那須を開発した人たちって、どんな人たち?
【山県有朋】
長州出身。幼名は辰之助、通称は小助、のち小輔、さらに狂介と改名。武士階級としては最下層の出身で若い頃は、苦労したらしい。
明治時代に入ってからは、日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。『陸軍の法王』『小田原の御前』と呼ばれ、軍・政界に一大派閥を築いた。
内閣総理大臣(第3・9代)
長生きしすぎたせいか、戦後の評判はあまりよくないが、この人の支配していた当時の『日本軍』は紳士的で諸外国の評判が良かったらしい。
大英帝国のメリット勲章も受章している。
国政に深く関与するようになってからも「一介の武弁」と称するのが常であった。
官僚制度の確立にも精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることの無いように文官試験制度を創設し、後進を育成した。
東京の椿山荘(フォーシーズンズホテル椿山荘 東京 )、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園(これが現在の★山縣有朋記念館 、山縣農場といわれた敷地の中にある)は、山縣が自ら想を練り岩本勝五郎や7代目小川治兵衛をして築かせたものである
【松方正義】
内閣総理大臣(第4・6代)。
どっちかというと財政ばたの人。明治15年(1882年)に日本銀行を設立。大分県の知事もしたことがあり、別府温泉の発展の礎を築いた。
子沢山で、明治天皇に子供の数を聞かれて『後日調査の上ご報告いたします』と答えたそうだ。
近代日本最初の孤児院とされる「日田養育館(ひたよういくかん)」を設置した。日本赤十字社の創設者でもある。
13歳にして両親を亡くす。
女好きで、子沢山ということだが、孤児院を作ったりもしていることから、幼くして両親をなくしたことが影響しているのかもしれない。子沢山の過程にあこがれていたんだったりして?
もともとは、武士階級としては、やはり、低い身分で苦労したらしい。
薩摩藩出身。
★ホウライの那須千本松牧場 もともとは、この人の牧場があったところ。
【青木周蔵】
日本で始めて国際結婚をした人。外交官、外務大臣を2度勤めた。舞姫のモデルといわれている。
写真で見る限り、奥方エリザベートは大変美しい人である。
ただし、青木周蔵はエリザベートとであった頃、日本に妻がいた、この奥さん、その後は確か、養子縁組で青木周蔵の妹?になっていたとおもう(生計を立てるっていみでかなあ???)
★とちぎ明治の森記念館 旧青木家那須別邸 は青木周蔵の農場にあった別荘。
【乃木 希典】
軍人。第10代学習院院長。長州藩の支藩の出身(生まれは江戸)。
明治天皇大葬の9月13日夜、妻静子とともに自刃。享年62。
名将なのか愚将なのかは評価が分かれるところ。
★乃木神社・乃木別邸・宝物館
【大山巌】
軍人。薩摩出身。西郷隆盛のいとこ。奥さんは会津藩家老・山川浩の妹(旧名咲子)。
奥さんの山川捨松は津田梅子らと一緒に、日本人女性としては始めて海外留学した人の一人。
アメリカの看護婦資格を日本人として収得した初めての人(多分)。
日本初の看護学校設立にも協力している。
会津が攻撃された時には 鶴ヶ城 の篭城し、かぞえ8歳で負傷への手当てや炊き出しに奔走した。
本人も篭城戦で怪我をしている。
このとき 鶴ヶ城 を攻めた砲撃隊長が大山。
まさか、十年以上もたってから、家族を攻めた敵将に嫁ぐことになるとは、きっと思わなかったに違いない。
結婚は、大山の一目ぼれ。
『逆賊なので』と断る大川家に、西郷隆盛の弟と一緒に散々口説いて、やっと現代風のデートを重ねて、周囲の反対を押し切り、恋愛結婚だとか、夫婦仲は良かったらしい。
大山記念館洋館は大山巌の農場内に立てられていた別荘。
今は、高校の構内にあるので、見学の時は、許可を取ってから。