051149 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

沖縄空手道「無想会」稽古ブログ

沖縄空手道「無想会」稽古ブログ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2020.03.11
XML
カテゴリ:武術
私は思うところがあって、昨年からなんと「能」の<謡>と<仕舞>を習っています。
その能を習い始めた理由をほとんど同じくする人の著書に出会いました。

「能はこんなに面白い!」(内田樹・観世清和 著、小学館刊)という本です。
この著書の中で、合気道家でもある思想家・内田樹氏はこう述べているんです。

「武道というのは戦国時代にかたちを整えた戦技の体系である。ならば、その身体運用はおのずから中世の日本人のそれに準拠しているはずである。ということは、中世日本人がどんなふうに立ったり、座ったり、歩いていたりしていたのか、その所作を学ばないと武道的身体運用の蘊奥(うんのう)には接近できぬのではあるまいか、そう考えた。
 中世日本人の身体運用を今に伝えるものとは何であろう。思いついたのは、茶の湯と禅と能楽の三つだった。その中では、能楽が身体運用を学ぶのに最も適しているように思われた。」

 そうなんです。ほぼこの通りの思いから、50歳という年齢を前にして「能」を習う始めるという暴挙(笑)にでたのです!!
 私の場合、「武道」という言葉は使わず「日本武術」と言い換えたいし、「茶の湯」をやってみようとは思いませんでしたが、まさに古(いにしえ)の日本人たちの、特に武士階級の人間たちの身体の動きがどのようなものだったかを体験してみたかったのです。
 無想会で学んだ武術的身体操作の考え方とその方法や、それらを演舞線に落とし込むことで敵に仕掛ける連続した技に転換していく工程を、中世日本人の身体運用を今に伝えるもの=「能」の中で試してみたかったと言えます。

 能の稽古を始めたばかりに等しい私が、「能」について、また「能」と武術の(無想会の)身体操作上の共通点などについて、ここで云々語るのは今のところ控えておきます。

 ところで、共著者である第26世観世流宗主・観世清和氏が同じ著書の中で「能」についてこう述べています。
 「能は省略を美とする演劇です。…(中略)…舞台は省略の上に省略を重ねた極めて簡潔なものとなっています。逆説的ですが、だからこそ、観る者の心の中には、静や弁慶の苦悩が、また全山を覆う花の美しさが、純粋に再現されるのです。具象的なものを徹底して捨て去ることで、脳は、舞台上に純粋な情念の世界を表出することを可能にしました。観る者は、どのような具象的な物にも邪魔されることなく、そこに表現されている情念そのものを受け止めることができるのです。
 省略し、余白をつくること、その余白に物語らせること、これは日本の絵画において用いられる技法であり、一輪の花にすべての花の美しさを託した茶道の精神も、同じ美意識の発露といえます。表現し尽くさず、何も描かれていない余白を作者と鑑賞者が想像力の限りを尽くして完成させる、それが日本の美の精神であり、脳がマイナスの芸術と言われる由縁です。
 同じことは、ごく限られた型の表現しか持たない、能の所作や舞にも言えることです。能では演技もまた具象的な物を排し、限りなく省略されています。泣くことは、やや面を下げ、眉あたりに手をかざす「シオリ」という型で示されます。それだけで、演者が悲しみを表現するために何かほかの所作を工夫したり、付け加えることはありません。」
 
 能に限らず、「日本文化」というものを一言で表現するならば「省略の美」といえるでしょう。

 この「日本文化」の特徴である無駄なものを削ってそぎ落していく稽古を無想会では求められます。なので、無想会の上級者が行う「形」を素人の目で見たら、「なんと動きの小さくダイナミックさのない地味でつまらない運動なんだ!」とに映るかと思われます。しかし、そぎ落とせない最後の部分を身体に残し、身体のなかを大きく動かしているのです。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020.03.11 15:59:18
コメント(0) | コメントを書く
[武術] カテゴリの最新記事


PR


© Rakuten Group, Inc.