散文小径

2011/10/28(金)06:26

随筆・あっそう!里見発見伝

 八犬伝じゃない里見の歴史、一緒に追いかけてみましょう。  時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。  シリーズ・小田原戦役 5  豊臣秀吉が天下を確立しつつある中、唯一、公然と拒否を示した戦国大名が、小田原の北条氏です。北条氏は信長に頭を下げたのに、どうして秀吉を認めなかったのでしょう。その謎はさておいて、この戦役において、里見氏の命運も大きく左右されました。  シリーズとして、小田原陣と里見の行方を、一緒に追いかけてみましょう。  里見義康が小田原征伐に参陣しようとしたとき、思いがけぬ形で邪魔をした人物がいたことを、多くの人が見落としています。豊臣という家は、秀吉を頂点にしながら、三成派と反三成派とで二分されているように感じている方が多いことでしょう。敗者に厳しい歴史の常に過ぎませんが、そんな単純なものではなさそうです。  豊臣家の内部は、まず、古参(尾張)派と新参(近江・播州)派で割れる面もあります。これは秀吉の妻同士の問題で、一概にそう割り切れぬ側面もあります。次に、武功派と官吏派、単純な線引きで現在それを盲信する方が多いですが、玉虫色もあるから何ともいえない。  綺麗に割れるのは、秀吉の死後1年の動揺期のこと。  小田原陣の頃、まだ大和大納言豊臣秀長も、千利休も存命中で、豊臣政権そのものを左右する要因はまだありません。せいぜい 「あいつが昔から気にくわない」 程度の遺恨くらいだと思います。  浅野弾正少弼長政。  この人物は秀吉に近い古参なのだという自負が強かったと思います。その生い立ちを巡りましょう。  尾張国春日井郡北野の豪族・安井重継の子として、天文16年(1547)、長政は誕生します。その当時、織田信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝に男子がなかったことから、その娘・彌々の婿養子として、長政は浅野家に迎えられ、のちに家督を相続します。同時期、長勝の養女となっていたねね(北政所高台院)が、織田家中で頭角を現してきた木下藤吉郎(豊臣秀吉)に嫁ぎます。従って、長政は秀吉にもっとも近い姻戚となり、信長の命で秀吉の与力として属します。  天正元年(1573)、浅井長政の小谷城を攻略した功績で、秀吉が小谷城主(のちに長浜城主)となります。浅井長政も近江国内に120石を与えられました。ここで紛らわしいと感じると思いますが、長政という同名に浅井とか浅野とか……両人はまったくの他人です。しかも、当時は浅野長吉と名乗っていたようです。浅野長政は晩年の名前、通り名としてここでは用いております。  本能寺の変以降、秀吉が天下取りへの道を走り出すと、長政の任も重くなっていきます。 豊臣政権の五奉行筆頭、浅野長政の肩書きです。  あれ、筆頭は石田三成じゃなかったの?ふと、そう思いがちですね。後年に生じた関ヶ原の戦いを家康(大老)vs三成(奉行)と教えられた人も少なくないのではないですか。そんなステレオタイプな線引きじゃないですよ。三成は五奉行のひとり、筆頭は浅野長政です。  そろそろ、核心に迫ります。  対北条の東国取次役を担ったのが五奉行ですが、その際、浅野長政は功を競うような行動を取ったとされます。つまり、自分が担当していない東国武士に対する弾劾や嫌がらせを用いて、担当する者を優位に導こうという行動です。ひょっとしたら、そういう行為の成功報酬として、袖の下を求めたのかも知れません。まあ、ここは、憶測。  さっきから聞いていたら、夢酔は長政に手厳し過ぎるって?  まあ、そういうことになるでしょうか。  里見家にとって、長政は憎んでも憎み足りない行動を、小田原戦役で二点犯してくれたわけですから。里見贔屓の側に立つ以上、許して欲しい!  小田原招集に応じた里見義康は、軍事行動を起こします。  その際、軍勢を三つに割ります。自らは三浦半島へ上陸し小田原を目指す本隊、残りは上総・下総の北条陣営が里見領へ攻め込まぬよう、牽制を込め、或いは陥落させる目的で進発させます。  里見義康の本隊が豊臣秀吉のもとへ着陣したのは、天正16年(1588)4月下旬。この時点で、北関東の諸豪族はまだ着陣していません。しかし、義康はこの着陣の遅さを秀吉に指摘され、怒りを被ります。浅野長政が担当する結城晴朝の着陣は5月24日ですが、秀吉から一切の咎めがありませんでした。長政からの何か口添えがあったのでしょうか。  里見別働隊、ひとつは水軍を用いた船橋方面攻めを行っています。もう一隊は真理谷・東金を経て富田といった上総内陸を進軍しています。この行く手を遮るかのように、浅野長政の軍勢が松戸方面よりやってきます。主に下総へこれは進軍していきますが、一部、里見領へ知らぬ顔して蹂躙するのです。久留里城あたりまで攻め込んでくる行為は、明らかに挑発と呼べるものでした。この行為はさすがにやりすぎだと、秀吉も洞察したのでしょう、今度は長政が叱責を被ったのです。  このような嫌がらせを受けたのは、里見家担当が長政でなかった為と指摘されます。大人げなさ過ぎるので、まあ、この一点は里見が大人になることで引ける部分です。  しかし、もう一点には悪意すら感じます。  上総への牽制行動を行った里見の行動を、長政は秀吉への叛意だと主張したのです。秀吉の許可なき戦さは〈惣無事令違反〉であり、北条氏が攻められているそれと同罪だというのです。更に里見義康が三浦半島上陸時に出した禁制も、〈惣無事令違反〉というのです。秀吉はその主張を受け容れてしまうのです。  上総国没収。  里見氏にとって、小田原戦役は失うものが大きかったのです。その原因者とされたのが、浅野長政だったという訳です。  里見の行動に似た戦闘行為や禁制は、実は結城晴朝も行っています。これは紛れのない事実です。しかし、秀吉からは不問であり、領地を奪われるペナルティがありませんでした。  これは譲れない恨みです。  里見家は、恨む余裕もなく、必死に節制して危機を乗り切るしかありませんでした。  浅野長政はこれに似たことを余所でもしたのでしょうか。  後年、東国大名の取次役の職務状況により、担当していた伊達政宗から、絶縁状を突きつけられたという事実もございます。  とまれ、里見氏の小田原陣にとって、好まれざる相手が、この浅野長政だったのです。                   ◆  ◆  ◆  戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」  皆さまの温かいご声援をお願いします。  聞いたところでは、島津もNHKに要望書提出だとか。館山市の支援を大いに期待したいところです。よろしくお願いします。  お問い合せ先は、こちら。  房総里見会事務長    鈴木惠弘     〒294-0027 千葉県館山市西長田72 にほんブログ村

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