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血友病とともに66年・・・!  【真実の追究】

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 ★★★このブログトップページは、私が38歳のワープロの時代から書き始めた日記から抜粋し編集した記事で、現在加筆中です。★★★

 ◎◎◎日本の「血友病」の実態は、「薬害肝炎」、「薬害エイズ」等にさらされ、歴史を含め正確には伝えられていません。日本の血友病の権威とまで言われた安部英医師が、帝京大学副学長だった'90年代の中頃、ある地上波TVのニュース番組で語った一言、「血友病は死ぬんです!」。この暴言を吐くに等しい言葉の真の意味とは。所詮患者はモルモットなのか!血友病を、例えば末期癌のような、より重篤かつ深刻な病気に仕立て上げなければならなかった、メディアに追い掛け回された彼の心理とは。今日に至っても、血友病とはどのような病気で症状はどうか等まで、基本的な知識として詳しく答えられる人は、たとえ医療関係者であっても極めて稀だと想います。血友病は、死の病ではありません。血友病以外の何らかの要因がひとつ以上加わらない限り、血友病患者と言えども死には至らないのです。安部英医師を業務上過失致死罪で起訴した検察側は言うまでもなく、結局のところ、日本のメディアも最終的に安部英医師を追い詰めるまでに至らなかった!事実を捻じ曲げられ、歪められた多くの「血友病」の実態に迫り、真相を究明します。◎◎◎

 世界では、昔から一部の権力者が利益を得るため、また獲得した利権を守り抜くため、集団で実行される人々への洗脳などを駆使し暴れまわっています。そして現代では、世界中で多種多様なメディアが発達したものの、未だ権力者による嘘や欺瞞で満ち溢れています。結果として、夥しい数の何の罪もない人々が迫害を受けたり、殺害されたりしていますが、日本の血友病患者を襲った薬害も、権力者の利権が絡み、まったく同じ構図で展開し、断行されてきました。危険性を認識しながらも、非加熱の輸入濃縮血液製剤を平然と製造販売していた製薬会社の一部の取締役や、また、この医薬品を平気で血友病患者に処方していた医師の一部や、これを止められず必要な対策を講じられなかった厚生省の一部の官僚は、最終的に刑事告発を受けましたが、今日に至っても、薬害エイズや薬害肝炎の全体像が全て明らかになっているわけではありません。この薬害は、いかなるメディアが活用され、どのようにして弱者である血友病患者が洗脳されていったのかなど、未だ明確になっていない真実が数多く隠されています。これらを白日の下に晒し考察しなければ、薬害に対する今後の教訓には決してなりません。
 私も血友病患者です。それも重症に分類される私は、血友病という病気にどれほど悩み苦み、辛い思いをしたか、簡単にはとても語り尽くせません。病気のエピソードを含め、言葉では言い表しにくい話も数限りなくありますが、時間の経過とともに加筆し、より多くの真実を明らかにしていく考えです。本題に入る前に一言付け加えておきますが、私の体験は、血液製剤の副作用により血液製剤を日常的に全く使えなかった期間が永く、血友病患者の中でも極めて稀なケースだと想います。このブログは、私が54歳の時に開設しました。

 日本の重症血友病患者の全員に近いほど感染率が高かった薬害肝炎。日本の重症血友病患者の大半の人数が感染した薬害エイズ。両方の薬害から確実に逃れられた重症血友病患者は、当時乳幼児だった患者くらいなものでしょう。なぜならば、乳幼児の場合、あまり血液製剤を使うことさえなかったからです。この二つの薬害を考える時、私の頭の中には、プロパガンダ、洗脳、患者会、という三つの単語が思い浮かびます。これに、プロパガンダには製薬会社の営業担当者が、患者会には一部の医師が、それぞれ深く関わり、壮絶かつ極悪な情報操作戦が日本全国で繰り広げられていたのです。もし、日本の皇太子が血友病患者だったら、早くのうちから日本では血友病患者用の血液製剤の原料に献血血液が使われ、売血血液は完ぺきにブロックされていたでしょう。そして、売血血液が原料の血液製剤など輸入せずに済んでいたと考えられます。このようになっていれば、血友病患者のHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の感染被害数はゼロに近く、HCV(C型肝炎ウイルス)等の肝炎ウイルスの感染被害も極力抑えられたに違いありません。日本では'60年代後半から献血が盛んになり、日本赤十字社では凝固因子が含まれる凍結血漿製剤を'73年から製造販売していたものの、解凍の手間や保存方法等を考えると使い勝手が悪く、また、凝固因子だけを抽出した薬剤とは違い、凝固因子だけではなくフィブリノゲン等の血友病患者には不要な物質も含まれているため連続投与が困難になるなど問題が指摘され、血友病患者用にはあまり普及しませんでした。その後、日本赤十字社では、献血で得た余剰血液を大量に廃棄しても、血友病患者に必要な血液製剤用に回すことはなかったのです。また、血液製剤の原料に売血血液を使うことで。血液製剤の薬価が高額になってしまいました。薬九層倍の考え方に従い、例えば製薬会社が血液の提供者に数千円支払ったとしても、製薬会社や処方する医師などの莫大な利益まで加味すれば、薬価は数万円と相当な金額になってしまいます。結局、血友病患者は人間扱いさえされていなかったのです。こう考えると、今さらながら私は多くの被害者や被害者のご家族、ご遺族たちの怒りの強さを察するに至り、当然ながらこのまま黙ってはいられません。

 '84年(昭和59年)8月、31歳の時、血友病患者会の会合の席に初めて参加した後の、私の悪質な製薬会社に対する不信感や怒りは頂点に達しました。後に解ったことですが、この総会の演出は、すべて製薬会社の企画に基づくものでした。会合の席で実際行われていたことは、後に詳しく説明しますが、あまりにも惨く私自身、目を疑いたくなる出来事でした。その時感じたことは多すぎて語ると長くなるので、ここではひとつ、製薬会社の営業担当者と想われる人物が会場に持ち込んだ、段ボールに詰められた医師の処方が必要な医薬品であるはずの血液製剤が、まるでバナナのたたき売りのバナナのように取り扱われていた、とだけ記載しておきます。この、私の常識では考えられない現実から、直感的に自分と家族を守り抜くという考えに至り、会場から一刻も早く逃げ出すことで精一杯でした。我が家では、'84年4月に私が結婚、'85年3月に長男が、'88年9月に次男がそれぞれ誕生しています。この会合から、ちょうど一年後の同じ日、日本航空123便墜落事故が群馬県御巣鷹山で発生したのが、'85年(昭和60年)8月12日のことで、この日は私にとっても、生涯において忘れられない一日になってしまいました。この事故が発生した当時、血友病患者用の安全な加熱濃縮血液製剤は、まだ流通していませんでした。日本の厚生省は、'85年7月に安全な加熱第Ⅷ因子製剤を、'85年12月に加熱第Ⅸ因子製剤を、それぞれ製造販売を承認しましたが、病院や流通業者等に残っている非加熱血液製剤の回収の指示を一切出さなかったため、日本の血友病患者は、在庫がなくなるまで危険な非加熱濃縮血液製剤を使わされ続けました。今日に至っては、AIDS(後天性免疫不全症候群)は死に至る病ではなくなりつつありますが、当時はHIVに感染するとAIDSの発症を抑える確たる治療法がなく、直接死を連想させるほど怖い病気だったのです。

 薬害による被害は、報道されているよりも遙かに甚大かつ深刻であり、隠された真実を数多く含んでいます。私に関しては、地元の前橋市内で出会い親しくなった血友病患者3名(内1名は薬害ではないと想います)を亡くしています。ただし私の場合、患者会に属した期間が極めて短かかったため、患者会で知り会った人たちは含んでいません。3名の内、一人は中学生の時、比較的近くに住んでいたため、二人は私が38歳以降、病院でそれぞれ知り会った血友病患者でした。亡くなったのは'70~'90年代ですが、彼らの笑顔や苦しそうな表情、日々の行動などが今でも目に浮かぶことがあります。国、製薬会社や一部の医師が主張した、「濃縮血液製剤が無ければ、血友病患者は生きては居られなかった。」という説は、大きな間違いです。この問題は、重症血友病患者である私が初めて濃縮血液製剤を使ったのは32歳になってからであり、その後、血液製剤を全く使えなかった人生における永い体験で充分証明できます。血友病はとかく白血病などと混同されがちですが、血友病は癌ではありません。血友病という病気は、基本的に血液凝固因子の一部が欠乏するため出血すると止血しにくい遺伝病であり、決して血友病患者の血管が脆く切れやすく、出血しやすいという訳ではありません。従って、血友病患者は脳内出血等を起こしやすい、ということでもなく、患者個人々人の体質や置かれている環境等にも大きく関係すると想われます。たとえば、胃腸病や関節症などの別の病気を併発している患者や、階段、急坂などの多い膝や足首などにかかる負担の多い地域に住む患者は、当然内出血のリスクは高まります。
 血友病患者が日常的に問題になりやすい出血は、激痛を伴う関節内出血や筋肉内出血、皮下出血等です。予防注射や日常の小さな切り傷等は、通常の場合傷口を圧迫するなどで止血出来ます。また、日常の自然発生する鼻出血、血尿、歯ぐきからの出血、軽度の痔による出血等は、通常の場合安静を保つことにより自然に止血されます。血友病が怖いのは、事故に遭遇した場合の、頭部を強打するなどによる頭蓋内出血、全身打撲や骨折等による内出血、外傷による出血、また他の病気を併発した場合の内出血等です。
 血友病の一つの症例として、よく脳内出血が語られますが、私には経験がありません。全国を見まわしても、そう多くは発生しない症例のようです。私よりも2歳以上年下の、作家の大西赤人さんは、「僕の「闘病記」」で、CTも血液製剤もなかったころの体験について書かれています。「三歳の時、脳内出血に見舞われた。デパートの床で転んだ拍子に、後頭部を強打したのだ。・・・一時的に左半身不随になったけれども、一カ月ほどで回復した。・・・」とあります。当時、適切な処置により快復なされたようで、血液製剤が全てではないことを証明しています。
 大東亜戦争前後の、日本の混乱期までの血友病の考え方として、死亡の最大の原因と想われる症状は、失血死も考えられますが、出血(内出血)を伴う感染症であったと推定されます。この感染症の場合2通りあり、赤痢や結核など感染症が原因で出血が起こる場合と、関節内出血、筋肉内出血、皮下出血、また、外傷や打撲等による出血(内出血)、などが原因で感染症に罹患する場合です。

