2011/12/28(水)05:31
随筆・あっそう!里見発見伝
八犬伝じゃない里見の歴史、一緒に追いかけてみましょう。
時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。
滅び去った万喜土岐氏
夷隅川流域の中原の雄・土岐一族。里見義堯の時代は婚姻関係にあり、里見の有力同盟者でした。大多喜城主・正木大膳亮時茂、東金城主・坂井右衛門佐敏房とともに、万喜城主・土岐弾正少弼為頼は
「里見三羽ガラス」
と呼ばれ、剛勇を賞賛されたといわれます。
義堯は土岐弾正少弼為頼の娘を妻とし、その間に産まれたのが里見義弘。いわば里見家当主御親類衆として、重きを為していたのが土岐氏だったのです。
土岐氏が里見を見限ったのは、第二次国府台合戦のときでした。
為頼は北条方に属し、以来、里見と相容れぬ関係となったのです。それほどまでに国府台の敗戦は、その後の里見を窮地に追い込むほどの出来事だったのです。
為頼は天正11年4月に没し、その跡は嫡男の頼春が継ぎました。為春も徹底して、里見に抵抗したのです。義弘跡を巡る里見の後継者を巡る内乱ののち、勝利者である里見義頼は上総への侵攻を推し進めていきました。幾度となく土岐氏と激突しましたが、その居城である万喜城は落ちなかったのです。
やがて、豊臣秀吉の小田原征伐がはじまります。
土岐氏は一貫して北条氏に属しました。結果、小田原開城後、房総にあった北条方の城には豊臣・徳川の軍勢が押し寄せて、たちまち攻略していったのです。このとき、土岐頼春は城を枕に討死したとされます。
万喜城は応永年間(1394~1428)に建てられたといわれます。里見が安房へくる前のことですね。土岐一族は里見義実の上総侵攻戦の陣頭指揮を執ったと伝えられます。それが、土岐弾正少弼頼房という人物です。頼房の三代目が為頼、このときまで里見のよきパートナーだったのでしょう。
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戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。
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房総里見会事務長
鈴木惠弘
〒294-0027 千葉県館山市西長田72
署名用紙の欄外に
「夢酔に頼まれた!」
と添え書きくだされば幸いです。
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