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吉村昭の『三陸海岸大津波』(文春文庫)を読む。テレビでみた映像が浮かび平静には読めない。この本で触れているのは明治29年の津波、昭和8年の津波、チリ地震津波である。
吉村氏が聞き取りした、あるいは記録から書き抜いた津波の体験は愕くべきものである。山の上50メートルまで津波が駆け上ったという事実の確認もある。三陸地方は津波が繰り返し襲ったところであった。その主だったものを吉村氏は記録している。 それは以下のとおりであるが、これをみると、神の仕業とか、想定外とかいう言葉がいかにむなしいことであるかがはっきりと分かる。こんなところに原発をつくった企業、経済人、政治家、それに安全を保証した「学者」がいかに無謀だったかがわかる。 それをいえば日本全体がそうだともいえるのだが。 以下、吉村氏の『三陸海岸大津波』からの抜粋。 「三陸沿岸を襲った津波は、数知れない。その主だったものをひろうと左記のようにな る。 (1)貞観十一年五月二十六日(西暦869年七月十三日)、大地震によって死者多数を出し、家屋の倒壊も甚しかった。と同時に津波が来襲、死者千余名に及んだ。(「三代実録」による) (2)天正十三年(1585年)五月十四日、津波来襲。(但し本吉郡戸倉村口碑に刻まれたものによると、同年十一月二十九日、畿内、東海、東山、北陸大地震の後に津波来襲の記録があるが、これと同一のものかどうかは明らかではない) (3)慶長十六年(1611年)十月二十八日、地震の後大津波。伊達領内で死者一、七八三名。 (4)慶長十六年十一月十三日大地震の後、津波が三度来襲。伊達領内の溺死者五、000名を数える。(これは「駿有政事録」によるが、(3)と同一のものか不明) (5)元和二年(1616年)七月二十八日、強震後、大津波あり。 (6)慶安四年(1651年)、宮城県下に津波来襲。 (7)延宝四年(1676年)十月、三陸海岸一帯に津波。人畜多数死亡し、家屋の流失も大。(弘賢筆記泰平年表による) (8)延宝五年三月十二日(1677年四月十三日)、三陸海岸岩手県下に数十回の地震後、津波によって宮古、鍬ケ崎、大槌浦等で家屋が流失。 (9)貞享四年(1687年九月十七日)、塩釜をはじめ宮城県下沿岸に津波来襲。 (10)元禄二年(1689年)、三陸沿岸に津波あり。 (11)元禄九年(1696年)十一月一日、宮城県石巻の河口に津波襲来、船三〇〇隻をさらい、溺死者多数を出した。 (12)享保年間(1716~1736年)に津波あり。田畑は海水におかされたが、人畜に被害なし。 (13)宝暦元年(1751年)四月二十六日、高田大震災の余波として、岩手県下に津波。 (14)天明年間(1781~1789年)に津波来襲。 (15)天保六年(1835年)、仙台地震にともなう津波によって人家数百が流失、死者多数。 (16)安政三年(1856年)七月二十三日午後一時頃、北海道南東部に強震。北海道から三陸沿岸にわたって大規模な津波あり。 (17)明治元年(1868年)六月、宮城県本吉郡地方に津波。 (18)明治二十七年(1894年)三月二十二日午後八時二十分頃、岩手県沿岸に小津波。これにつづいて、明治二十九年六月十五日の大津波が発生したのである。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011/05/23 05:16:27 PM
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