 私は血液中の凝固第Ⅷ因子の保有量が健常者の100分の1未満の重症血友病A患者ですが、血液凝固第Ⅷ因子に対する重度のインヒビター(抗体)保有者であるため、永い間家庭で使用できる血液製剤が無く、自己注射の経験は一切ありません。インヒビター治療製剤も、私がインヒビター保有者であることが判明した’91年当時には、既に2種類存在していましたが、いずれも大量投与が必要で、内1種類の製剤を使うと、私には重篤な副作用が発生することが分かり、簡単には使えませんでした。従って、'80年代前半から多くの重症血友病患者が日常的に行っている定期補充療法(予防投与)なども、満60歳に至るまで、私にとっては夢の話だったのです。
 私の人生経験において、3歳の時に医師から「血友病」との診断を受け、幼い頃から自分が病気であることを自覚してきましたが、「血友病だから長くは生きられない」などと、誰からも言われたことがありませんでした。しかし、時代錯誤の医学史により、年代毎の庶民の生活実態が理解できない無能な医師から、致命的な症状が無いにも関わらず「二十歳まで生きられない。」などと脅されたり、小説などには「死をも連想させる病気」として登場するなど、多くの血友病患者が迫害を受けてきたと想われます。私の年代にもなれば、すでに戦前戦後の混乱期までのような劣悪な生活環境下で生まれ育った血友病患者も、ごく少数であった筈です。
 

 「血友病」は、大東亜戦争後の日本の医学界において、一部誤った見識があり、医師用の医学大辞典にも77年(昭和52年)頃まで「長くは生きられない病気」として、戦前の考え方が改訂もなくそのまま掲載されていました。この頃までの血友病患者に対する平均死亡年齢などの統計も確かに存在しますが、小児科医が診ていた死亡した患者のみを集計したなどで、調査範囲も極めて狭義であり、全国の全世代の血友病患者を網羅したものとはほど遠く、信憑性に著しく欠ける内容となっています。戦後の日本の社会環境において、血液製剤を使えなかった時代から輸血により血液凝固因子を補充する治療も行われており、すでに血友病は簡単に死んでしまうような病気ではなくなっていたのです。

 戦前戦後までの混乱期にあった日本の庶民の多数は、飢餓状態であったと言われています。この頃までの日本人の平均寿命は50歳にも満たず、’35年(昭和10年)から’50年(昭和25年)までの15年間、日本の死亡率第一位は感染症である結核でした。戦後まもなくの高度成長経済への移行とともに日本国民の食事の質も豊かになり、現在でも発展途上国では深刻な問題である、出血を伴う等の重篤な感染症、栄養障害、下痢症などの原因による乳幼児の死亡率も著しく減少し、平均寿命も急激に延びました。
 戦後、血友病患者の致命的な出血が減少した理由として次のようなことが考えられます。
1,感染症の減少
2,栄養状態の改善
3,医療技術の進歩(輸血が一般化した等)
4,生活水準の向上
5,封建制度の衰退(暴力行為等の減少)
6,第三次産業の発達(肉体労働の減少)
7,交通機関の発達(移動が楽になり、関節への負担が軽減された)  等です。

 私は、最も危険な時期、血液製剤からの血清肝炎の感染を恐れ病院へあまり行かなかったことや、主治医が口うるさい私に気を遣い、輸入濃縮血液製剤を処方しなかったことがHIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染から免れられた結果に繋がったと想っています。 私が感染症に対し人一倍敏感になったのには理由が有ります。それは、私が中学生の頃近所で赤痢が流行ったためです。当時としては、全国的にみても珍しくはない現象でした。その時の状況は、地元の上毛新聞をはじめ、全国紙の群馬版に詳しく掲載されました。両親は、私の感染による腸内出血を恐れクレゾール石鹸液を常備するなど、予防には必要以上に口うるさかったことを、今でも鮮明に記憶しています。他にも両親は、川の中に裸足で入り足の小指の付け根を切ってしまった時には、それからは靴を履いたまま川で遊ぶよう私を諭し、破傷風の予防や、敗血症の罹患などにも神経を常に尖らせていましたが、血友病のみならば簡単に死には至りません。私が二十歳を過ぎた頃からは、病院に行けば止血のため血液製剤を使うことになりましたが、幼い頃から病院には行かず出血に気づいたらできる限り早い段階から安静を保つのも一つの治療法であると考えており、年3~5回程度起きていた激痛を伴う関節内出血なども、通常の場合2~3日で自然に止血し、10日から2週間程度で完治していました。三省堂刊「薬害エイズ 原告からの手紙」に、「危険な薬と分かっていたら、捨ててしまえばよかった」という見出し文がありますが、血液製剤を一定期間使わなくても命を落すまでの事象には至らなかった、ということだと思います。私は今日に至っても、手術と重篤な出血以外には通常血友病患者が使っている濃縮血液製剤を使ったことがありませんので、血友病患者が日常的に起こる関節内出血などに対し濃縮血液製剤を使うことで、どれほどの治療効果があるのかが解りません。この件については、経緯が複雑なので、後に詳しく説明します。

 私は'84年(昭和59年)8月、31歳の時に、一時地元の血友病患者会「群友会」と「全国ヘモフィリア友の会」に入会しましたが、製薬会社の患者会への介入や、会報「全友」の広告の多さに愕然とし、逃げ出しました。退会の決定的な理由は他にもいくつかありましたが、そこには多くの非加熱濃縮製剤の宣伝広告が掲載されていたのです。初めて参加した患者会の会合の席で、私は製薬会社と医師の利権の存在を実感し、すでに商業化してしまっている血液製剤の実態を認識するに至りました。この会合の席には、二人の医師も参加していました。最も危険な時期、血友病の患者会は何をしていたのでしょうか?会合の席で製薬会社が制作した販売促進用の映画を上映するなど、必要以上に血液製剤の売り上げに貢献してきました。結果として非加熱濃縮血液製剤の需要が極端に増えてしまったことは言うまでもありません。現在解散状態にある「全国ヘモフィリア友の会」は、「血液製剤を使い広める会」であったと考えざるを得ません。
 安全な加熱濃縮血液製剤が出回る’85年(昭和60年)頃、「全国ヘモフィリア友の会」の会員数は約2,800人にまで達しました。比較して、血友病患者の薬害被害は、HCV(C型肝炎ウイルス)等の肝炎ウイルスの感染者数で、私を含め全国ヘモフィリア友の会のピーク時の会員数約2,800人は優に超えてしまいました。当初、純国産の血液製剤は国内の売血を原料としており非加熱であったため、輸入濃縮血液製剤(これも売血が原料で非加熱でした)を含め、使用した血友病患者の大多数が肝炎ウイルスに感染させられたのです。この頃実際に血液製剤を使用していた血友病患者(類縁疾患を含む)は、最少で約3,000人、最多でも約3,500人と推定されており、HIV感染のリスクを伴う、非加熱の輸入濃縮血液製剤を使用した患者はさらに限られたものの現実のHIV感染被害(大多数が肝炎ウイルスと重複感染)は想像を絶するものでした。HIV感染者がエイズを発症し死に至る確率が非常に高かった’90年代の初め、ある血友病患者会の役員から、たった一回の、非加熱の輸入濃縮血液製剤の使用で感染させられた患者や、東北地方の一部の県では会員全員が感染させられたことなどについて話を聞き、信じ難い衝撃を受けたことは今日に至っても忘れることができません。
 にもかかわらず、当初「血友病患者約5,000人の約4割にあたる約2,000人がHIVに感染した。」と報道されました。しかし、最も危険だった'85年当時、日本の重症血友病患者は、公表されている様々なデータを基に最大に見積もっても2.200人程度しか存在しておらず、中等症の患者を加えても多くて3,400人程度でした。分母にあたる血友病患者(類縁疾患を含む)の総数約5,000人という数字は、通常の場合、日常的に血液製剤を必要としない軽症患者をも含み、薬害による被害を極力少なく評価しようと、このようなトリックが、国、製薬会社や一部の医師らにより、あらゆる場面でねつ造され語られてきたのです。(財)エイズ予防財団による、「血液凝固異常症全国調査」も、日本全国の全員の血友病患者(類縁疾患を含む)を把握したものではありません。因みに、調査時の私の主治医並びに私は、この調査に回答していません。この調査が実施された当時、あまりにも病院へ行かない期間が長かったためか、私には声がかからなかった、とういうこともありました。この調査の報告書(平成28年度版)に掲載されている血友病患者(類縁疾患を含む)のHIV感染総数1,432人(内死亡708人)も、被害者全員ではないのです。法的にも血友病患者がこのような調査に答える義務はありません。決して少なくはないはずの、ウイルスに感染させられ世の中に知らされることなく闇に葬られた血友病患者、また、敢えてHIV訴訟に加わらなかった被害者やご家族、ご遺族の存在なども忘れてはならないと思います。

 血友病に関する風評被害は今日に至っても後を絶たず、迷信や間違えた言動を信じて疑わない人たちが、いまだ多数存在するということも大問題だと思います。「世の中の身勝手な人間どもに騙されるな!」、と叫びたい心境です。現在の血液製剤は安全性がほぼ確立されており、血友病患者にとって絶対的必需品となっていることは、間違い有りません。しかし、血液製剤はあくまでも医薬品です。医薬品である以上、薬剤を過信すと危険を伴う事態が発生しないとも限りません。これからの血友病患者会は、以前のような「血液製剤を使い広める会」ではなく、「血友病を考える会」であってほしいものです。

