|
カテゴリ:カテゴリ未分類
上記アドレスに猫を主人公にした ギャグ漫画を描いています。 絵がとても下手なのですが、それが味と誉めていただくことも あるんだよ~ ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ ーーきのう『しゅう爺』が死んだ。ーーー と原稿用紙の一行目に書いた。 うむっ、さりげなくとても良い書き出しだ。文章の書き出しというのはこんなふうに飾らないのが一番だ。 でも、これはカミュの『異邦人』の書き出し『きのうママンが死んだ』をパチッたものです。 ボクがこれから書きたいのは、『異邦人』ではなく、ボクの友人だったいかれた老人『異老人』本条さんのことだ。 半年くらい姿を見ないので、江古田斎場の駐車場整理のオジさんに訊いた。「最近、本条さん見かけないけど??」 「あああー、ヤツは死んだ」とオジさんはさくっと言った。 だから正確に書くと「きのう本条さんが死んだことを知った」と書くべきだ。 昨年10月に亡くなったということだった。 知り合ったとき本条さんは、江古田斎場に勤めていた。 何をしていたかというと、葬式の花輪の下に何々家とか書いてある札=なんというのか知らんが=を書いたり、彼岸大法要とかの看板(看板なんて言って良いのか?何かバチがあたりそうな気がする)、何家葬儀式次第だの、斎場で必要な習字全般を引き受けていた。 事務の人や運転手の人や駐車場整理のオジさんと違って。まあ一種専門職だ。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 本条さんは、某有名週刊誌『週間●衆』を発行している双葉社の編集者だった。若い時に高浜虚子の弟子になり、虚子最後の弟子ということで角川書店の月刊『俳句』に『虚子の思いで』みたいなエッセーを書いていたりしていた俳人でもあった。出版社を退職したのち、習字の腕で江古田斎場に勤めていた。 出版社時代の年金と江古田斎場からの給料と合わせて、収入は現役時代を上回ることもあるという経済的には恵まれた老後を送っていた。 職業柄文化人の知り合いも多いらしい。初めて本条さんの家にお邪魔した時、版画家加納光於の作品をたくさん見せてもらった。加納光於とは友人で全てただで貰ったものだと言っていた。 本条さんは、仕事が暇だと斎場近所のお店を物販店であろうが.飲食店であろうが冷やかしていた。ボクは斎場の近くでDCブランドのリサイクル店もやっていたので、本郷さんはボクの店のバイトの女子大生目当てでよく顔を見せていた。当時65歳を超えていたのにあっぱれなことだと思う。でも女子大生には厭がられていた。 習字をやっている爺だから、彼女たちは『しゅー爺』と呼んでいたのだった。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ ある日「ボクに似合う服ってあるかい?」と本条さんが言うので、ボクは商魂たくましく、パンツ/ジャケット/Tシャツを売りつけた。 60歳台のお爺さんに全部アニエスbを着せて、ハンチング帽を被せた。 ボクのコーディネートで行きつけの飲み屋に行くと、お姉さんたちにとても受けたそうだ。 お姉さんに受けたことが、よほど嬉しかったのかボクに酒を奢ってくれた。フランス田舎料理を看板にした店で、何かボクが手も足も出ないような一本5000円のワインを飲ませてもらった。 いつも飲んでるワインなら10本近く飲めるのに・・・ 本条さんは良く飲み、よく食べ、かつ良く喋った。話題はクラッシク音楽や靉光や瑛九などの日本の前衛絵画のことや、日本の短詩型文学のことや難しい話題ばかりだった。 「モーツァルトは・・」などというから 「なんだいそりぁ?チーズの名前かい?」などとボクはよく茶化していたものだ。 ボクは上っ面だけの教養の片鱗の片鱗(片鱗と言えるほどこっちは教養などないのだが・・)を見せたり、 「マーラーがどうしたサティがどうした・・」と爺がうるさいので 「なに!マーラーだと!よく恥ずかしくなくそんな卑猥な名前を名乗り続けたもんだね・・俺だったら改名するぜ、『でか』という接頭語(こういうの接頭語で言わないね)を付けて」などとトボケたことを言っていた。 「あんたねえ!ロックを聴きなさい!」とボクは爺に言った。 「ロックですか?