自分自身の現世での出世栄達を諦め、夢を子供に託した。没落士族は現状の不満を子供の教育でぶつけたのである。
おりしも当時のベストセラー福沢諭吉の「学問ノススメ」は、学問を修めることが立身出世の王道である事を説き、多くの士族の共感を得た。
福沢諭吉のアジテーションに感化された武士階級は、子供の教育に力を入れた。没落武士の「教育欲」は、自分の現世での不遇に対する怨念とあいまって強い欲望になった。

親の強い「教育欲」の結果、学問に励んだ子弟達は、官吏や軍人、或いは実業界で活躍するようになり、富国強兵・殖産興業の原動力となり、明治の日本の隆盛を築き上げる力になった。
自分に代わって息子を出世させたい親の執念が、産業の未曽有の発展を成し遂げた。

結局、没落武士の「教育欲」は、自分達を武士という特権階級から引きずり下ろした明治新政府に、息子を人材として送り込むことに結びついた。なんとも皮肉なことである。






Last updated  2006/06/30 05:00:07 PM
2006/06/29
カテゴリ:まじめな教育論
高校生のとき、学校サボって図書館で読書に励んでいたら、ある本の中に「民族別知能指数」という恐ろしげなランキング表があるのを見つけたことがあった。
民族のIQを、まるで大学の偏差値表のように上から順番に並べたものだ。

それによると、

1位 ユダヤ人(ダントツ)
2位 日本人
3位 中国人

で、その続きは忘れてしまった。
どうせこんなのは、ユダヤ人が調査した結果なのだろうから、1位がユダヤ人という結果はユダヤの陰謀で、実質日本人が1位なんだろうと勝手に解釈する。

そして、表の一番下には

黒人
プエルトルコ人

と書いてあったと記憶する。
刺激的な本だった。

ところで、最近の小学校では子供にIQ調査をしているのだろうか?
私は小学校でIQを調査された記憶がある。小学校の時は体育館で迷路のクイズをやった。今思うとあれはIQ調査なのだろう。結果は知らされなかったけど。

偏差値や学年順位は、子供の努力で上下する数値だからテストをバンバンやって公表してもいいのだろうけど、知能指数は先天的絶対的能力だから困る。

いま、子供のIQを調査することはタブー視されているのだろうか?

たとえば「男女の間に、IQの差はあるのか?」という調査1つをするにしても、見えない圧力で厳しく戒められているような気がする。

あと、私は島で塾を開いているが、ある人が
「うちらは島じゃけえ、血が濃ゆうて、知的障害持った人間が多いわ」
という恐ろしい説を唱えていた。

確かにうちの島では、「金」や「李」や「朴」という苗字が圧倒的に多い韓国・北朝鮮みたいに、特定の苗字が異常に多い。
4つの苗字だけで、島の人口の70%ぐらいを占める。

韓国だと、同じ「金」姓の中に「本貫」という細かい区別があって、同じ「本貫」同士では結婚できないと聞く。
韓国ではそんな工夫をしながら、「血が濃くなる」ことを防いでいるのだろうか?

ところでもしかしたら、雑多な人間が集まる都会と、閉鎖された空間で「近親婚」が続く島と、どちらのIQが高いのか比較実験している研究機関もあるかもしれないが、公表したら大騒ぎになるだろう。

たとえ調査していたとしても、興味本位で語られやすい内容だから、調査結果は象牙の塔の塀の中に隠しておいた方が、賢明だと思うけど。

それはそうと、私は自分の知能指数が知りたい。小学校の倉庫の奥のファイルに調査結果が残されているのだろうか?






Last updated  2006/12/06 03:26:17 PM
カテゴリ:まじめな教育論
東大寺学園高1の放火殺人事件について、いましばらく、牛歩のようにじっくりと考察を進めてみたい。まずは当たり前のことから整理しよう。

いまでは、塾や学校が親から子供を預かり、親以外の大人が学力の成長を全面的に担当するようになった。
親が直接子供に勉強を教えることは稀で、学力向上は塾や学校に任せるのが当然だ。

でも子供の教育に関する「分業」が成立したのは、よく考えてみれば時代的に新しいことなのかもしれない。

昔は、仕事のノウハウは親が家で教えた。親が子に職業技術を教えるのは当然の事だった。
原始人は狩猟のやり方を、百姓は田植えを、漁師は魚の取り方を、鍛冶屋は鉄を打つ技術を、親は子の手を取り直接教えた。

身分が固定していて、親の職業を子が継ぐのが当たり前だった時代、父親は親と教師を兼ねていたのである。

現在では、子供は大きくなると親離れするのが当然のように思われているが、昔の子供は親離れすることは稀だった。親と子は死ぬまで一緒に暮らしていた。

確かに戦国時代になると一旗揚げるために鍬を刀に変え戦いに出る若者は増えたし、また江戸時代には江戸や大坂といった都市に移住する百姓の次男三男が後を絶たず、居住の流動化が進んだが、多くの人は一生同じ土地や家に定住したわけで、生まれた家はイコール死ぬ家だった。

ところが明治以降、身分や職業が流動的になると、子が親の職業を継ぐ割合が少なくなった。
全国に学校ができて、公務員とか軍人とか江戸時代に無かった職業も増えた。
社会構造は大幅に変化し、子は親よりも上のステージの職業を目指すようになり、そうなると親が持つ職業知識は子には不要なものとなった。
農民の父には、軍人の子は教育できない。

社会の「進化」及び近代の到来が、親と子を引き離した。子供は一定の年齢になったら親と別居し、親は子供に職業技術を教えるケースは少なくなった。

近代以降、子供には将来の職業の可能性ができた。子供は親の跡を継がなくてもよくなった。そんな環境の転回が、直接子供を手取り足取り教育するステージから、親は退場を余儀なくされた。
子供に職業技術や勉強を教える役目は、教育機関に一任されたのである。






Last updated  2006/06/29 08:19:11 PM
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