 なぜ私が31歳に至るまで血友病の患者会に入会しなかったか等について考えます。この最大の理由は、健常者の渦中で何とか生活して来られたからにほかなりません。血友病や、この治療薬である血液製剤などの情報は、父親から引き継ぎ個人で収集していました。純国産の血液製剤も、原料が献血血液ではなく売血血液であったことも解っていました。日本で献血が盛んになった時代は、私が高校生の頃です。高校3年生の時、献血の経験が数回あるという同級生から、一緒に献血に行かないか、と誘われたことがあるのでよく覚えています。もちろん、私には病気があるから、と断りましたが、私が健康体であれば出かけていていたと思います。にもかかわらず、血液製剤の原料に献血血液を使わせてもらえなかった理由を、当時父親がよく語っていたことも思い出されます。今過去を振り返れば、血清肝炎の感染を恐れ、31歳のころまでに使った純国産の血液製剤(クリオプレシピテート製剤、一本100単位)は僅か6~7本であり、32歳の時には純国産の非加熱濃縮血液製剤であった日本製薬のハイクリオ500単位を、痔による出血の治療のため一本だけ使いましたが、排便後の出血は直ぐにはなくならず、現実問題として血液製剤の治療効果が実感できたことは殆どありませんでした。この痔による出血の時は、勤務していた会社がお盆休みに入った8月12日のことで、正に日本航空123便墜落事故が発生した日でした。既に7月1日には加熱濃縮血液製剤の製造販売が承認されたことを、患者会で知り合った血友病患者から電話があり聞いていたので、クリオも加熱処理されているだろうと勝手に自分で想い込み、期待して病院へ行ったのですが、決して加熱処理された輸入濃縮血液製剤を希望していた訳ではありません。受診の後、使う血液製剤について質問しようとした時、加熱剤は9月からだと主治医に言われ、私が躊躇していると、高濃縮のクリオがあるからと返され処方されたのがハイクリオでした。私はその時、重篤な出血と深刻に考えてしまい主治医の提案を受け入れましたが、後にこの件で、ハイクリオは純国産ではありましたが非加熱であったため、どれだけ後悔したか分かりません。というのは、排便の後の拭き取ったペーパーが鮮血で真っ赤に染まるほどの経験は初めてではありましたが、その程度の出血では命に別状がないことが分かったからです。その後、便秘には常に気を遣っているので、目立った痔による出血はなくなりました。幸いにして入院生活も7歳~38歳の約31年間は、一度も経験していません。また、極悪な国の行政や製薬会社の貪欲性などに対する恐怖心から病院への足も遠のき、32歳~38歳までの約6年間、血液製剤と名の付く薬剤は一本たりとも使用しませんでした。

 このような私でも、血友病という病気には勝てませんでした。ついに力尽き、’91年(平成3年)、38歳の時、左足首の関節内出血が悪化し、リハビリを含め、約6ヶ月間の、約30年ぶり人生3度目の入院生活になりました。この時、ベッド上の長期安静を強いられたため、酷使してきた両膝や両足首はついに動かなくなり、この年の12月、いきなり身体障害者1級の認定を受けるに至りました。さらに、加熱濃縮血液製剤の大量投与を受けたことにより、私が重度のインヒビター(抗体)保有者であることも判明しました。また、非A,非B型肝炎ウイルスに感染していたことも、この時医師から告知されました。以前使用したハイクリオ一本かクリオプレシピテート製剤6~7本が原因であったと想われます。以降、約20年間のサラリーマン生活にピリオドを打ち、入退院を繰り返すようになったのです。救急車にお世話になった回数も64歳の時点で、すでに10回を超えています。余談ですが、関節内出血程度の症状で救急車を利用したことはありません。ちなみに、関節内出血は悪化させない限り死にまでは至らない症状です。

 重症血友病患者であれば全員が悩まされるであろう激痛を伴う関節内出血ですが、家庭療法が実現する以前は、病院まで辿り着くことさえ大変なことでした。関節の部位を動かせば動かすほど内出血がひどくなるためです。この家庭療法が我が家で実現したのは、私が57歳の、’10年(平成22年)7月のことでした。この頃、訪問看護の制度を私も利用できることを医師から告げられ、週2回の入浴介助などの定期訪問のほか、静脈血管が探しにくいという理由もあり、24時間対応で関節内出血などの血友病の症状が出現したとき、予め常備しておいたインヒビター治療製剤 デンマーク ノボ ノルディスク ファーマ社の「ノボセブン」を注射してもらうことになりました。この時「ノボセブン」は、製造販売承認から既に10年が経過しており、私にとって安心して使える薬剤になっていました。なぜ私がこの在宅療法を早くのうちから利用できなかったのかというと、私が重度のインヒビター保有者であるため、通常血友病A患者が使用する第Ⅷ因子製剤が使えなかったことが主な原因です。また、私がインヒビター保有者であることが判った’90年代は、インヒビター治療製剤が米国バクスター社の「プロプレックスST」と「ファイバ」の2種類ありましたが、何れの製剤も私には使用量や副作用の問題などで、家庭では簡単には使えませんでした。ちなみに、血友病の家庭療法(自己注射)は’83年(昭和58年)2月から認められていました。「ノボセブン」による家庭療法で、私は長時間の激痛(通常長くて3日程度)に耐えることがなくなりました。また、痛みが始まった時、製剤を打ってもらってまもなくすると不思議なことに痛みが消えていく感覚も改めて体験できました。この不思議な現象は、さらにこの15年程前の入院の時、「プロプレックスST」の使用により生まれて初めて一度だけですが経験していました。

 私の関節内出血について、始まった当時から近況までを簡単に総括してみたいと思います。内出血の部位としては、年齢により異なりましたが、平均化すれば、膝、足首、肘の順に多く、症状も1日もすれば完治してしまう場合から、激痛が3日程度続き、内出血の部位が硬直し完治までには至らない場合まで様々でした。まず、私に関節内出血が始まったのは膝で、’58年(昭和33年)の5歳のころからだと思います。1Kmほど離れた幼稚園に歩いて通うようになり、まだこの頃は障害が残るほど強い関節内出血はありませんでした。翌年には、幼稚園の隣の小学校に歩いて通いはじめ、1年生の1学期までは、体育の授業を普通に受けていました。1年生の夏休みの直前に左膝の内出血があり数日間学校を休みそのまま夏休みに入りました。この時は、完治に1週間程度かかったようです。この内出血があったため、2学期以降の体育の授業はすべて見学することになりました。その後、関節内出血が重症化したのは、2年生の夏休みの時でした。内出血により左膝が曲がったまま硬直してしまい、歩くのに大変な事態に至ってしまったのです。そこで左膝を伸ばすためのリハビリのため、生まれて2回目の入院生活になりました。この時は、1ヶ月程度で退院になりましたが、完治にまで至らず、’60年(昭和35年)12月、私は身体障害者5級の認定を受けました。その後、左膝は、長い時間がかかりましたが徐々に曲がるようになり、高校生の頃にはサドルを少し高くすれば自転車が普通にこげるまでに回復しました。18歳の時は、普通自動車免許も眼鏡等使用の制限のみで取得しています。私は、20歳ごろまでは両肘の内出血が殆どありませんでした。ギターや、アーチェリー、ゴルフの打ちっ放しなども20歳代前半までは、普通にできていました。私は、35歳のころから右股関節の内出血を稀にですが経験するようになりました。これは30歳のころからビデオ撮影の副業を持つようになったことが原因だと想います。業務用カメラや4分3インチのビデオテープレコーダーなどを買い揃え、主に土、日を撮影日にあて、夜、編集作業を行っていました。イベント撮影の依頼が多く、仕事はできるだけ増やさないようにしていましたが、撮影は立ち仕事で私にとっては重労働でした。本職は、29歳の時、約10年間勤務した税理士事務所から、会社の経理責任者へと転職しています。私は、38歳で障害者1級になって以来、強い関節内出血が年に1-2回程度と、回数が半分から3分の1程度にまで激減していました。両膝関節と両足首の関節が硬直状態で動かなくなったことが主な原因で、これらの関節には内出血が起こらなくなっていたのです。38歳以降は、足が不自由になり負担が増えたからだと想いますが、両肘の内出血が若干ですが増えました。私は、特に肩関節に内出血があった経験はありません。ただ、左肩に関しては五十肩の症状で長年苦しんだことがありました。両手首の関節は、数えるほどしか内出血を起こしていませんでしたが、38歳の時、左手首が硬直して以来、右手首にも目立った内出血はありません。

