散文小径

2012/01/01(日)15:42

随筆・あっそう!里見発見伝

 八犬伝じゃない里見の歴史、一緒に追いかけてみましょう。  時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。  関東移封の徳川家臣・2  あけましておめでとうございます。  元日早々の地震、ちょっと驚きました。  本年もよろしくお願い申し上げます。  徳川家康が関東にきて、里見包囲にも似た家臣割りをした話をちらと触れました。  そのなかで、かつては里見家当主の拠点として知られ、上総国の要害とされた城がございます。  久留里城。  家康が上総へ家臣を割り振った際、ここ久留里城へ据えたのは、大須賀忠政という人物でした。  この大須賀という氏だけなら、戦国ファンは呻りませんよね。  ここに血統のアクセントを加えてみましょう。大須賀康高という人物は三河以来の徳川(松平)家臣で、対武田戦で数々の武功を立てた人物です。しかし、家を継ぐ男子がないため、娘婿に跡を遺したのです。その娘婿こそ、大須賀忠政その人なのです。そして、実父は徳川四天王のひとり・榊原康政。そうなのです、家康は徳川四天王のひとり・本多忠勝を大多喜城に送り込み、久留里城には四天王・榊原康政の長男である大須賀忠政を配したのです。  これだけ見ても、里見がどれだけ警戒されていたか、わかりますよね。  上総久留里3万石を与えられた大須賀忠政は、のちに慶長4年(1599)4月17日に従五位下出羽守に叙任されます。そして関ヶ原合戦の翌年にあたる慶長6年(1601)2月、上総久留里から遠江横須賀藩6万石に加増移封され、横須賀藩の初代藩主となったとされます。この横須賀という地は、義父・大須賀康高が武田勝頼に属する高天神城の戦いで手柄を認められ、天正10年(1582)に与えられた城の場所でもあるのです。  粋な計らいですね、家康!  大須賀忠政のあと、久留里城に着任したのは、土屋忠直という人物です。  戦国ファンにとって、無名に映りそうですね。しか~し、ここでも血統的な視点を傾けると、とんでもない存在だと知ることが出来ます。  土屋忠直の幼名は〈惣蔵〉といいます。土屋惣蔵、この名前に心当たりある人は、さすがにいるんじゃないですか?  そう、武田24将のひとり・土屋昌次の弟・土屋惣蔵昌恒。武田家滅亡の折、片手千人斬りの武勇伝を残し主君に殉じた忠孝の臣。土屋忠直は彼の長男なのです。  武田家滅亡後、信長の目を盗んで、家康は数多くの武田遺臣を厚遇採用しました。理由は、有能実績ゆえと思われます。  武田家滅亡後、忠直は母に連れられて駿河国清見寺に逃亡していました。母は岡部元信の娘で、今川旧臣だった経緯から駿河に逃れたものと思われます。 「ほう、あの土屋惣蔵の倅が生きておったか。ならば家中に迎えてやらぁず」  家康は、こんな案配で喜んで迎えたのではないでしょうか。  徳川家康の召し出しを受けて家臣となった土屋忠直は、まず徳川秀忠の小姓として仕えるようになります。のちに秀忠の「忠」の字を与えられて、忠直と名乗ったというわけです。  家康が関東に来て、配した家臣割は、やはり粘着質……もとい、極めて巧妙だったということですね。  2013年、あたらしい年が皆さまにとって素晴らしい1年でありますように。                   ◆  ◆  ◆  戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」  皆さまの温かいご声援をお願いします。  大河の署名用紙「Yahoo! ボックス」にUP!  ぜひダウンロードしてください。 https://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-3cwv2wfiuh32cvdru3iad3wwoe-1001&uniqid=a82d0f16-38fb-4e71-a93a-d67a27a62932&viewtype=detail    房総里見会事務長     鈴木惠弘     〒294-0027 千葉県館山市西長田72  署名用紙の欄外に 「夢酔に頼まれた!」 と添え書きくだされば幸いです。 にほんブログ村

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