神社本庁別表神社 『大和神社』
大和(おおやまと)神社。 天理市東部の新泉町、JR桜井線「長柄駅」から歩いて数分、田畑の広がる一角にその杜は鎮座します。駅から続く細道を進むと、写真のように穏やかな田園風景が広がり、やがて道の先に大きく茂る森が姿を現します。あのこんもりと盛り上がった森こそが大和神社の社叢です。奈良盆地で見られる丸く盛り上がった森の多くは古墳であり、この社叢も例外ではありません。境内には大和古墳群のひとつである星塚古墳が佇んでいます。大和神社社頭全景の眺め。左に「官幣大社大和神社」の社号標が立てられ、石造の明神鳥居から続く長い参道は、中ほどの二ノ鳥居を経て社殿に伸びています。 日本最古の歴史を誇る神社とされ、日本書紀に依れば、孝昭天皇元年(BC475)に遡るともされる。はじまりの地は、現在の鎮座地の東方2kmほどの長岳寺付近とされ、天照大神と日本大國魂大神(倭大国魂神)を祀った。 崇神天皇6年(BC92)、この地に遷され、奈良時代には朝廷の命により派遣される唐遣使が、出発に際して当社へ参詣し、旅の安全を祈願したとされるなど長い歴史を紡いできた。また、日本が世界に誇った「戦艦大和」の艦名の由来でもあり、艦内には守護神として大和神社が祀られていました。 この長い参道は、奇しくも「戦艦大和」の全長(263m)と同じ長さとされ、大和とは所縁のある神社。境内には「戦艦大和ゆかりの神社碑」や大和乗組員と護衛艦乗組員の英霊が祖霊社に合祀されています。写真は、長い参道の中ほどに建てられたニノ鳥居の脇に鎮座する増御子神社。 導きの神として知られる国つ神猿田彦大神と芸能の神として知られる天つ神天鈿女命の夫婦神を祀る。社殿に向かう参道右脇に、小高く盛られた場所が星塚古墳。 案内がなければただの小山と見紛うような墳丘で、全長70mの前方後円墳と思われ、発掘調査はされておらず、一説には神武天皇皇后陵とも言われるようです。 県内にはこうした古墳を含め、13,000を超える遺跡があり、発掘調査したくても出来ないのが実情かも知れない。大和神社手水舎。 別段特徴があるものではないか・・・ん?、何か手水鉢に浮かんでいるような。その正体は折り鶴、大和らしき船の姿もある、折り鶴が浮かぶ手水は他では記憶がないものです。大和神社社殿全景。 左手に戦艦大和展示室と収蔵庫、右手の授与所の後方が戦艦大和ゆかりの碑と祖霊社が祀られています。正面の拝殿の左には境内社が集められています。戦艦大和ゆかりの碑と左の社が祖霊社。大和神社と戦艦大和の所縁を記した解説。 戦艦大和に当神社の分霊が祀られ、艦長室には堂本印象画伯の「戦艦大和守護神」と題し、大和神社の3つの本殿と神門を描いたものが掲げられていたという。1945年4月、大和は天一号作戦のため山口・徳山湾沖を出航し、沖縄海上特攻に向かうが、その直前、呉市周辺で燃えやすい物が陸揚げされ、絵は難を逃れ、今も現存しています。 祖霊社には大和と共に犠牲となった2736柱の英霊が祀られています。境内左の戦艦大和展示室と収蔵庫、右手の朱の鳥居は高龗神社。大和神社拝殿全景。【境内由緒から抜粋】『大和大明神、日本最古の神社 大和神社由緒。 御祭神 日本大国魂大神(中央)、八千戈大神(向右)、御年大神(向左)御例祭 四月一日(ちゃんちゃん祭) 社格 旧官幣大社(橘の森鎮座)御由緒 まほろばなる大和平野に長い森を列ねて鎮座する神々は、第十代崇神天皇六年(BC92)まで皇居内に天照大神と共に奉斉されていた大地主に坐します。皇女 浮名城入姫命により大和郷(現地)に移されたのが当神社の創建。 往古よりわが国に文化・産業をもたらした遣唐使も交通安全の祈願をされ、万葉集「好去好来」にうたわれています。また、戦中は世界最大最強を誇る 戦艦大和の守護神として祀られました。 同艦の伊藤整一命外は祖霊社に合祀されています。