散文小径

2011/11/01(火)06:03

随筆・あっそう!里見発見伝

 八犬伝じゃない里見の歴史、一緒に追いかけてみましょう。  時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。  シリーズ・小田原戦役 8  豊臣秀吉が天下を確立しつつある中、唯一、公然と拒否を示した戦国大名が、小田原の北条氏です。北条氏は信長に頭を下げたのに、どうして秀吉を認めなかったのでしょう。その謎はさておいて、この戦役において、里見氏の命運も大きく左右されました。  シリーズとして、小田原陣と里見の行方を、一緒に追いかけてみましょう。  安房の里見に抗した名族・千葉氏。戦国末期、かつての名族も北条一門に取りこまれており、もはや傀儡と呼ばれる存在でした。千葉一族は上総から武蔵にかけて派生し、宗家を支えたり対立したりという関係でした。原氏・高城氏といった有力支族が北条に取りこまれると、元々独立性の高かった千葉氏も北条に下るようになっていったのです。  原氏は当初、千葉宗家からの独立性を強め、自ら房総管領となる道を求めて古河公方家の男子を擁しようとしました。これが、小弓公方のはじまりです。この御旗を大事に保護したのは、結果として里見家に廻ってくるのです。  千葉宗家の千葉介邦胤は兄・良胤が反北条の動きをとり家臣から追放されて当主となった人物。親北条派です。バリバリの北条派だから、武田を滅ぼし関東に留まった織田家臣・滝川一益から信長への挨拶を促されてもシカトをかましたとされます。その後、家臣から恨まれ、就寝中に刺されて死亡。この後継者・重胤が幼少という理由で、北条氏政七男・直重が送り込まれます。こうなると、もう自主性なんかありません。実質上の大名領主権は北条氏に握られ、重胤は小田原住まいを常としたわけです。  小田原の役。  千葉氏にとっては選択の余地もなく、北条派として秀吉に立ち向かいます。直重は小田原城に籠って戦ったとされます。小田原開城ののちは当主・北条氏直に供して高野山に蟄居。蟄居が解かれたのちは蜂須賀家政に仕え、知行500石を与えられています。個人的に生き永らえても、肝心の千葉宗家は、北条ともども大名としての家格を喪失したわけです。  北条家の常とう手段である、名族に身内を送り込んで実権そのものを奪い去るという術に連座させられた豪族は、多かったことでしょう。  里見は強い独立性で、その危機を潜り抜けて命脈を保ったとされます。                   ◆  ◆  ◆  戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」  皆さまの温かいご声援をお願いします。 にほんブログ村

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