 '84年(昭和59年)8月に、私は初めて血友病患者会のへ入会して以来、県内外の多くの血友病患者と話し、その内情が少しづつですが解ってきました。最初のころまず戸惑ったのは、全国ヘモフィリア友の会の会報「全友」です。この会報を見て最初に目に入ったのが製薬会社の派手な広告欄でした。高校卒業後約10年間税理士事務所に勤務した経験のあった私が興味を持ったのは広告料のことです。枠の大きさや位置の違いから広告料にランクがあることも想像できました。その後、知り合った数名の血友病患者から、'67年発行の創刊号から毎年発行されていた全ての会報「全友」の提供を受け、目を通すことができました。最終的に感じたことは、数限りない薬害の犠牲者を血友病患者から出した原因の本を正せば、製薬会社と関係が深い二人の医師が患者会設立当初から、会に深く介入したことから始まった、ということです。血友病の治療薬である血液製剤の治験の段階から製薬会社と関係をもち、世の中に充分発言することができたはずの二人の医師とは、当時、奈良県立医科大学小児科教授だった吉田邦男医師と、東京大学医学部第一内科講師だった安部英医師です。なお、安部英医師は、'71年に帝京大学医学部教授に就任しています。それぞれ所属していた、奈良県立医科大学附属病院と、帝京大学附属病院の、血友病患者のHCVとHIVの感染率が非常に高かったことが、二人の絶大な影響力を物語っています。そして'71年8月、製薬会社と関係が深く、近親者に血友病患者が存在する訳でもない、名古屋市在住の北村千之進さんが、血友病患者の全国会会長に就任したことで、患者会は最悪な人的環境に陥ってしまいました。私も1度だけこの会長と電話で話をしたことがありましたが、彼は本当に血友病患者のことを理解できていたか疑問ですし、血友病患者に対し、いかに多くの血液製剤を使わせるか、ということだけを考えていた、としか私には想えません。全国会発足当初は、血友病患者の親が会長に就任していました。日本で濃縮血液製剤の製造販売が承認されたのは、第Ⅸ因子製剤が'72年(昭和47年)、第Ⅷ因子製剤が'78年(昭和53年)で、もちろん非加熱で原料は全て売血血液であり、この中には米国から輸入した売血血液を原料とした日本の製薬会社も含まれていました。またこの時、米国の製薬会社が製造した非加熱で原料は売血血液の濃縮血液製剤の輸入も承認されています。以降、米国から大量の売血血液や、これを原料に製品化された大量の非加熱の濃縮血液製剤が輸入されるようになり、血友病患者用血液製剤の消費量の大多数を占めるまでになっていったのです。私は、本数は少ないながらも日本の売血血液が原料の日本製薬の製品を使いましたが、日本製薬では、HIV感染被害者を一人も出していません。日本には'85年当時、血液を提供する側のHIV感染者は殆ど存在していなかったのです。しかし私は、加熱処理が遅れていたこの製剤も疑い、どんなに辛くても、'85年の32歳の時から約6年間、一度も病院へは行きませんでした。日本の血友病患者は早くのうちから緊急を要する事態に遭遇していたにも関わらず、患者会では、いかに安全な血液製剤の供給を受けるか、という問題は蔑ろにされ、高額な血液製剤の自己負担をいかになくすか、ということばかりが多く語られてきました。遅れに遅れ、日本で安全な加熱濃縮血液製剤が出回るようになったのは、'85年(昭和60年)の秋ごろからです。やがてHIV抗体検査が一般化し、以降、基本的に都道府県ごとに存在した、ヘモフィリア友の会、各支部の幹部の多数がHIVに感染させられてしまったことが徐々に表面化し、多くのヘモフィリア友の会の支部でHIV感染被害者が多数派を占めるまでになってしまったのです。

 私は。物心ついたころから、父親から病気であることを言い聞かされ、多くの制限を受けてきました。3歳の時にできた上唇の傷にも、どれだけ悩まされたか分かりません。ですが常に優しく接してくれた父親を憎むことはありませんでした。今でも、当時の写真を見ると、心が癒されるほど落ち着きます。私は、7歳の入院のころから、父親から「おまえの病気は、成人に達すれば治る。」と教育されてきました。このことは、20歳のころにはかなりの事ができるようになっていたので、今になって思えば、まんざら嘘でもなく、当時は大きな心の支えになりました。私は、同じ年代の健常者と比べても、より多くのことを体験してきていると想います。私が38歳まで血液製剤を拒み続け、自己の健康管理に依存し、どうにかこの社会で生活してこられたことは、父親の存在なしでは考えられません。今、血友病患者である私が過去を見詰め直すと、一番辛かった時代が小学生の時であったことは断言できます。小学校2年の退院以降19歳の高校卒業まで、病院へ行った回数は片方の指で数えられる程度でした。もちろん、まだ病院には血液製剤がなかった時代の話です。父親と一緒に近くの病院へ行き、父親の血液を採取し輸血してもらったことが2回ほどあり、舌を歯で傷つけてしまった時と、歯ぐきに魚の骨が刺さてしまった時です。医師が、止血の効果に驚いていたこともありました。この間、血尿、鼻出血、外傷などでは一度も病院へは行きませんでした。小学校低学年までは関節内出血の激痛に泣き喚いていましたが、小学校高学年になると涙も出なくなり、歯を食いしばり汗だくになりながら激痛に耐え、治まるの待つようになりました。関節内出血で病院へ行ったこともありましたが、湿布薬やビタミン剤を処方してくれる程度で、気休めの効果しかありませんでした。歯科医へは61歳の時まで、治療目的では一度も行ったことがありませんでした。私が成人に至るまで、重症血友病患者の中でも他の患者に比べ関節内出血の後遺症が比較的軽く済んだのは決して偶然ではなく、多くの理由があったからだと想っています。血友病患者が最も住みやすい環境は、膝や足首に負担がかからない、平坦な地形や生活空間だと思います。我が家の場合、小学校の通学路には階段はもちろん、坂と言えるような坂もなく、当時は歩道橋もありませんでした。我が家から1kmほどの距離の小学校、1、5kmほどの中学校、5kmほどの高校まで全て木造2階建てでした。2階建ては3階建てに比べ階段の数が半分に、4階建てに至っては3分の1で済みます。小学校の通学は、2年の時の入院以来、関節内出血の後などの調子が悪い時、朝は父親のオートバイで送ってもらい、帰りは母親に自転車で迎えに来てもらっていました。6年になると、自転車通学を許可してもらいました。当時は左膝の可動が20度程度までで、端から見れば変な乗り方だったでしょうが、私にとってはかなり楽ができました。もちろん、中学校にも自転車で通学しました。高校生の時は、朝は父親に車で送ってもらい、800mほど歩きバスで帰りました。この頃になると関節内出血も比較的軽く済むようになり、調子の良い時は歩いて帰ったことも数回ありました。

 '14年(平成26年)7月、日本の化学及血清療法研究所が、「バイクロット」というインヒビター治療製剤の製造販売承認を受けました。インヒビター治療製剤としては、日本の製薬会社初、3社目の承認です。しかし、以前の薬害のことが頭の片隅に強烈に残っており、私は、この製剤を今すぐ使う気持には、どうしてもなれません。現在、私が日常的に安心して使える血液製剤は、15年以上使っている「ノボセブン」、一種類しかありません。私は、重度のインヒビター保有者であるため、'10年に、私に家庭療法が認められてからも、血液製剤の定期補充療法(予防投与)までは、生涯にわたり受けられないだろうと、覚悟を決めていました。在宅療法そのものが、長年にわたり、私にとっては夢の話でした。私に'10年まで家庭療法が認められなかったことについては、私が敢えて家庭療法を希望してこなかったことが、原因の一つでもありました。この理由は、私には、安心して使うことができる血液製剤が、当時存在しなかった、ということです。私は、血友病患者ですが、新鮮血液さえ必要量が確保できれば、絶対に死ぬことはない、という信念を、若い時から持っていました。ちなみに私の両親をはじめ、妻や2人の子どもたちはすべてO型です。また親族も、私と同じO型が多く、いとこも40人以上います。言うまでもなく、基本的に血液製剤は血液を濃縮した薬剤です。とは言うものの、日本で血友病患者用の血液製剤が使われ始めてから、すでに半世紀です。私にも、定期補充療法(予防投与)を開始する機会が、ついに訪れました。このきっかけになった私の血友病の症状は、数回繰り返した腹腔内出血です。私が、生まれて初めて明らかな腹腔内出血を経験したのは、私が59歳の時でした。

 私の腹腔内出血の原因ですが、何れのケースも特に外圧があった訳ではなく、食事も普段と変わらず、生活環境も別に変わったことはありませんでした。4回のうち1回のエピソードでは、消化管出血も同時に起こしています。処置として、「ノボセブン」の処方は当然受けましたが、何れのケースも嘔吐や耐え難い鈍痛があり、吐き気止めや6時間毎の「ペンタジン」(鎮痛薬)投与の処方も受けました。短時間のうちにHb(ヘモグロビン)の値が急激に降下したケースもあり、当然ですがこの場合は輸血の処方も受けています。内1回は、私は腹腔内出血を実体験により学習していたので、夕食後に腹部の張りや嘔吐などの症状が出現したところで、早期のうちに腹腔内出血を疑い、救急搬送してもらいました。その時の搬送先の病院では、血友病専門医が出張で不在のため、別の夜勤の内科医に血液検査やCT検査などを実施してもらいましたが、顕著なデータが未だ出現しておらず、このため「ノボセブン」投与の処方もなく、吐き気止めの薬を処方された程度で即帰宅を指示されてしまいました。私は、この指示に納得がいかず、付き添っていた妻とともに救急外来のストレッチャーに居座りました。私としては、腹腔内出血は、時に急激に進行することがあるため、強い恐怖感があったのです。長い一夜を明かし、翌日やっとのことで血友病専門医の診察を受け入院することができたことがありました。結局、入院後すぐに強い鈍痛などの腹腔内出血の症状が新たに出現し、血友病専門医から、入院日の午後に、「昨日は、帰らなくて良かった。」、という言葉をいただきました。血友病患者は一般的に、本格的な関節内出血などが起こる前に、自ら予兆を感じ取ることがあります。私の腹腔内出血の、担当医師の診断では何れも原因不明で処理されましたが、最後の内出血の後、自分なりに考えた結果、今は語ることができませんが、一つの結論を導きだすことができました。

 血友病の私が置かれていた、年代毎の生活環境下で、病院で適切な処置が施行されていなければ、確実に死に至ったと考えられるエピソードの回数を数えてみたところ、満64歳の時点で10件以上ありました。しかし、濃縮血液製剤が無ければ確実に死に至ったと私が思ったエピソードは、一件もありませんでした。'67年から出回っている新鮮血漿から凝固因子を抽出したクリオプレシピテート製剤や、新鮮血は入手できた時代なので、特に問題はなかったはずです。最初に体験したのは、3歳の時の事故による外傷、これは主に失血の危機です。2回目は38歳の関節内出血後の自己の不適切な処置による感染症、これは主に片足切断の危機、と続き、腹腔内出血は4回ありました。私に、本格的な血友病が原因のエピソードが始まったのは、この2回目の38歳の時からでした。私は、38歳で身障者1級になってからも、日常的に血液製剤を全く使えないながらも、できる仕事には極力挑戦してきましたので、体に過度な負担をかけてしまったことも否めない事実です。

