2011/10/16(日)06:14
随筆・あっそう!里見発見伝
八犬伝じゃない里見の歴史、みんなはどこまで知ってるかな?
さあ、一緒に追いかけてみましょう。
時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。
義康の一字
武将の呼び名って、長いですよね。その末尾にあるのが、名前にあたるのですが、これは諱とよばれるもので、普段、口にされません。
里見氏でいうところの
「義頼」
とか
「義康」
といったものが該当します。
大河ドラマとか観てると、よく相手の名前を
「そのこと、信長に申し候」
などといってますが、実際はそういうことは多々ありません。
「織田弾正忠に申し候」
というように、位階で表する場合や、藤吉郎や権兵衛といった初名で呼び合ったと考えられます。近年、漫画「センゴク」でそのような拘りを表しておりますが、リアルを求めれば、そういうことです。
では、なぜ、名乗らぬのでしょう。
この名前の場合、元服時の権力とのつながりや、一族代々のこと、いろいろな意味が込められており、平素名乗らぬことが一般だと考えられます。
浅い知恵なので、間違いがあったらごめんなさい。
武田信玄の元服時、〈晴信〉という名前ですが、これは武田家代々の〈信〉の字と、室町将軍足利義晴の〈晴〉という意味があります。上杉謙信はよく名を改めましたが、〈輝虎〉のとき、これは長尾家代々の〈虎〉に室町将軍足利義輝の〈輝〉を合わせたものです。
このように、名前は貴人や格上からの頂き物ということがあり、滅多に名乗らぬのです。
里見家の場合、最後の当主・忠義は、代々の〈義〉と江戸二代将軍徳川秀忠の〈忠〉がかかっています。これは資料からみて、間違いない点です。
義康はどうでしょう。
誰から貰った〈康〉でしょうか。
残念ながら、明確なものはありません。このあたり、以前、全国里見会会長の里見香華先生と長電話しながら、考察してみました。同様の質問を、館山市立博物館の岡田先生に投げかけたこともございます。
結論からいうと、解らないんですよね。
義頼が一時的に北条と和睦した折、北条氏康はこの世にいません。北条家臣に御馬廻衆700貫文の松田康長やその弟で武勇に優れた松田康郷という人物がいますが、ここから貰うことは考えられない。どこからきたものか、見当の付かない一字です。
で、創作の範囲でいうならば、これは徳川家康からの一字でもOKかなという曖昧なところで、この問題提起は終わったことがあります。
家康は、関東最大の外様である里見義康を、実に丁重に扱っています。この状況は、義康が急逝するまで、継続します。
家康が冷遇に転ずるのは、忠義の代からです。
このことから、義康は徳川家康との何かしらな懇意に繋がるパイプを持っていたのでしょうね。
小説家の、勝手な想像です。
◆ ◆ ◆
戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」
皆さまの温かいご声援をお願いします。
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房総里見会事務長
鈴木惠弘
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