第4回 歩いて巡拝知多四国 五十三番札所 鶴林山 安養院
前回掲載した密蔵院、そこから西に5分も歩けば五十三番札所鶴林山安養院の門前に至ります。第4回の梵字カードはこちらで配布されていました。左に「真言宗豊山派 安養院」寺標、右手に沿革が立てられています。当日はボランティアの方がみえ、みちびき地蔵、せき地蔵が霊験あらたかなのでお参りを盛んに勧められました。安養院沿革「当院は白河天皇初定の大御堂寺一山の一院で南ノ坊と称し、江戸時代に安養院と改称。明治になり、意雲院、圓明院、 龍松院を合併し現在に至る。本尊は中心に阿弥陀如来、両脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩を従えた弥陀三尊仏である。この地で源義朝公と共に無念の最後を遂げられた第一の郎党、鎌田政清の次男政直が父の菩提を弔う為の念持仏である。降って天正11年(1583)、織田信長公が三男、三七信孝公は、羽柴秀吉との跡目争いに破れ野間の地に敗走し当院にて自刃。根の内にその生涯を終えられた。」 ここには創建等記されていないが、別の沿革には以下のように記されています。「真言宗豊山派 鶴林山 安養院知多四国第53番、開運七ヶ寺第6番創立 永暦年中白河天皇の発願で建立(大御堂寺 中ノ一院)された一院で、建久元年(1190)源頼朝公光考菩提のため創建。本尊阿弥陀如来、観世音菩薩、勢去菩薩(藤原期の作)せき地蔵菩薩 霊験あらたかなり史跡織田信長の三男、三七郎信孝は、羽柴秀吉と再度の戦に敗れ、天正11年(1583)5月2日当院にて自刃。復元された信孝自刃の間、自刃に用いた短刀、血染めの軸、自生の一首「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」織田有楽斎(1547-1622)の書状」信孝の一首はとても深い意味を持っており、前回の密蔵院の「磔の松」は頼朝が父義朝を殺した長田忠致を処刑した曰くのある場所。最後の一首はそこを引用し、「秀吉よ、お前もやがて報いが訪れる」と強烈な怨念が込められている。信孝は自刃の際、自らの内臓を引っ張り出し投げ出したとされ、血染めの軸はその際に出来たものという。いずれも非公開のようですが、ここには信孝の思いが残っている。安養院手水鉢と水かけ地蔵。境内全景。伽藍は右手に庫裏と正面の本堂、左の間が所謂大師堂で、左手に地蔵尊を安置する地蔵堂が主な伽藍。写真左がみちびき地蔵。本堂全景。伽藍の中のどこが自刃の間にあたるのか、その場所は積極的に公開していないようです。知多半島は弘法大師所縁の地であると共に、平安時代の頼朝や安土桃山時代の信孝など、所縁のある土地柄である事が分かります。本堂の中央の間全景。「無量光殿」の額の先に本尊の阿弥陀如来を安置する。左の間全景。ここが所謂大師堂で、手前の木製の数珠を引くと上の滑車に数珠が当たり乾いた音を奏でる。境内左の地蔵堂。梁には古びた鰐口とその先に二体の龍の透かし彫りが施されている。堂内中央のせき地蔵。せき地蔵というだけに、咳や喘息などに御利益のある「お石」や「お地蔵様ののど飴」など販売されています。のまのつき みればこころの ますかがみ おのがじょうどは いかでくもらん今回頂いた梵字カードは薬師如来。三回・四回と二回連続金のカードは出現せず、出現率はまた下がって行った。第4回 歩いて巡拝知多四国 五十三番札所 鶴林山 安養院宗派 / 真言宗開基 / 白河天皇建立 / 永暦年中(1160-1161)創建 / 建久年間(1190-1199)本尊 / 阿弥陀如来所在地 / 知多郡美浜町野間東畠ケ90-1参拝日 / 2025/04/19密蔵院から安養院徒歩ルート / 密蔵院から西へ250㍍、約5分関連記事・第4回 歩いて巡拝知多四国 内海西御所奥 神明社・第4回 歩いて巡拝知多四国 小野浦 八幡神社・多賀神社・第4回 歩いて巡拝知多四国 四十八番札所 禅林山 良参寺・第4回 歩いて巡拝知多四国 四十九番札所 護国山 吉祥寺・第4回 歩いて巡拝知多四国 五十六番札所 祥雲山 瑞境寺・第4回 歩いて巡拝知多四国 五十二番札所 鶴林山 密蔵院