ちゃと・まっし~ぐ~ら~!

2006/08/04(金)17:00

「ひとりプロジェクト」(4)

美容と健康(21)

くだんの「禁煙セラピー」という本の話。 「タバコをやめようかな」というタイミングでこの本に出会ったのは、やっぱりそういう時期であり、縁だったと思っていいのだろう。 但し、自分の気持ちははっきりしていたわけではない。 「やめようかな」「やめるしかないかな」という曖昧な逡巡を行きつ戻りつの状態。 「今回こそはやめるぞ」というような気合は一切ないまま、本を読んでしまったのが実際のところだ。 この本は、自分自身が1日100本の元ヘビースモーカー&元会計士のイギリス人、アレン・カー氏がある日を境にすぱっと禁煙した体験から書かれ、日本では平成8年の6月に翻訳版の初版が出てから加筆・修正を経て、私が買った平成18年3月の重版分がなんと205冊めとは、それほど「タバコをやめられたら」と漠然とでも思っている人たちが多いということの裏づけだろうか。 著者は本職をやめて禁煙セラピーを主宰し始め、拠点は今や世界各地にあり、この本だけではタバコがやめられない人たちは、彼のメソッドによるセラピーに通っているそうだ。 この本はそのセラピーの基本コンセプトだけを集約したもののようだが、こんな本だけで本当にタバコがやめられたら誰も苦労しないし、喫煙者にいまさら、肺や血管に及ぼす煙害のウンチクは役に立たないぞ、などと考えながら私も読み始めた。 うわっ、やだやだ。 翻訳モノ特有の違和感が感じられる訳文のために、カツンカツンとひっかかるところが多い一方で、だらだらと進んでいく感じの本だ。 全体的にゆるく、なるく、ぼやーんとした書き方で、インパクトをぜんぜん感じない。 タバコが体にどんな悪影響を及ぼすかというようなこともほとんど書かれておらず、精神論でタバコをやめようとするなと書いてあるし、あげくの果てに「この本を読み終わるまでは吸っていていいんです」と書かれている。 ・・・どないやねん。 なのに、読み進めていくうちに、小さく、しかし確実に「おお、そりゃその通りだわ」と納得させられる理屈が登場してくる。 こういう日記に対するコメントと同じように、自分が漠然と感じていた(しかし表せなかった)ことを他人に言い当ててもらうとすっきりする、そんな感じだ。 以下、私がめちゃくちゃ納得してしまった部分を紹介したいが、本の通りには書かない。 この本はやはり最初から最後まで自分で読んでこそ価値がある。 なので、ここで書くことは私が勝手に超個人的解釈を突っ込んだ、私なりの折り合い付き読み方だと思ってもらったほうがいいだろう。 タバコを吸う人は、自分では好きで吸っていると思いながら、実際には周りに対して遠慮があり、制限を受けている いや、その通り。 私はタバコが好きだし、自分の権利で吸っている・・・確かにそう思っていた。 しかし実際のところ、誰かと会う約束をしたり、人の家に遊びに行ったり、一緒に旅行に行ったりする機会があると、相手も喫煙者ならそれなりに気は楽だが、相手が非喫煙者だと結構気を遣う。 会って長時間を一緒に過ごすなら、こっちがタバコを我慢するか、相手に煙を我慢してもらうかの選択になるが、社会的には喫煙者が迷惑を作り出している(と自分でも罪悪感がある)以上、我慢するのは当然こちらである。 会っても会わなくてもいい人なら電話にしておきたくなる。 では、家に来てもらうかというとそれもお互いに迷惑な話で、タバコを長らく吸っている人の家はタバコの匂いとヤニで充満している。 私たち夫婦が喫煙者であることをどんなによく知っている友達でも、それを知っていて慣れている事実と、タバコの不快感とは別物だ。 もちろん、服にも髪にもその他の持ち物にもタバコの匂いは当然つくし、ヘタすりゃ焦げもできるのだが、そこまでの部分はこれまでわかっていながらも自分でフタをしてしまって相変わらず喫煙の習慣を維持していた。 減煙は決して禁煙の助けにはならないし、タバコのストックを持ったままの禁煙は難しい ⇒20本が10本になり、5本になり、最後はやめられるという理屈は、実際には実現不可能で終わることが多いのは過去に自分で立証済みだ。 父もかつて、封を開けた缶ピースを仕事場に置いて「吸いたければいつでも吸える」状況を作って、次に吸うまでの時間をだんだん延ばして禁煙に成功した一人だが、結構これは苦しい。 