散文小径

2012/02/11(土)16:10

随筆・あっそう!里見発見伝

 八犬伝じゃない里見の歴史、一緒に追いかけてみましょう。  時は戦国ただなかへ、いざ、出陣。  シリーズ・里見家のおんなたち 8  里見家に生を受けた女。  里見家に嫁いだ女。  円満な者も、不遇な者も、女たちの数だけ笑いもあれば涙もあったことでしょう。そんな里見家のおんなたちは、おおよそ、実名の残されていない者が多かったのです。院号または通り名で後世に伝えられる女性の逸話を、ひととき一緒に語りましょう。  里見家の女傑。  少しでも知識がある人は、すぐに 「龍雲院」 と答えるでしょうか。  龍雲院。  小田喜正木氏の盟主・正木大膳亮時茂の娘で、里見義頼の妻になった女性です。  しかし、初っぱなから彼女が女傑街道をひた走っていた訳じゃありません。  彼女は堪え忍ぶことも多かったのです。  まず、正木大膳亮時茂のもとから里見家に嫁いだ時期。年齢的にみて、恐らく時茂の死後のことと思われます。彼女が里見義康を生んだ頃、正木大膳家は第二次国府台合戦敗退後の離反状態にあり、家中にいることは針の筵でした。それは夫である里見義頼にとっても同様で、上総派・安房派と、里見家分裂の危機感さえ孕んでいました。これを頭から抑え込んでいたのは、里見義堯の存在ありきだったことでしょう。  義堯が没し、義弘が事実上の長老当主になったとき、龍雲院に新しい試練が訪れました。なんと、突如同盟関係になった小田原北条家から、義頼の正室を迎えるというのです。  彼女の心中は如何だったでしょう。  既に義頼のみを頼りに里見家で生きてきた彼女。嫡男である義康を生み、恐らくこの頃に次男の時茂を生んだばかりです。事実上の正室でありながら、その座を引かされる屈辱。 「案ずるな」  きっと言葉少なめに、力強く夫が励ましたことは、想像に易いことです。そうでなければ、堪え難いことです。  北条家の女性との縁が薄かったことは、既に触れたとおりです。  確証はありませんが、北条家との間に産まれた男子とされる義高の養育も、ひょっとしたら彼女が進んで引き受けたかも知れません。すべては、夫である義頼への信頼だけが、支えといってよいでしょう。  龍雲院が女傑への路を歩み出したのは、最愛の夫・里見義頼が急逝したときからと考えられます。  新当主・里見義康の生母。  実家である正木家を相続した次男・時茂の生母。  その立場が、里見家の裏方を総帥する絶大な権力保持者へと、彼女を変えていくことになります。  龍雲院のことは、夢酔、まだまだ知りたいことが沢山ございます。  現在進めている新作の後半部、どうしても龍雲院のウェイトが大きくなるのですが、本編のサイドラインに彼女が位置するため、一応省略できる部分ではあります。しかし、女性の生き生きと活躍する場面が薄いと、こういう作品は暑苦しくなりますからね……(笑)。    彼女のことは、やや間を置き、この場で語りたいと思います。  他の女性を語ることで、龍雲院の後半の人生を描きやすくなるからです。  ご勘弁。                   ◆  ◆  ◆  戦国武将里見氏のNHK大河ドラマ放映を目指す「里見氏大河ドラマ実行委員会」が組織されています。里見氏終焉の地である鳥取県倉吉市、里見氏発祥の地の群馬県高崎市、そして館山市で、NHK側にドラマ化を働きかける運動を行っております。 「2014年に里見氏の物語をNHK大河ドラマで!」  皆さまの温かいご声援をお願いします。  大河の署名用紙「Yahoo! ボックス」にUP!  ぜひダウンロードしてください。 https://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-3cwv2wfiuh32cvdru3iad3wwoe-1001&uniqid=a82d0f16-38fb-4e71-a93a-d67a27a62932&viewtype=detail    房総里見会事務長     鈴木惠弘     〒294-0027 千葉県館山市西長田72  署名用紙の欄外に 「夢酔に頼まれた!」 と添え書きくだされば幸いです。  1月29日の若潮マラソン会場。皆さまからたくさんの署名を頂きました。実行委員会に代わり、心よりお礼申し上げます。  それから、11月27日署名活動の写真がUPされていました。恥ずかしい…… http://www.awa.or.jp/home/kabuto/osirase.html  里見氏研究で著名な滝川恒昭先生から貴重な資料を進呈いただきました。  この場をお借りして、御礼申し上げます。 にほんブログ村

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る