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2021.08.15
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カテゴリ:戦争を語る
皆様、おはようございます。いかがお過ごしでしょうか?今日は8月15日、76回目の終戦記念日です。

そこで毎年夏の恒例となりました「戦争を語る」シリーズです。今回は数年前、映画「あの日のオルガン」の舞台となった「疎開保育園」のお話です。

時は1944年(昭和19年)の、戦争中。都会では小学校(当時は国民学校)の子供達の集団疎開が始まっていましたが、保育園児達はまだ東京に残留の状態でした。

そんな中で、東京の愛育隣保館と戸越保育所の両保育所は、子供達を疎開させようという事になりました。しかし、父母からは「子供を手放すなんて無理です」とか「東京は無事です」と反対の声が上がったり、受け入れ先探しに苦労したり。

それでも、現在の埼玉県蓮田市にある妙楽寺に候補地を見つけ、子供達を疎開させることにしました。しかし、疎開したからといって満足に食糧がある訳ではありません。地元の住民からは「消費班」と言われ、保母達はそれに耐えるしかありませんでした。

親代わりの保母がいたとしても、子供は子供。親の事が恋しくなり、毎日泣く有様。たまに面会に来れば、「帰らないで!一緒に帰りたい」とぐずる。そんな子供達の時には親として、時には姉として保母達は子供達を守ってきました。

1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲。この時、両親や親戚を空襲で亡くした子供達もいました。保母の一人は東京へ出向き、家族達の消息を足で調べて歩きました。中には「一家全滅」という悲しい結果になった子供も居て、保母達はその子にどの様にして現実を伝えようか、心を痛めたそうです。

この「疎開保育園」は終戦後しばらくは続き、全ての子供達が家族や親類に引き取られたのを見届けてから解散になりました。

戦争というもの。それは人の心をも傷つけてしまう残酷で愚かなものなのです。今一度、平和というものの有難さ、大切さをこの8月15日という日には認識したいものです。きょう8月15日の正午には、1分間の黙祷を捧げましょう。

※尚、現在の保育従事者の職名は「保育士」となっておりますが、この作品中の表現は当時の「保母」という職名で出ています。当時の時代背景を考慮した上で、敢えてこの表現を使用いたしましたことをここに記します。

Twitterもやっています。アカウントは「@Tabitotetsukiti」です。良かったら、フォローよろしくお願いいたします。

皆様から頂いたコメントには、随時お返事させていただきます。また、皆様のブログへも後程お邪魔させていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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最終更新日  2021.08.15 08:30:46
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