おやじのブログ

2022/05/31(火)00:00

「大宝山権現院千光寺」広島県尾道市

神社仏閣・御朱印(1342)

広島県尾道市東土堂町「千光寺」  艮神社社頭脇の千光寺ロープウェイ麓駅から大宝山の山頂駅まで3分の空中散歩。 途中艮神社を上から眺めながら山頂駅を目指す、山頂から千光寺までは徒歩で参道を下っていく。 ゴンドラから眼下の尾道の町と約200㍍対岸の向島、それを隔てる尾道水道が一望できる。  手前の森は艮神社の楠の杜。ゴンドラからは尾道水道に切れ落ちる急峻な山肌に建てられた舞台造りの千光寺本堂が良く見渡せる。 狭い参道が続く千光寺、本堂の全景が一番よく見渡せるのがゴンドラからの眺めかもしれません。 玉の岩  これもゴンドラからの眺め。 解説によれば千光寺に多くある巨岩の中では三番目の大きさを誇る岩。  宝珠岩又は烏帽子岩とも呼ばれると云う。 昔、「岩上宝玉あり、遥かに海上を照らす故にこの名あり、尾道を古来玉の浦と云い、山を大宝山、寺を千光寺と云う、亦是によると云う」  月明りで照らされた宝玉は光り輝き、尾道水道を行き交う舟の山たて(道標)、灯台になったという事だろうか。 玉の岩の頂には宝玉が取り付けられていた痕跡が今も残るという。  現在この頂きに付いている丸い宝玉は夜になれば内部照明で明るく輝くようだ。 山頂駅を降りるとこのスロープに出られる、ここから眺める尾道の街並みと遥か先に続く尾道水道の眺めは絶景。 陽も傾きだしオレンジ色の陽差しとスロープの影のコントラストが印象に残る。千光寺へはここから文学の小道を下っていく事になります。  千光寺に続く山肌には多くの岩が点在し、それらに名の知れた文豪たちの名句が刻まれ、解説も置かれている。 最初はそれを詠んで行くのだが数の多さに途中で折れてしまった。 千光寺に続く(下る)参道には千光寺に導く看板が整備され迷う事はないと思います、ただしアスファルト等で整備されていないので履物は考えた方がいいかもしれない。  写真は千光寺に向かう途中の注連柱、奥には左から金丸明神、勝七大明神、勝義大明神、祐七大明神。 更に下ると千光寺裏門の石標が現れ境内に至ります、参道は舗装路に変わり一段と狭くなります。  鏡岩。  裏参道から境内に入りすぐ右手の山肌に聳える巨岩。 その最上部は岩肌を丸く平滑に削り取り鏡に見立て神が宿る崇敬対象として崇められている。 上 鏡岩の下にある守り本尊。 下 守り本尊の祀られている裏参道。  右手は客殿、太子堂、鐘楼の伽藍が連なるが、何れも断崖の上の僅かな平坦地に寄り添うように建てられ、建物の全景は捉えにくい。 上 太子堂。 堂から右に進むと鐘楼があるが撮り忘れたようです。 下 太子堂前の壁のような巨岩が玉の岩、その下にお願い地蔵が祀られていた。  千光寺で感心したのは線香や蝋燭など購入時に電子決済(paypay)が利用できるが、境内は無数の地蔵が安置されているので大量の小銭が必要。 上 太子堂から少し進むと右手の岩肌に護摩堂が聳えている。 ・宝永七年(1710年)の建立とされる。 ・本尊の不動明王、東脇壇の地蔵菩薩は運慶作と伝わる。 ・300年ほど前までは当山城主杉原民部太夫元恒の守り本尊毘沙門天を安置する三重塔があったが落石により崩壊、護摩堂はその跡地に建てられたもの。 本堂を筆頭に伽藍全体はいつ落石が起きてもおかしくない、そんな立地に建てられている。  それらの巨岩が何百年も安定していること自体が不思議なものを感じる。 下 護摩堂から玉の岩と太子堂。  玉の岩には「昔、この岩の上に宝珠あり、夜毎に異光を放ちて、遥かに海上を照らせし」と伝わる玉の岩伝説が残る。 寺名の千光寺や山の名の大宝山はそこからきていると云い、風光明媚なこの地を玉の浦と呼ぶのも玉の岩伝説によるものらしい。 上 護摩堂から本堂全景。  後方にくさり山の巨岩群が迫っている。 巨岩の下の僅かな空間に入母屋瓦葺の本堂が建てられ、外陣は舞台造りで岩壁に浮いた錯覚を覚える。 下 本堂側面、参道は外陣を通り抜け先に続く。 千光寺略縁起。 ・大宝山権現院千光寺は標高140㍍、尾道港を一望する大宝山の中腹にあり、(大同元年・806年)弘法大師の開基で中興は多田満仲公と伝えられています。 ・本堂は貞享三年(1686年)の建立とされこの地方には珍しい舞台造り。 ・堂内に置かれた須弥壇は応永から永享(1394~1440年)頃の作で、和様に唐様を取り入れた様式で、ここに安置する本尊は聖徳太子作の千手観世音菩薩を祀る。 ・俗に火伏の観音とも云われ、多田満仲公の守り本尊。 ・西脇壇の阿弥陀如来も聖徳太子の作、脇侍の不動明王、毘沙門天は覚鑁作とされる。 本堂外陣の山号額と外陣格子天井に描かれた天井絵。  近年山紫陽花など一部補修されたようで鮮やかさは歴然としている。 額後方の壁をよく見ればそこにはこちらを睨む龍の姿がある。 天井絵は内陣にも描かれているが流石にそこまでは許してもらえなかった。 本堂外陣を過ぎると石の明神鳥居と目の前に三重岩と呼ばれる巨岩が現れる。  以前はここから先のくさり山は修験の場で参拝者は立ち入れなかったそうだ、現在は一般の立ち入りも許され参拝が出来る。 巨岩が幾重にも積み重なり一つの岩山を築いている。  大正時代ここに石鎚蔵王権現が祀られ、大正15年に石鎚山に登る女鎖と男鎖が取り付けられたそうです。 それも戦時中の供出でなくなり、後に女鎖のみ復元取り付けられ一般客の登攀が許されています。  男鎖は復元されていませんが、岩の下に祀られた石鎚大権現の社後方に男鎖跡として鎖場の後が残っています。 右側巨岩をよく見ると熊野権現の神使とされる烏天狗が刻まれている。  岩の下の社は熊野大権現、石鎚大権現を祀る社がある。 社の横を通り抜けた先の男鎖跡。  鎖場からくさり山にかけては手摺も整備され最低限の安全対策は施されていますが、ここは修業の場であり奉納料100円に保険料は含まれていません、一つ間違えば後悔する事になりそうです。 上 鎖場から見下ろす本堂と尾道市街。 下 瓦葺の入母屋の本堂を下で支える舞台造り。  外陣から下を見下ろすと体は自然に持っていかれる感覚になる。 本堂の下に建つ三十三観音堂。 ・寛保3年(1743年)の建立。 ・西国観音霊場各札所の本尊三十三躰の観音菩薩を安置。 ここから麓に向けどんどん下っていきます。 途中で見かけた摩崖仏と解説。 ・山と一体化した千光寺の石造物を代表するもの。 ・一つの岩に阿弥陀三尊像が彫り込まれた摩崖仏で室町時代のもの。 一番奥に千光寺阿弥陀三尊像。  写真から表情は伝わりにくいけれど肉眼では素朴な表情や輪郭が伝わってくる。 平安の時代を生きた先人の思いは今も形となって残っている。(尾道市重要文化財) 上 毘沙門堂。 ・現在の建物は宝暦4年(1774年)に再建されたもの。 ・本尊は毘沙門天。 ・本尊の毘沙門天、脇侍の𠮷祥天、善膩師童子ともに仏師鞍作止利の作で、当山城主の杉原氏の守り本尊。 ・中国観音霊場十三番札所、備後西国観音霊場七番札所。 下 参道を下り注連柱付近から千光寺伽藍の眺め。 注連柱から左方向に進み、目の前の多宝塔方向に向かう。 上 天寧寺三重塔  もともとは五重塔として1388年(嘉慶2)に建立されたと云い、1692年(元禄5)塔の上層部の劣化が進み三重塔に改築されたもの。 一見すると下層と上層のバランスに違和感を感じるのはその為のようだ。(重要文化財) 塔と尾道の街並みを一望できる光景は尾道を代表する光景とも云われ、直下から見上げる姿よりこの光景が美しい。 下 直下から相輪、宝珠を見上げる。  水煙の装飾はシンプルなもので、落ち着いた佇まいの塔外観にマッチしているかもしれない。 塔の手前で小道は二手に別れ左の猫の細道方向に下りて行きます。 上 福石猫神社。  白い陶器製の福猫があり、願をかけながら三回撫でると福がやってくるらしい。 下 猫の細道  一帯には多くの猫が住んでいるようで、猫の顔写真が貼られたマップを頼りにお気に入りの猫を訪ねるもの。 住民や観光客からも可愛がられているため警戒心はなく、容易に触る事が出来る。  デフォルメされたマップですが千光寺から艮神社までのルートを黄色で示しておきます。 この道を更に下ると艮神社の脇を通りロープウエイの麓駅に戻る事ができます。  山頂駅から麓駅まで参拝、観光込みで50分程で降りてきました。 千光寺、巨岩ひしめく岩山に同化するように建てられた伽藍、赤い舞台造りの本堂や玉の岩など尾道の顔と云っても過言ではない歴史を持つ寺院でした。 大宝山権現院千光寺 山号 / 大宝山 院号 / 権現院 寺号 / 千光寺開基 / 806年(大同元年)本尊 / 千手観世音菩薩所在地 /  ​広島県尾道市東土堂町15-1​参拝日 / 2022/04/19 公共交通機関アクセス / JR山陽本線「尾道」降車👉​千光寺ロープウェイまで徒歩20分程​ 関連記事 / ​「艮(うしとら)神社」​、​全国一ノ宮巡り 愛媛・広島

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