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2025.12.09
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カテゴリ:鈴木藤三郎
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更に躍進すべきの秋(「斯民」25編10・11号 昭和5.11.1)

我が〔中央〕報徳会が創立こゝに二十有五年に達し、「斯民」が号を累ねること三百に至ったについては、最初よりの関係者の一人として真に感慨の深きものがあるが、思い出づるままを、二、三述べてみよう。

本会の創設当時、これを経済的に成立せしめられたのは鈴木藤三郎氏である。「斯民」発刊等については前理事長の故早川千吉郎氏も出捐されたが、鈴木君は実に思い切ってなげ出された。本会設立の素因となった二宮翁五十年記念会は後1か月に迫った頃のことである。その発起者は多く官吏や学者達で、評議は十分に凝らしたものゝ、肝心の費用の出途がないので一向に準備ははかどらない。その後、地方改良運動の本拠となり、梁山伯と称えられた内務省地方局の食堂の階上に大臣室があり、その隣りの秘書官室の廊下に電話があった。ある日のこと、私はこの電話にかゝって、小名木川の醤油醸造事務所の鈴木〔藤三郎〕氏に相談をした。二宮翁五十年記念会の評議はまとまったけれども、何分金の出所がないので実現が難しい旨を通ずると、「一体いくらいるか」とのこと故、「まず1,500円あればたくさんだろう」と思うと答えると、鈴木氏はカラカラと大笑いして、「そればかりではダメだ。3千円出すから盛んにやって貰いたい」といわれた。それから皆馬力をかけて用意を整えた。そのうち千円を以て「報徳記」と「二宮翁夜話」を特製の函〔はこ〕に入れて千名を超えた来会者にわかち、なお井上〔友一〕博士と相談をして、当時有名であった三模範村の事蹟を冊子に刷り、その他種々の印刷物を砂糖袋のような袋に入れて来会者に配付した。

かように本会の創立前後、必要な軍資金は多く鈴木氏から仰いだのであるが、前に述べた3千円に対しては、岡田〔良平〕、井上両氏と私との3人が各々千円づゝの借用証書を入れていた。ところが鈴木氏は大正2年9月に歿せられた。それはその養嗣子たる鈴木富士弥氏(現〔浜口雄幸〕内閣書記官長)が弁護士を開業された当時のことであるが、富士弥氏から右の借用証書によってわれわれ3人に対し返済を求められた。そこで私は氏をその法律事務所に訪うて、これは3人の個人名義になってはいるけれども、実際は報徳会のために使ったもので、本来は報徳会から返却すべきはずであるが、知らるゝ如く同会はいつも経費が不足がちである。同会のために、われわれ3人は知恵を搾って骨を折り、尊父は費用を調達して力を尽された。いわば共同責任なのであるから、借りたとはいうものゝ普通の貸借関係とは全く訳が違う。尊父は二宮翁の遺訓を金科玉条とせられたが、翁の教義の中に芋種を畑の中でとり尽くすなとある。尊父は晩年事業に失敗せられ、次いで世を去られたので甚だお気の毒であるが、いずれ再興されることゝ信ずる。その為には芋種をとり尽くされぬ方がよろしかろうと思う、というと、そうですかといわれて、事はたちどころに解決した。(略)

 上野音楽学校における二宮翁50年記念会の状況は、当時未だ「斯民」は生れていなかったので、私の主宰する雑誌「人道」にようって報道したのである。「人道」には内村鑑三、幸田露伴、その他十数氏の報徳に関する感想を掲げたことがあるが、後にこれを「二宮翁と諸家」と題する冊子として刊行した。その後地方改良の専門雑誌として「斯民」が生れたが、社会事業の専門雑誌は「人道」であって、兄弟姉妹のごとく育って来たのである。「斯民」が300号に達すれば、「人道」もまた300号に達する訳で、これについての思い出は深く、いつまでも両誌はあい提携して進みたいものである。

 我が報徳会は道徳経済の調和実行を主眼とするものであるから、物質的の経営なり、学術上の研究も結構ではあるが、後継者としては精神的分子を失わないようにしてもらいたい。日露戦役の直後、向後の経営はいわゆるミリタリズムではいけないと朝野の間にやかましく論ぜられたが、結局国力の涵養には道徳経済の調和駢進でなければならぬ。それには二宮翁の教義は輸入の思想学説ではなく、全く翁独創のものであって、時代の要求に合致するというところから、翁の50年記念会を開催したのである。

 その記念会の盛大であったことは、他にも述べられる方があろうが、朝野の名士を首め、各地方からの来会者が一千名を超え、その夕は一同を招待して晩餐会を開いた。記念会の席上、時の農相兼内相たりし清浦〔奎吾〕伯爵は、二宮翁の人格は孔夫子以上であると激賞されたことを記憶している。

 日露戦争の直後、解決しなければならぬ社会問題は種々あったが、われわれはこの記念会によって尖端を切った訳である。その後、春風秋雨二十有五年、思想上においては自然主義が唱えられ、ベルグソン、オイケンの哲学が行われ、デモクラシーからマルクス主義に至るまで

幾変遷を経来った今日、経済方面は全く行き詰まり、一方道徳精神の側においても行き詰まり、世界的不況の大波に包まれて、空前の難苦に喘ぐ状態である。随ってますます報徳会の主張を高調し、励行せねばならぬ秋〔とき〕であるから「斯民」300号を転機として一大躍進を図りたいものである。

 

 

☆留岡氏の「更に躍進すべきの秋」(「斯民」25編10・11号 昭和5.11.1)に「我が報徳会は道徳経済の調和実行を主眼とするものである(略)日露戦役の直後、向後の経営はいわゆるミリタリズムではいけないと朝野の間にやかましく論ぜられたが、結局国力の涵養には道徳経済の調和駢進でなければならぬ。それには二宮翁の教義は輸入の思想学説ではなく、全く翁独創のものであって、時代の要求に合致するというところから、翁の50年記念会を開催した」とある。日露戦争が終った頃、鈴木藤三郎もまた日本の軍国化を懸念して、産業人の育成と評価こそが日本にとって必要であるという論文を雑誌「太平洋」に掲載した。その後、大正デモクラシーを経て、日本は藤三郎が懸念した軍国主義へのめりこんでいった。この「国力増進の根本策」という貴重な史料は森町の元気屋さんが発見した史料で、「第3集」90~92ページに掲載したものだが、その提言はその後日本の進路との対比で注目される。






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最終更新日  2025.12.09 05:40:04


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