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福島原発事故は、日に日に被害地域が広がっている。被害は地域的なものだけではない。それは将来にまでいたる。まだ生まれてこないものにまで及ぶ。
今読んでいる堀田善衛の『ミシェル城館の人』に、ミシェル・モンテーニュのこんな言葉が引用されている。 「(戦乱で)将来の損害までこうむった。生きている者が苦しまなければならなかっただけではなく、まだ生まれていない者までもが苦しまなければならなかった。」 原発は、存在するだけで、被害を将来のまだ生まれていない者にまで及ぼす。原発の事故の被害についても同じである。 私たちは未来の人々になにを残そうとしているのか。原発のことを考える時、さらにすべてにわたって未来の人々になにを残そうとしているのかと考える。 支配的位置にある人たちは、今がよければそれでよいと考えているとしか思えない。その他多くの人たちも今を考えるのが精一杯であるようだ。 だが、「わがなきあとに洪水よ来たれ」ではいけないのである。原発事故のひどさはそこにある。 ★与謝野馨氏は「原発事故は神の仕業」といったそうだ。原発事故についてはそうかもしれない,人間のおごりへの懲罰である,とおもったら与謝野氏はそのような意味でいっているのではなかった。与謝野氏は事故は人智を超える、従って、東電は免責されるといいたいだけだったのだ。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110520-00000050-jij-pol ★神といえば、ローマ法皇に日本の子どもが質問しているのをテレビでみた。「どうして神さまは悪いことをしていない人も(地震と大津波で)死なせたのですか」という質問だったと思う。法皇は「私にもわかりません」と答えていた。 これは誰でもが思うことだろう。そうして、法皇だけでなく、誰にも答えられないことだろう。 原発事故が神の仕業などといって東電を免責しようとする与謝野氏は、この子どもにも劣る。 ★大津波でさらわれた人たちを見た記憶、救いを求める声を聞いた記憶、多くの命が奪われた記憶は、終生消えないだろう。なぜ、という問いはいつまでも消えないだろう。 それに比べれば原発事故は人災であり、どこまでもその責任が問われるべきことである。 「神の仕業」と言った時、与謝野氏は、大津波に命を奪われた人たちのことをどうかんがえたのか。何も考えなかったのだろう。彼の頭には東電という一企業の救済しかなかった。 ★今日、「WILL」6月号を見て、昨日の引用を確認した。引用は的確で、間違いなかった。あのようなことをいう一人の人物は「作家」で「キリスト教信者」だという。もう一人は「学者」だという。「作家」も「信仰」も「学者」も落ちたものである。 もっとも、「作家」が特別偉いわけでもなく、キリストの名で行われた蛮行は数しれない。学者は権力に奉仕する方が、そうでない者よりも多いだろう。 だが、私がそこに見たのは人としての退廃である。(与謝野氏もおなじ。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011/05/20 03:10:45 PM
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