 我が家では、訪問看護制度の利用を開始した’10年(平成22年)から、大学の看護学部や看護専門学校の実習生、訪問看護の研修生を積極的に受け入れています。それは、私の病気である血友病のことを、一人でも多くの医療関係者に関心を持ってもらいたいと考えるからです。血友病の症状は、内科の医師でも解りにくいところがあり、どうしても数少ない血友病専門医に頼らなければならない場合もでてきます。このような緊急事態に、いち早く危険を察知し、素早く血友病専門医に連絡ができる基礎知識を医療関係者に習得してもらうことも、必要なことだと思います。人間の血管は、動脈、静脈、毛細血管から構成されています。血友病患者の目に見えない日常的な内出血は、この毛細血管から起こります。血友病患者の血管そのものが健常者と比べ、弱く切れやすい、ということでもありません。健常者の毛細血管からの内出血は、血液の凝固能力が優れているため、通常の場合重症化しません。血友病患者毎の不足した血液凝固因子を補い、凝固能力を向上させるために使われる薬剤が血液製剤です。血友病治療の歴史は、患者を死に至らせないため、また患者の苦痛を和らげるため、いかに早く止血できるかに尽きると思います。なかでも内出血の場合、血管の損傷部位や出血量などが判りにくく、より詳細な注意が必要です。日本でも、高校生の血友病患者が暴力を受けたことによる内臓の損傷と想われる症状で、残念ながら死に至らされた例も現実に存在しました。このような悲劇を未然に防ぐためにも、家族は言うまでもありませんが、周囲の医療関係者も、心理面を含めた日常のきめ細かな心遣いが必要になると思います。特に医療関係者には、血友病患者は処置を間違えたら危機的状況も起こり得ることを認識してほしいと思います。血友病患者は、血液製剤さえ打っていれば何の心配もない、などと簡単に考えないで下さい。私は、すぐに入院が必要な重篤な症状にも関わらず、血友病専門医が不在のため、帰宅を指示されたことが2回ありました。内1回は、血液製剤の処方を受け、いったん帰宅しましたが、次の1回は、血液製剤の処方がありませんでしたので、救急外来のストレッチャーに居座りました。

 私が38歳の時に関節内出血が悪化した後、自ら書いた記録の一部を記載しておきます。『・・・一人でいくら意地を張り頑張ってみても、所詮、生身の体。曲がり角は、私にもあった。遡ること2年前、私はいつものように、自己の安易な治療法により蒲団をかぶっていた。左の足首が腫れ始めていたのだ。少量のビールと市販の鎮痛剤を飲み「今度は、二日だな。」会社を休む日を予測しながら、もの心ついた頃より体験している、いつものパターンである、激痛に耐えつつ、いつの間にか寝込んでしまう。とにかく腫れ始めが肝心で、そこで無理をすると、二日では済まなくなる。安静第一だ。ところが二日後、今度は左膝が腫れてきた。足首も一向に良くならない。さらに二日後、どうしても会社に行かなければならない日の朝、這いつくばって、風呂に入ってしまったのだ。どうやら、それが悪かったようだ。いつもと、違う。体の疲労度が限界を超えてしまったらしい。早急に仕事を切り上げ、帰宅と同時に、また寝込んだ。そして、さらに六日後、私は、救急車で病院へ運ばれることとなった。気が付いたら、左足首の両側が化膿していたのだ。左膝から足の先までパンパンに腫れ、意識も朦朧となった。両方の踝から黄色い膿が流れ出ている。左手首も右肘も腫れていた。(HIVの感染が怖く)10日間病院にも行かず、家で寝ていたことが、運命の分かれ道だったのだろう。これで命が終わるなどと夢にも想わなかったが、結局それから六ヶ月間の入院生活を、強いられる結果となった。入院の際、私は初めて社会保険の血友病一ヶ月一万円自己負担と群馬県の難病認定を同時に受けた。実質自己負担0円の、金銭的な恩恵には甘えざるを得なかったが、一抹の寂しさもあった。 とかく人間は、周囲の人たちと同じ行動を起こしたくなるものだ。しかし、私は自分の考えを貫き、いまでも何とか生きている。和して同ぜず。団体行動を、大の苦手とする。昔からそうだった。そこには、理不尽なルールが多過ぎる。拘束により人間の個性を喪失させ、少数意見を排除する。人間どうし利害を争っていたら、人の本質を失ってしまう。一度しかない人生。自由にいきたらいいだろう。スカスカになった骨も密度が増してきた。いま、英気を養うべく自宅療養中だが、更なる自由を得た、と自負している。明日は、また外に出て東奔西走できる、と信じる。だれもが、そうであるように、夢もあれば、やり残したことも、世の中に言いたいことも、山ほどある。マニュアル付きで人間に管理された人生ほど、虚しく悲しいものはない。被害者を創り出す、悪質なメディアや、製薬会社、厚生省のマニュアルだけは、もう散々だ。感染爆発さえも紙と電波を駆使し、うまく丸め込むのだろうか。己の分別を見極めるべきだ。   平成五年四月二十六日」』私は、これほど連続して関節内出血が起こったことは、未だかつてありません。この38歳の時の一度限りです。過度の疲労感が、関節内出血を誘発してしまったのかも知れませんね。私はこの時、3ヶ月にも及ぶ、緻密で献身的な医療スタッフの治療により、左足を切断せずに済みました。また、ある看護婦から、「もう、大丈夫なんだから!。」と言われ、ようやくHIVから確実に逃れられたことが、実感できました。

 私は、今日に至っても「自己注射」の経験は、一切ありません。大の大人がこのようなことを他の血友病患者に話せば、笑われてしまうかも知れませんが、未だ、小学校2年の入院中、太ももにやたら打たれた注射の記憶が残っているため、これがトラウマとなり、どうしても自分の体に針を刺すことができないのです。この入院の時、病棟に看護婦として勤務していた親しかった叔母が、痒み止めの注射を私の腕に打とうとした時、断って打たせなかった、ほろ苦い思い出も心の奥に残っています。私は、主に小学校の時に受けた予防注射などの時も、いつも怖くて震えていました。現在は、右鎖骨の下部にCVポートを埋め込んでありますし、また、自宅に常備している「ノボセブン」に付属している25ゲージのトンボ針(翼状針)を使い、どうしても必要な非常時には自ら対応しようと覚悟を決めていますが、未だ実現していません。CVポートに対しトンボ針を使うことには、22ゲージのポート針(ヒューバー針)を使うよりも、むしろポートが長持ちすると考えており、この件に関しては担当医師の承認も受けていますし、何の問題もないと想っています。なお、現在は25ゲージのトンボ針を使い看護師に打ってもらっていますが、特に技術的な問題もなく、殆ど無痛で、苦痛を全く感じません。

 私は、インヒビター保有者であることが判明した’91年(平成3年)38歳以降は、通常血友病A患者が使う第Ⅷ因子製剤を全く使用しない期間が1~3年程度経過するとインヒビターの力価が1ベゼスダ程度以下にまで自然に下がり、手術や重篤な症状の時は、第Ⅷ因子製剤を使うこともできていました。ただし、これも連続2週間程度が限界で、それ以降は第Ⅷ因子製剤をいくら大量に投与を受けても全く効果が出ないほど、インヒビターの力価が再度急激に上昇してしまいます。私は、この手法の繰り返しにより、2回の手術と数回の重篤な症状に対応することができていました。ただし、この手法をスムーズに実行できたのは’09年(平成21年)5月、56歳の時までの約18年間が限度で、この時以降、全く第Ⅷ因子製剤を使っていませんが、63歳の時点でも4ベゼスダ程度までしかインヒビターの力価が下がっていません。私が、インヒビター保有者であることが判明した’91年には、私が日常的に使用できる血液製剤が、インヒビター治療製剤である「プロプレックスST」と「ファイバ」だけでした。日常的とは言っても、使用したのは病院内のみで、最初の3回ほどは通常血友病B患者が使う、特殊な乾燥人血液凝固第Ⅸ因子複合体製剤「プロプレックス ST」の大量投与を受けました。後に治療効果が、より優れているという「ファイバ」に変え。’98年頃から’09年までの約12年間で、5度程度処方され、連続して使ったことは2回まででした。’01年11月には「ノボセブン」を1回処方されましたが、この薬剤は初めのころは使用量に制限があり、簡単には使えませんでした。「プロプレックス ST」は、'06年に生産中止になっています。「ファイバ」をあまり使わなかったことには、私にとって明確な理由がありました。「ファイバ」は、一般名として乾燥人血液凝固因子抗体迂回活性複合体とあり、第Ⅷ因子も含まれている、と考えられていました。従って、ハイレスポンダー(重度の抗体保有者)の私が「ファイバ」を使用することにより、若干ながらインヒビターの力価が上昇してしまうと想われたからです。また、体重約60kgの私が、ある程度の治療効果を得るには、1度に3,000単位が必要で、500単位の溶液を連結して6本になり、当時は、点滴で1時間30分~2時間もの時間が必要でした。私が最後に「ファイバ」を使用したのは、’09年5月の膀胱結石除去手術後のことで、この時、1度の使用で血小板の著しい減少が起こり、血管内に血栓が出現したため、以来「ファイバ」は、使用していません。