ビートルズなんかは素晴らしいですなあ」 (話はそれてしまいますが、この『ですなあ』という言い方は、何故、ある程度、功成り名を遂げたーつまりオヤジしか使わないのかね?) 「てやんでぇー!音楽教科書に載ったビートルズなんかにロックスピリッツなんかあるもんかい!」とボクはキース・リチャードやセックス・ピストルズのことを教えてやったんだ。 「誰も面白がらない難い高踏なはなしばかりしないでねえー、もっと・・落語や喜劇に接して、庶民の考えていることを知りなさいよ」とボクはインテリ爺を諭したのだ 本条さんは、 「ミャーボーさん。いろいろなことを知っていてすごいですな」と眼を丸くしていた。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ およそ一月後、ボクは本条さんを東長崎の『かっぱ』に招待した。 「いつも奢られているから、今日はボクがとっておきの店で奢るから、ありがたく思いなさい」とボクが言うと嬉しそうに付いてきた。 『かっぱ』は商店街のはずれの古いモルタル建ての一角にある、うらぶれた雰囲気の飲み屋だ。かなり年配のおじいさんと本条さんと同年輩の若いおじいさん?二人でやっていた。とても安い。 ーーーーーービール(大)420円 焼きそば220円 おにぎり60円 しめさば200円とこんな値段です。興味を持たれた方はいつでもご案内いたしますので、おっしゃってくださいねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「実は、この写真を見てください」本条さんは手帳に挟んである一枚の写真を指しがした。どこかの公園で一番あぶらののった良い頃合いの三十路の美人が本条さんに腕をからめている。 「おきれいな女性ですね」ボクは酎ハイを飲み干した。 「彼女です」と言って本条さんは知り合った経緯を話してくれた。 女性は練馬の行きつけのスナックのママさんで中国人で、中国の両親に日本で稼いで仕送りをしている。滞在ビザのことやら相談の乗っているうちに親しくなった。 ママのスナックの休日に映画にいったり食事をしたりデートをしているそうだ。 「彼女が江古田で婦人服のブティックをやりたがってんですよ。ミャーボーさん・・どう思う?」 なんか会った事もない人をくさすのは嫌なのだが、ボクはこの中国人の女性は本条さんに惚れているというより、懐狙いではないか?という予感がした。でもそのことは言わなかった。 「ボクも女房の手前ねえ、家の貯金を下ろして開業資金を調達できないんだが・・銀行に相談したが、ボクのボロ家を担保に入れてもたった300万円しか貸さないというんだよ。」バブル崩壊後の貸し渋りの時代だった。 「銀行って・・何処の?」 「六菱銀行ですけど・・」 「そりゃー駄目ですよ。大手都市銀は、小さい規模の商人なんかに金を貸しません。小さい規模の商人がつき合うべきなのは信用金庫ですよ」 「ほうーっ・・そういうものなんですか」 めぐまれた場所ばかりにいたから世知に疎いのだ。 芸術方面の話題や形而上の話は大好きなのに、下々の人々の話題にはついて行けないのだ。 「野球?あんな棒きっれ振り回して何が面白いんですか?」という感じなのだ。 「あんたねぇ・・気取ってばかりいないであの金子光晴先生を見習いなさい。あの日本一の大詩人がね。爺になったときは着物からサルマタ見せながら、(どうもボクはサルマタの話題が好きでいかんね)吉祥寺の街を徘徊して、あわよくばお姉さんのケツ触ろうとしていたんだよ」 決して若くはないが本条さんから見れば若い口舌の徒のボクの演説を嬉しそうに聞いているのだった。 「あんた『週間●衆』の会社にいたんでしょう?でもねあんたの態度は週間大衆蔑視だぜ」と酔っぱらったボクは本条さんの絡んだ。 本条さんは答えずにテレビの画面に釘付けになっていた。 『かっぱ』にはカウンターの奥にテレビが置いてある。たいがいナイターだの競馬だの庶民のおっさんたちの好む番組を流している。だがこの日は何故かNBAの中継を流していた。 「ミャーボーさんね。さっきからアメリカの若者が。いっしょうけんめい鞠(マリ)をね籠に入れようとしているんだけど、あの若者たちは籠の底が抜けていることに気づいてないみたいなんだよ。誰か教えてあげればいいのにね~」 「あのね・・」 ボクは唖然として次の言葉が出てこなかったのだった。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|