御神徳 交通安全、土木建築工事起工安全、厄除け、家内繁栄 鎮座地 天理市新泉町星山306』【神社本庁】 『当神社の主神は、日本の全国土の地主神に坐します。上古、伊勢神宮に坐す天照大神と共に宮中にて親祭され給ひしが、第十代崇神天皇は御神威を畏み給ひ、同6年 (2千数十年前) 当神社の主神を市磯邑に遷御遊ばされ、皇女渟名城入姫を斎主として祀らしめ給う。 延喜式に大社大和坐大国魂神社3座とある。斯様に尊い御由緒は類まれなところで、御神威は伊勢神宮に次ぎ、御神封も亦大和を始め尾張、武蔵、常陸、安芸の6カ国に於いて327戸に及び、境内も64ヘクタールの広大なりし由にて、久しい間御社頭も隆盛を極めたと、古記録に見ゆる。』大和神社は長い歴史の中で幾度か火災により焼失しています。 【大和神社年表より抜粋】『永久六年(1118)の火災を境に衰えていき、天正の兵火(1583)の火災で神領の書類をすべて焼失、江戸期には、境内東西四町、南北三町の樹木鬱蒼たる広い神域を保持するのみで、無縁の状態になっていった。 明治二年(1869)に境内各社の整備工事が始まり、明治四年(1871)に官幣大社、明治七年には本殿が造営されると共に、それまでの焼損した御神体から新たに御神体(玉(大國魂神)・ 鏡(御歳神)・ 剣(八千戈神))が奉鎮された。』拝殿前で守護する狛犬は明治に寄進されたもの。入母屋銅葺屋根の大和神社拝殿。拝殿向拝の額は「大和大明神」。 拝殿内から本殿域は望めますが、大きな神門の影となり三殿の全容は見渡せません。拝殿右から日本大国魂大神を祀る中央殿と、八千戈大神が祀られる右殿の眺め。拝殿左から御年大神を祀る左殿の眺め。 こうした様式は宮中三殿式と呼ばれるようですが、全容を見通す事は出来ません。しかし、2026年正月三が日、194年振りに拝殿と本殿の間にある斎庭への立ち入りが開放されたという。拝殿左の透塀脇に鎮座する高龗神社。 右手の解説には以下のように記されています。『高龗神社 祈雨神祭について 全国総本社大和神社の摂社である、御祭神は雨師大神即ち水神様で崇神天皇のとき、渟名城入姫命をして穂積長柄岬(現新泉星山)に創祀される。 古来六月一日、十年に一度の大祭には、和歌山・吉野・宇陀その他近在の邑々から千人余りも参拝者の列が続いたとある。先頭に丹生川上神社、中・下社が金御幣を持ち、後尾は末社の狭井神社が勤めた。茅原上の道を経て、箸墓裾で休憩、大倭柳本邑に入り長岡岬、大市坐皇女 渟名城入姫斎持御前の井戸で祓い清める。 神職は輿と共に神橋を渡り大和神社に入る。一般の人達は宿から一番鶏が鳴くと倭市磯池に体を清め、笠縫邑から神社へ向かう。社は古代伊勢神宮と同じ建築様式で江戸時代の建立になる。昭和二十五年の台風により被害を受け半壊する。』 天候や産業、水利を司る神として崇敬されている。高龗神社左に雨師と磐座、後方に大黒天が安置されており、左に境内社三社が祀られています。境内社三社。 写真左から厳島大神・事代主大神・朝日神社が祀られています。参道からニノ鳥居、一ノ鳥居方向の眺め。 戦艦大和の全長はこの参道の長さとほぼ同じ263m、幅はこの5倍(約39m)あったとされます。敗戦国となった日本、自衛のため自衛隊が保有する艦船は、今や海に眠る大和の規模に迫ろうとしています。 戦争がいかんのは誰しも分かっている事だ。核保有国の身勝手な論理に基づく侵略行為に対し、国連すら機能せず、やった者勝ちの状況にあって、日本が持つべきものは、戦争反対の声を唱えたり、大きな武器を持って威嚇することではないように思う。大和神社 創建 / 崇神天皇6年(BC92)祭神 / 日本大國魂大神、八千戈大神、御年大神 境内社 / 増御子神社、祖霊社、高龗神社、厳島大神・事代主大神・朝日神社御例祭 / 四月一日(ちゃんちゃん祭) 所在地 / 奈良県天理市新泉町306参拝日 / 2025/12/2関連記事・奈良 山の辺の道を歩く・兵庫町 牛頭天王素盞嗚神社