 血友病患者は、性格的に口数が少なく穏やかな人たちが多いなどと、特に医療関係者などにより、昔からよく語られてきました。しかし、実際に深く話しをしてみると、重症度や生まれ育った生活環境、年齢などの違いもあり、血友病患者はそれぞれの確信的な考え方を持って精一杯努力しながら生きていることが解る、と想います。つまり、人間それぞれ個性が異なるように、血友病患者が100人いれば、100通りの違った考え方の人たちが存在する、ということです。ですが、なぜか日本でも輸入濃縮製剤の危険性が囁かれるようになったころは、状況が少し違っていたように私には感じられました。みんなが、申し合わせたように同じ方向を向いてしまっていたのです。遡ること私が31歳の'84年(昭和59年)8月、加熱濃縮製剤が世の中に出回る1年以上前のことでした。妻と二人で初めて出席した血友病患者会の会合の席で、話題が、患者全員が血液製剤を使うことを前提に進められていて、私が、「輸入濃縮製剤は危ないから使わないほうがいいよ!」などと一言でも口に出せば喧嘩にでもなりそうな雰囲気だったため、居たたまれず会合の途中の休憩中ではありましたが、退席と言うよりも逃げ出し、帰宅してしまいました。私が運転する帰りの車の中で、「あの調子だと、みんなエイズになっちゃうよね。」などと、妻と話しをした、苦い思い出も残っています。私達夫婦は、’84年4月に結婚、初めて血友病患者会の会合に出席した8月には、すでに妻のお腹に長男が宿っていました。この会合の一ヶ月ほど前に、血友病専門医が私の受診中に、血液製剤のことを「麻薬だよ!」と語っていた真の意味が、その頃の私には解っていませんでした。

 基本的に「血友病」を確定診断できるのは医師のみです。日本では、この医師が原因の、血友病に関する誤った考え方が、信じられない事に全国に拡散されてしまっていたのです。日本の血友病患者にとっては、悪夢のような出来事が現実に起こっていました。この元凶となったものは、’31年(昭和6年)初版発行の、医学生から医師に至るまで広く講読されてきた南山堂発行の医学大辞典でした。問題は、この南山堂医学大辞典の’39年(昭和14年)発行以降の、「血友病」の欄に、なんと「8歳以前で60%が出血死」、と記載されていたというのです。いったいこれは、いつの時代の、どこの国の統計なのでしょうか。さらに問題は、この統計には調査対象人数が入っていないことです。恐らくこれは、たった数名の亡くなった血友病患者のみの統計です。この内容は、‘77年(昭和52年)3月の毎日新聞の記事で、世の中に公表されました。'77年以降は、改訂されている筈ですが、なぜ38年間も間違いが訂正されなかったのでしょうか。私は、この年には既に24歳。体調は絶好調で、血友病が原因の死を意識したことなど全く無く、夢にも考えられないことでした。そもそも、’39年には、日本の血友病患者の生存率がこれほど低かったのか、そこから疑問です。もし、この統計が正しいとすれば、これは、主に限られた病院で亡くなった血友病患者のみの統計であり、私のように生存する血友病患者は、病院にも行かない場合も多く、特に昔は、実際に血友病患者が何人いたのかも正確には把握できていなかったはずです。これを、単純に血友病患者全員の平均死亡年齢と考えさせること自体、無理のある話です。また、調査対象人数が入っていないことで、如何にいい加減な調査内容であったかが解ります。血友病に関する調査は、日本だけの話ではなく、全世界でも、年代が遡るほど調査対象人数が少なく、信憑性に欠ける内容になっていた、と考えられます。また、この時代は、血友病患者の重症度までも正確に把握できない時代であった筈です。百歩譲って、’39年の内容が正しかったとしても、大東亜戦争後の日本は、一般庶民の生活環境も著しく変わっており、この極めて低い血友病患者の生存率が38年間も続いていた筈がありません。さらに問題は、南山堂医学大辞典で勉強したデリカシーに乏しい無能な医師が、浅はかな知識として、日本の血友病患者に誤った情報を流布してしまったことです。血友病患者は、血友病と診断されただけでは、直接の死亡原因にはなりません。にもかかわらず、血友病と確定診断しただけで、「20歳までは生きられない。」などと告知することは、ただの脅しにしかならないのです。この間違えた考えが方が、非加熱の輸入濃縮製剤の大量消費に繋がっていった、と考えられます。

 私は、'07年(平成19年)1月、54歳の時に、気管切開の手術を受けています。これは、風邪を拗らせ、2週間ほど咳が続き、喉から舌の奥までを刺激してしまったため、内出血が酷くなり、首から下あごにかけて腫れあがり、呼吸が困難になったためでした。私はこの時、腫れあがった喉に受けた最初の切開の位置が悪く、再度位置をずらし、2回の手術を受けました。私が、この手術を受けるまでに至った原因については、当時、仕事で徹夜が続くなど、体に過度な負担をかけてしまったことが考えられます。私が、妻の運転する車で最初に病院へ行ったのは、午後7時頃のことで、夕食が喉を通らなくなり、喉の周辺の痛みが増してきたためでした。病院に到着したときには、すでに血友病専門医が帰宅していたため、代わりの夜勤の内科医の診察を受けました。この内科医は、血友病専門医と連絡をとっていたようでしたが、「ノボセブン」4.8㎎、2本の処方の後、私に帰宅を指示しました。この時は、呼吸がいつもとあまり変わらなかったため、不安は残りましたが、指示に従いました。帰宅後、私の病態が急変し始めたのは、日付けが変わる時間帯のころからでした。意識が朦朧となり、時折息が詰まる状態になってきたのです。やがて、心配した病院の内科医から我が家に電話があったのが午前1時頃のことでした。ところが、電話に出た当時認知症ぎみだった父親が、「大丈夫です。」と、すぐに断ってしまったらしいのです。午前3時頃になると息苦しさはさらに増し、私は、ついに限界を感じ、妻に、救急車の手配を頼み、搬送してもらうことにしました。そして、病院到着後直ちに、夜明け前の、気道確保のための緊急手術を受けることになりました。私はこの時、手術室に向かうストレッチャーの上で、手術担当の医師に、断片的な意識しかなかったものの、膀胱結石があるので尿道カテーテルは入れないよう指示していました。手術直前や、以降使用する血液製剤については、日頃のインヒビターの測定で、力価が1ベゼスダ未満に下がっていて、第Ⅷ因子製剤が使えることが判っていたので、あまり心配はしませんでした。なお、2度目の手術は、再度第Ⅷ因子製剤の投与を受け、この日の夕方に実施されました。手術後、約1ヶ月間の入院生活を過ごし、手術中に取り付けられたカニューレを外すことができたのは、さらに1ヶ月余り後の、通院の時でした。

 私は、54歳の時の8月に、イレウス(腸閉塞)により4週間近い入院生活を経験しています。この時は、時間をかけた手厚い治療を受けることができたため、症状の進行が抑えられ、顕著な消化管出血や腹腔内出血を未然に防ぐことができ、血液製剤を1バイアルも使わずに済みました。と言うよりも、1月には気管切開手術のため第Ⅷ因子製剤を目一杯使っていて、まだ半年程度しか経過しておらず、このためインヒビターの力価が簡単に下がるはずもなく、また、インヒビター治療製剤の「ファイバ」を使うことで、私には血小板の減少という副作用が起こることが、この時、すでに分かっていて、何れの血液製剤も簡単には使えませんでした。また、この時、もう一つのインヒビター治療製剤である「ノボセブン」も既に出回って7年ほど経過してはいましたが、使用できる量の制限などがあり、この製剤も、当時簡単には使えませんでした。何れかの血液製剤が容易に使えれば、担当の医師は、予防のため多かれ少なかれ、この時の私の症例では使っていたと想います。この時の症例も、病院で適切な治療を受けられていなければ、血友病の私は、為す術もなく確実に死に至っていたと考えられます。私が、イレウスを患った原因については、主に中年太りになったことだと想います。この数ヶ月前から、胴回りが太ってきたことが気になってはいましたが、普段穿いていたズボンのサイズをを変えることもなく、そのまま穿いていたことで、結果的に小腸を締め付けることになってしまったことが、イレウスを患った主な原因でした。また、寝ているとき以外は、椅子に腰を下ろしていたことが多かったため、運動不足であったことも考えられました。さらに、内臓に関しては、若い時から自信があり、なんでも好き嫌いなく食べられていたことも、一つの原因でした。症状については、食欲不振が数日間続き、しだいに腹痛をともなうようになり、その後、朝目が覚めた時、激しく嘔吐してしまい、腹痛がさらに続いていたため、妻の車で病院へ行きました。そして、血液検査や、CT検査などの結果、イレウスであることが判り、直ちに入院することになりました。絶飲食を指示され、病室に入る前に、鼻から小腸にまで達する、2m以上ありそうなイレウス管が挿入され、病室に入り、まもなくすると、点滴による治療が、生理食塩水による水分補給から開始されました。その後、抗生剤や栄養補給の点滴を随時受けました。入院後の腹痛も断片的に続きましたが、その都度鎮痛薬を入れてもらい、数回の急場を凌ぎました。以降、入院11日目でイレウス管は外されましたが、点滴は退院の前日まで続きました。食事は、入院後2週間目頃、流動食から出され、一分粥、五分粥と続き、出されて10日目頃から常食になりました。