本数減を自分に課すことで「次の1本」に対して、ニコチンと精神面と両方で飢餓感がよけい募る。 そのために、自分の行動や考え方の主体を自分自身から、たかだか1本の「次のタバコ」に明け渡してしまうことになる。 「この1本が最後」と思ったら、誰でもいつでもその1本を本当に最後の1本にできると著者は書いている。 喫煙者同士で一斉に禁煙を始め、負けて吸ったら罰金というようなゲーム ⇒他人がするから自分も禁煙、という動機の間違いと不純さ。 自分自身がその心の準備もなしに団体で禁煙に突入しても、プレッシャーと吸いたい気持ちが募るだけと書かれているのを読み、クマイチには「一緒に禁煙しよう」とは誘わず、あくまでもこの禁煙は自分だけの「ひとりプロジェクト」にしようと思った。 一旦、禁煙に成功したら「タバコはまずい」ことや「もう喫煙者に戻らない」ことを確かめるために1本吸う、というような愚行に走らないこと ⇒アレン・カー氏の本には「もともとタバコというのはまずいものであって、おいしいはずがない。世の中にはもっとおいしいものがあるのに、喫煙者はタバコがおいしいというような幻想・洗脳に踊らされてきたのだ」と書かれている。 「タバコがまずい」ことや「1本吸っても喫煙者に戻らない」ことの確認のために、せっかくタバコをやめて何日も何ヶ月も経ってから、わざわざその1本に火をつけるというような行為にはまったく意義がない。 ここも私にとっては結構大きなポイントで、一日一日と、タバコに縁のない日を送るごとに、どこかの段階で1本、タバコに火をつけるようなスカタンに足を突っ込むことは、想像しただけでももったいない。 それに「お気に入りの銘柄のタバコがあって他の銘柄には見向きもしない人も、お気に入りのタバコが生産中止になったら、以前はまずくて吸えないと思っていたタバコを迷わず買うだろう。しかし、タバコが世の中から全滅することになったら、喫煙者はロープの切れ端に火をつけてでも吸うだろう」と書かれた部分を読んだ時、私はちゃーを吹きそうになった。 まさにその通りだと苦笑を禁じえなかったのだ。 喫煙者が感じるストレスの大半は、タバコによって生み出されたストレスである 私がタバコをやめられた最も大きな理屈というのは、この部分だったと思う。 *夜になって、予備のタバコが家の中に1つもないと気づいた時に陥るパニック ⇒タバコを吸わない人に、このパニックは起こり得るか?否。これは喫煙者だけのパニックである。 *飛行機の中や試験会場や、世間のあらゆる禁煙スペースで一定時間ガマンを強いられる時に喫煙者が考えること・・・あと何分経ったらタバコが吸えるか考えて、その瞬間を待ち望む ⇒つまり、今やっていること(飛行機で移動中だったり、冠婚葬祭に列席していたり、試験を受けていたり)の延長上に待ち望むものがタバコ一服であっていいのか?大事な人生の節目の時に次の一服のことが思考の大半を占めている状態は本末転倒ではないかというロジック *いらいらしているから、とにかく一本吸おうという気持ちの時 ⇒では、いらいらの原因になった問題はタバコを吸えば片付くか?タバコが根本的なストレスを解消した例を自分で挙げることができるか? *くつろいでいる今、ちょっと一本吸おうという気持ちの時 ⇒非喫煙者には、くつろいだ気分は存在しないのか?いや、非喫煙者にもくつろぎの瞬間は存在する *こういった「一服する小さな理由や前提」はいろいろだろうが、もしかしてそれは全部後付けではないか?タバコで実際に片付いた問題にどんなものがあったか? ☆☆☆ いや、上のどの部分を読んでも、私にはどれも実にもっともな話だとつくづく思った。 喫煙者の焦燥感(タバコが早く吸える状況に戻りたい)・欠落感(タバコの予備がなくなってしまう)及びストレスは、非喫煙者には最初から存在しないのだという事実と、タバコを吸うために自分が主体であるべき人生をタバコに区切られるアホらしさを、著者であるアレン・カー氏は淡々と述べている。 私は自分自身も理屈っぽい代わりに、他人から披瀝される理屈でも、説得力があって理に適っているものであれば完璧に傾倒してしまう部分があるのだと思う。 そこでタイミングよく遭遇した「禁煙セラピー」。 説得力で静かに圧勝した一冊だった。

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