 私の、57歳に至るまで、永く夢でしかなかった、血液製剤の「在宅療法」について、詳しく記載しておきます。私が、家庭療法の実施に至らなかったのには、3つの如何ともし難い理由がありました。3つを端的に言えば、注射が嫌いなこと、静脈血管が探しにくいこと、使える血液製剤が無かったこと、です。わが国で、血友病患者に「自己注射」が認められたのは、'83年(昭和58年)2月、私が30歳の時です。皮肉なことに、この時には既に、血液製剤を使うと、血清肝炎だけではなくエイズに罹患する可能性があることが、日本国内でも囁き始められていました。私が、最初に「自己注射」を考えたのが、初めて患者会に入会した'84年、夏のことでした。考えた、とは言っても、この時は私以外の血友病患者の動向を知りたかった、程度の思いしかありませんでした。以降、65歳の時点で担当の血友病専門医は5人目になりますが、私自身が注射が嫌いなこともあり、私から「在宅療法」の実施を依頼したことは、一度もありませんでした。また、私の静脈血管がどれほど探しにくいかを証明する、次のようなエピソードがありました。入院が決まると、必ず静脈血管ライン確保のため、腕や手の甲にサーフロー針(留置針)を刺します。女性2人と男性1人の研修医3人が、入れ替わり立ち替わり仲良く3回づつ刺して全てだめで、ベテランの医師も一回失敗し、結局ライン確保ができたのは11回目だったことがありました。この時、女性研修医が刺した1ヶ所から皮下出血が起こり、鶏の卵位いの広さが腫れてしまい、皮下出血の場合、痛みはあまり感じないのですが、気分が悪い長時間を過ごすことになってしまいました。この数年前にも、サーフロー針を10回、同じ研修医に続けて刺されたことがあったため、この時以来、研修医が私にサーフロー針を使う場合、全てお断りしています。私の場合、採血の時でさえ、1回で採れることは、あまりありません。私は、小さい時から注射針に対し強い恐怖心があるため、刺される瞬間にに血管が拒否反応を起こしてしまうのかも知れませんね。私が38歳の時、インヒビター保有者であることが判ったところで、生活環境が変わるわけでもなく、ただ以前のように日常的に血液製剤が使えないだけで、特に悲観することもありませんでした。そして、初めて在宅療法が実現したのは、週2回の入浴介助などを訪問看護に依頼した、'10年(平成22年)7月、私が57歳の時でした。この時、訪問看護を依頼したのは、どちらかというと週2回くらいは風呂に入りたい、という希望の方が先で、訪問看護の看護師は、殆ど病院勤務10年以上のベテランで、静脈注射には精通しているため、私の血液製剤の家庭療法も実現したということです。この時には、「ノボセブン」を必要に応じて、1本4.8㎎を2バイアル、一度に使って良いことになっていて、汗だくになりながらの激痛が3日程度続く関節内出血に、以来耐えることがなくなりました。この頃には、私に看護の訪問回数に、週3回までの社会保険上の制限があったため、週2回を入浴介助等にあて、残りの1回を非常事態の在宅療法にあてるよう、日程を組んでいました。ただ、この予備日は使わない週が多く、時は過ぎていきました。そして、私が60歳になった'13年(平成25年)1月までに、腹腔内出血を3回繰り返し、何れも1ヶ月程度の入院生活に至ったたため、私も「ノボセブン」による週3回の定期補充療法を受けることになりました。1月中旬にCVポート埋め込み手術を受け、2月上旬に退院後、直ちに、月、水、金の、最初はCVポートを埋め込んだ付近が内出血により腫れていたため、訪問看護師に手の甲からトンボ針の静脈注射で行ってもらっていました。3月の末頃になるとCVポートが使えるようになり、引き続き、訪問看護師に依頼しています。こうして、予防投与を受けていたのですが、'13年7月、再度、腹腔内出血を起こしてしまい、入院生活を過ごすことになり、翌8月の退院直後から、土曜日の定期投与を増やし、それから、週4回の定期補充療法を受けています。腹腔内出血の予防のため開始した、「ノボセブン」による予防投与ですが、関節内出血などによる激痛に耐えることがなくなったことは言うまでもなく、体が軽く感じるようになり生活が楽になったり、両方の手のひら全体が顔に付くまでになったり、箸を普通に使えるようになったり、など様々な恩恵を受けています。血友病患者が、血液製剤の定期補充療法を受けることにより、いかに、からだ全体が楽になるかについて、実体験からようやく理解できるようになりました。私が今日のように、30歳のころ血液製剤の治療効果が解っていれば、簡単には手放せなかっただろうと想います。私が40歳のころ、入院中、同室の年上の血友病患者から、何故、血液製剤を使わなかったのか、と問われたことがありました。ですが、その頃の私は返答の言葉に詰まってしまっていました。私は今日に至っても、日常的にはインヒビター治療製剤しか使ったことがなく、現実問題として一般の血友病患者が常時使っている濃縮血液製剤が、どの程度の治療効果があるのか殆ど解りません。日本血栓止血学会誌にも、インヒビター治療製剤ノボセブンについて、「有効性については統計学的な有意差が認められたものの,インヒビターのない血友病患者に対する定期補充療法ほど顕著ではない.」と記載されています。しかしながら64歳の私は、インヒビター治療製剤ノボセブンの定期投与に充分満足しています。ノボセブンの治療効果と考えられる、更なる変化が現れたのも定期補充療法が始まった4年後の、私が64歳になった時からでした。血液検査の結果、Hb(ヘモグロビン)量が64歳になり徐々に上がりはじめ、8ケ月後ののデータでは14.5g/dlにまで上がっていました。この年の初めまで10g/dl前後で推移していたので、たいへん驚きました。さらに前年と比べ、体がもっと楽になり、鎮痛剤のトラムセットを飲むことも殆どなくなり、車いすを自分の手でこぐ時も、苦痛でなくなっていたのです。

 7歳から38歳までの、入院生活を一度も経験していなかった30年以上の間、父親の血友病に関する考え方を引き継ぎ、自己の健康管理を基に行動してきましたが、同年代の健常者と比べても、行動範囲が断然広かったと、今でも強く感じています。私はこの間、血液製剤を頼ったことがほとんどなく、31歳の時('84年4月)の、レンタカーを利用した自ら運転のアメリカ西海岸の旅の時も、血液製剤を持って行こう、などと夢にも考えませんでした。当時の米国では、血友病患者用の濃縮血液製剤にHBV(B型肝炎ウイルス)が混入しているとされ問題になり、まだHIV(ヒト免疫不全ウイルス)やHCV(C型肝炎ウイルス)は発見されていなかったものの、ウイルスが加熱により不活性化できることは知られており、既に安全な加熱濃縮血液製剤が出回っていたのです。米国で加熱濃縮血液製剤の、製造販売の認可が下りたのは、'83年3月のことでした。私の足であった車を利用した旅では、30歳のころまでに、私の住所である群馬県前橋市を起点に、青森県大間町から山口県下関市まで、自らの運転で本州の全都府県を走破していました。私は、ある事情から高校入学が1年遅れたため、高校3年生の夏休みが始まって6日後には、既に普通免許証を取得してました。父親の車を借り、湘南の海を見に行ったのも、首都高速を走ったのも、まだ上野では路上に都電が走っていた19歳の時でした。私は、38歳以降、自ら車の運転をすることがなくなりましたが、そのころまでに国内では車を7台乗り継ぎ約50万Km、米国ではレンタカーで約500マイル走っています。

 血友病の基本的な情報を、まとめてみました。血友病は、出血しやすいのではなく、出血時に血液の凝固が正常に行われないため、つまり血が固まりにくいため、止血しにくい病気です。血友病は、十数種類ある血液凝固因子の一部が不足することにより発生する、血液凝固因子障害による疾病です。欠乏する凝固因子の種類により、凝固第Ⅷ因子が欠乏する患者を血友病A、凝固第Ⅸ因子が欠乏する患者を血友病Bにそれぞれ分類されています。その他、フォン・ウィルブランド病や各種凝固因子の欠乏、低下、異常症などの類縁疾患が複数存在します。血友病には、重症度があり、健常者の凝固因子活性を100とすると、1未満が重症、1以上5未満が中等症、5以上が軽症とされています。40以上あれば正常とみなされ血友病とは診断されないようです。血液の凝固には、血小板が不可欠のため、よく血小板の不足が語られますが、血友病患者の血小板数は、一般的に15-40万個μl の範囲内にあり、極めて正常です。血友病は遺伝病ですが、この約30%が突然健常者の中から発生する、と言われています。私も、この中の一人で、家族はもちろん、母方の血族には、いとこが20人以上いますが、血友病患者は私一人だけです。しかし、私のような存在を孤発例と言うようですが、実際のところ今は亡き母親が血友病の保因者ではなかった、と言い切れないこともあり、遺伝学上、まだ不明な点があります。一般的には、血友病の女性保因者から男性が生まれた場合、2分の1に血友病患者が、女性が生まれた場合、2分の1に血友病の保因者が発生する、と言われています。また、日本には50人以上の女性血友病患者が報告されており、女性の血友病保因者と血友病患者の間に、女性血友病患者が生まれる確率が4分の1ある、と言われています。またこの場合、女性の血友病保因者が4分の1の確率で、男性の血友病患者が4分の1の確率で、男性の健常者が4分の1の確率で、それぞれ生まれてくる、と言われています。男性血友病患者と女性健常者の子どもの場合は、男性の全てが健常者で、女性の全てが血友病の保因者になります。血友病患者が社会進出するのに最低限必要な薬剤、不足する凝固因子を補充する血液製剤には活性の半減期があります、近年では、半減期延長血液製剤への切り換えが進みつつありますが、基本的には、第Ⅷ因子(血友病A用)は8~12時間程度、第Ⅸ因子(血友病B用)は18~24時間程度とされています。私が現在週4回使っているインヒビター治療製剤ノボセブン(第Ⅶ因子)の半減期は、2~3時間程度と言われています。この凝固因子ごとに活性の半減期が異なる情報は、日本赤十字社のホームページの、血漿製剤の解説欄に詳しく掲載されています。

 私が初めて「薬害」を学んだのは、'70年(昭和45年)、高校生時代でした。ある商業系の科目が専門で法律に詳しい教師が調べていて、血友病である私も強く影響を受けました。「サリドマイド事件」です。この事件は、'63年、国と製薬会社が提訴され当時係争中でした。やはり、母親を通じ被害が生まれてくる子どもに及ぶという事実が、病気を持つ自分のことを言われているようで、人ごとには感じられませんでした。薬剤が人間にもたらす影響について学び、強い衝撃を受けたことを憶えています。私はその後、裁判についてまで詳しく調べてみませんでしたが、薬害をもたらす社会構造が、後に「薬害エイズ」が酷似していたことに気づいたのでした。 私が最も多感な高校生のころは、まだベトナム戦争が真っ盛りの時代でした。沖縄や横須賀などの軍事基地は、米軍の拠点として使われ空母や爆撃機などがベトナム本土の空襲のため出撃して行きました。米軍はこの戦争により58,000人余りもの兵士を失い、米国の民間人を含めると100,000人以上の犠牲者を出したと言われています。米国本土から兵士の治療用血液や血液製剤も、基地のある日本に大量に持ち込まれたと考えられます。やがて、ベトナム戦争が終結し、米国内の余剰血液の多くが引き続き日本に輸入されてきました。この大量の血液が、主に日本の血友病患者用に使われたのです。'06年(平成8年)第19回日本エイズ学会シンポジウムの記録の、元厚生省(現厚生労働省)薬務局生物製剤課長の 聖学院大学大学院教授 郡司篤晃氏によると、「日本は血液製剤の大量消費国で、世界の血液資源のほぼ1/3を、日本1カ国で消費して、世界から非難されていた。」とあります。そもそも、日本の血友病患者が最も危険に晒されていた当時、血液事業そのものが間違いで、血液は自国で賄うという世界の基本的な考え方から、すでに横道に逸れてしまっていました。私が高校生の時の教師からの授業以外の話題は、「戦争」、「公害」、「薬害」など、人間に害をもたらす内容が多く、当然のことながら私も影響を受けました。高度経済成長により日本国民の大多数にブルジョア意識が高まり成熟してきたのも、この時代でした。他にも、雇用に関する日本の得意とする終身雇用制や、個人の能力重視の職場環境についてのレポートの提出を求められるなど、進学校でない分、今考えてもかなり高度な内容で学習できたと思います。

 日本の血友病患者を襲った薬害肝炎や薬害エイズを考えるとき、なぜ大勢の患者が薬害の原因となった、危険な米国から輸入された非加熱の濃縮血液製剤を使ってしまったのかについて、この難問を解析するにあたり、65歳になり私はようやく、血友病や血友病以外の日本の正しい近現代史を徹底的に理解しない限り、納得できる結論には至らないことが解ってきました。これは、10年余り前に仕事をやめてから、毎日ネット漬の生活があったからこその成果であると感じています。薬害を含む日本の血友病の歴史について、今日までに医師以外のジャーナリストや文系の学者などから、いくつかの論文が発表されていますが、どれも中途半端で血友病である私が納得できるものは一件もありませんでした。私の考え方については、一部このブログで既に公表していますが、非の打ちどころのない論文の完成を目指していきたいと考えています。私は、大東亜戦争終結7年5ケ月後に生まれています。大東亜戦争に召集された父親や3人の伯父が語っていたことが、やはり間違っていなかったこともネット上の膨大な発言や資料から再確認できました。もう1名。太平洋上で戦死した父方の伯父が存在しましたが、彼も決して無駄死にではなかったことも再認識できました。亡くなった父親も、よくこの兄のことを語っていました。彼ら全員に言えることは、敗戦自虐史観ではなかった、ということです。少なくても私には、彼らは常に東京裁判を否定し、白人至上主義を否定し、日本人がいかに偉大であったのかを語っていました。私は3歳の時、血友病の診断を受けましたが、以来父親や伯父から止血のための血液をもらいました。やがて私が20代になると、輸入濃縮血液製剤が出回るようになりました。そのころ一人の伯父から、「なんで、あの残虐なアングロサクソンの血を使うんだ。日本人は一億人以上もいるのに!」、と言われたことがありました。私は、この言葉が頭の片隅に残っていたので、最高9割以上の占有率があった輸入された血友病患者用の非加熱血液製剤を一本も使わずに済んだのだと、今でもつくづく思っています。戦後の日本は、自国の血液は自国で賄うという世界の常識から逸脱していたため、世界から批難されていました。これは、米国によるWar Guilt Information Programや、日本共産党の陰謀などにより日本人が敗戦自虐史観に貶められてしまった結果であり、敗戦利得者という無用の長物をも生み出てしまった結果でもありました。父親や伯父たち全員が亡くなった後、今の私がネットで一番影響を受け、正論を語っている人物は、私よりも1年1ケ月前に生まれている札幌市在住の安濃豊氏です。彼は、米国や日本共産党などにより隠蔽された帝国政府声明文などを発掘し、大東亜戦争は、アジアにおける欧米による植民地開放のための戦争であった、と主張しています。日本は、戦争犯罪国家ではありません。原子爆弾により民間人を大量に虐殺した米国こそ、毒ガスによりユダヤ人を大量虐殺したドイツに並ぶ、国際法違反の戦争犯罪国家なのです。戦後一貫して断行されている日教組教育は、大きな間違いです。噓八百を並べ立て、国民に対し自虐史観教育を植え付けている国は、世界でも日本ぐらいしかありません。

 私は、日本の血友病患者がHIV訴訟で係争中、複数の患者会の役員や会員から、なぜ危険な米国から輸入された血液製剤を使ってしまったのかについて聞いています。その時の答えは、「時代の流れだった。」、「国が認可しているから、それほど危険だとも想わなかった。」、「治療効果が高く、手放せなかった。」、「アメリカの製品なので、良いものだと想った。」、「主治医に騙された。」、「多少は使ったけど、感染しなかった。」、「危ないと分かってからは使わなかった。」、「主治医の治療法に従い使わなかった。」等で、医師の名前まで出して主治医を恨んでいた血友病患者も相当数存在していました。ただ、私のような重症血友病患者でありながら感染症を恐れるあまり、自らの意志で非加熱の輸入濃縮血液製剤を一本も使わなかった患者を、私以外探し出すことができませんでした。今でも変わっていませんが、ウイルスや細菌が原因の感染症は、種類により生命を脅かす結果を生み出し、血友病とは比較にならないほど怖い病気なのです。

 このブログをご覧になった皆様方の、率直なご意見、疑問の点等をお聞かせ下さい。どのような些細な疑問にも極力お答えいたします。特に医療関係者の方は、大歓迎です。私も高齢のため、あと33年ほどしか生きていられませんので、・・・。あて先は kanzawa@hotmail.com まで、よろしくお願い申し上げます。最後に、私はいかなる政治団体や宗教団体などの、思想に関する組織には属していませんし、今後もこのような組織に参加する意思はございませんのでご了承下さい。

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2019年07月03日
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カテゴリ:薬害エイズ
​​ 現在、私が確実にこの世で生きていられるのは、自らの血友病に関する考えを貫き、最高9割以上のシェアがあった非加熱の輸入濃縮血液製剤を1バイアルも使わなかったからです。私は、「非加熱製剤を投与しなければ、患者たちの命が持たない。」という医学者の言葉が嘘であったことを、自らの体験で証明しました。過去において血友病に関し無知な医学者があまりにも多かったことに、いまさらながら驚愕させられているのが今の私の立場です。日本の薬害エイズは、大勢の血友病患者が主治医に騙されたことに気づかされる結果で終わってしまいました。日本の大多数の血友病患者は、「血液製剤を使えば健常者と同じように生活できる。」などと主治医等に唆され、社会活動のために非加熱濃縮製剤を使ったのです。

 日本の薬害エイズの実際の被害状況は、日常的に血液製剤を必要としていた血友病患者約3.000~3.500人に対し、HIV感染被害者数は約2.000人であり、感染率は約57~67%であった、というのが正しい見方です。これは、安全な加熱濃縮血液製剤が出回る'85年(昭和60年)頃までのことで、'83年に認可された自己注射を実際に行っていた血友病患者は、当時2.000人にも達していなかったと考えられています。

 私は重症血友病患者ですが、治療目的で病院へ行ったのは、血清肝炎に罹患することを恐れ、'81年から'85年までの5年間で計4回程度でした。この時期は、HIV感染に関し最も警戒を要した期間です。内'84年に1回、'85年に2回であったことはエイズ問題も表面化していたため、よく覚えています。故に私は、日常的に血液製剤を必要としていた血友病患者には該当していなかったと想います。この4回の時も、痔による出血が1回と関節内出血が3回であったため、特に命に係わる問題はありませんでした。もちろん患者による個人差は大きいと考えられますが、私の場合年3~5回程度、関節内出血が原因でその都度会社を1~3日間休まざるを得ない時が続いていました。

 「私が患者さん六人のHIV抗体を調べたのが六十年('85年)頃ですが、既に全員が陽性でした。・・・」これは以前ネットから拾った、北陸地方のある個人開業医が38歳のころの体験として語った弁明で、彼の言い訳も書かれていましたが現在は消されています。当時から輸入濃縮製剤は特殊な薬剤で、高額な処方料に加え”おまけ”や”値引き”を含む薬価差益を得る行為が公然と行われていて、6人もの患者を診ていたらさぞかし儲かったことでしょう。彼のように高確率で血友病患者にHIVを感染させた医師が、全国の大学病院などを中心に大勢存在していました。彼らは、この最も危険な時期に、あえて血友病患者に'83年2月に認可された自己注射を勧め、毎日や週数本使わせるなどの定期補充療法(予防投与)を推奨してきたのです。

 非加熱製剤がなければ助からなかった血友病患者が、当時の日本にどれほど存在していたというのでしょうか。真っ先に語らなければならない患者は皮肉にも非加熱製剤が原因で、エイズを発症した血友病患者や血清肝炎が悪化し肝硬変や肝癌を発症した血友病患者だったのです。非加熱製剤が、彼らの延命のため大量に使われたことも事実です。およそ'85年以前、エイズ関連死の死因を、血友病が原因の死因に置き換えれれた血友病患者が存在していたことも決して否定できません。他に敢えて挙げるならば、健常者と同じように血友病患者が罹患する、症例としては極めて稀である、赤痢や結核などの重篤な感染症や悪性腫瘍等による頭蓋内出血や臓器、筋肉内などの出血、また事故による失血等で、新鮮な血液や血漿、または加熱製剤等が入手困難な止むを得ない場合に限られるはずです。


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最終更新日  2019年09月02日 06時55分22秒
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