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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
五智国分寺。
先に掲載した越後一ノ宮 居多神社、一ノ鳥居跡から北を眺めるとすぐ先に五智国分寺の門前は見えています。 五智国分寺門前の全景。 南向きに伽藍が配置され、参道の先に仁王門を構えています。 所在地は国府1丁目、国府町の五智国分寺。 地名からすれば、ここが「越後国府の一丁目一番地かぁ」と思えますが、越後国府は発掘調査などから比定地は幾つかあるようですが、確定するだけの根拠に乏しく未だに謎のままだという。 同様に五智国分寺の始まり地も謎に包まれており、開基や創建時期は定かではなく、寺伝によれば永禄5年(1562)、上杉謙信により現在地に移転・再興されたとされ、移転前の場所については海岸浸食で没したとする説など諸説あるようで、比定地も明確になっていないようです。 上 五智国分寺門前の全景。 南向きに伽藍が配置され、参道の先に仁王門を構えています。 五智国分寺は天台宗の寺院で、山号は安国山、院号を華蔵院と称し五智如来を本尊とします。 広い境内の右側に上越地方唯一残る三重塔、左に経蔵と白山神社(現在再建中)が鎮座します。 正面の本堂とこの地に上陸した親鸞上人が草庵を構えた竹之内草庵が主な伽藍。 開基や創建時期は定かではなく、寺伝によれば永禄5年(1562)、上杉謙信により現在地に移転・再興されたとされます。 移転前の場所については諸説あるようで、海岸浸食で没したとする説もあるようです。 下 仁王門。 天保6年(1835)に建てられた切妻屋根の三間一戸の八脚門。 扁額は「安國山」、左右の間に安置されている仁王像は天保7年(1836)のものとされる。 現在の本堂は平成9年(1997)に再建されており、この仁王門も近年屋根は吹き替えられているようです。 門前左の如意輪観音。 安置される観音様の像容は良く拝めなかった。 五智国分寺は天台宗の寺院で、山号は安国山、院号を華蔵院と称し五智如来を本尊とします。 広い境内の右側に上越地方唯一残る三重塔、左に経蔵と白山神社(現在再建中)が鎮座します。 正面の本堂とこの地に上陸した親鸞上人が草庵を構えた竹之内草庵が主な伽藍。 山門付近の周辺散策マップ。 先程参拝した居多神社と五智国分寺はマップの右下にあたり、多くの見所に案内してくれそうです。 家路に向かう途中に立ち寄るところではなさそうです。 仁王門全景。 天保6年(1835)に能生谷小見村(能生町)の七郎左衛門の手により再建されたとされる三間一戸の八脚門。 こうして見ると最近屋根が吹き替えられているようです。 山号額は「安国山」 左右の間に安置する仁王像。 はっきりと彩色も残る二体の像は、名立町の長井要壱らの手により天保7年(1836)に製作されたという。 仁王門の間に貼られている解説。 「阿弥陀如来 薬師如来 胎蔵界大日如来 宝生如来 釈迦如来 五智如来とは、大日如来の五つの智恵を現す五仏です。 向かって左の阿弥陀如来は、極楽往生の功徳、薬師如来は病魔を退散させる医薬の功徳、大日如来は太陽のように万物をいくつしむ功過、宝生如来は福徳財宝・五穀豊穣の功徳、釈迦如来は智恵聡明の功徳を授けてくださる仏様です。 中央の仏さまは胎蔵界の大日如来です。 大日如来の印相は、二つの曼荼羅界で異なり金剛界では 智拳印を結び、胎蔵界の大日如来は法界定印を結び、瞑想にふける姿をしています。 左右は金剛の四方仏で、焼失前と同じ並びです。 本尊は、半丈六(約130cm)でヒノキの一本造りで、漆と金箔で古代色に仕上げてあります。 越後国分寺の由来 奈良時代の天平13年(741)に聖武天皇の勅命により、行基が開基した越後の国分寺です。 その後、 幾度となく災厄を重ね、永禄5年(1562)に、上杉謙信がこの地に真言宗の寺院として再興しました。 謙信の甥俊海僧正が天台宗の国分寺として中興してかから、幕末まで寺領第200石が徳川川幕府より寄せられていました。 昭和63年1月に本堂を焼失しましたが、多くの方々のご協力とご浄財で平成9年10月5日落慶法要を執り行うことができました。 今の本堂は、鎌倉時代の建築様式を模して、入母屋造り、銅版葺き、 間口7間、奥行き6間の建物です。 用材は主に青森ヒバ材で床にいたるまで槍ガンナで仕上げてあります。」 柱は自然木の形を残したものです。 参道左の松尾芭蕉句碑と解説。 「薬欄にいづれの花をくさ枕 「薬園の草が秋て美しいが、どれを枕としてここに旅寝しようかと、主人への挨拶をこめて詠んだもの」と解される。 元禄2年(1689年)7月8日(旧暦)、高田の医師細川春庵を訪れた時の作句である。 春庵は薬草を栽培し、庭は泉水その他美しい庭だったと言われている。 松尾芭蕉は、正保元年(1644年)伊賀上野に生まれ、俳句の道を志し、20歳の頃に初めて俳書に掲載された。 寛文12年(1672年)江戸へ出て創作活動を続け、元禄2年3月末、弟子の曽良を伴い奥の細道の旅に出ている。 芭蕉は、旧暦7月2日新潟、3日弥彦、 4日出雲崎、5日鉢崎(現柏崎市)を経て6日に今町(直江津)を訪れ、翌7日も滞在し、8日から10日まで高田で過ごしたようである この句碑は、明和7年(1770年)に建てられたものである。」 右手を見れば上越地方で唯一残る三重塔が聳えている。 五重塔や十三重塔の姿もいいけれど、均等の取れた外観は三重塔までかもしれない。 逆光で真っ黒だった三層部と相輪を無理くり見えるように調整してみました。 放射状の垂木と、相輪先端の素材が銅製ではなく見慣れぬ形になっています。 この塔、よく見ると屋根を支える各層の垂木が1・2層と3層では組み方が違います。 1・2層は軒に対して直角に組まれていますが、3層だけは放射状に組まれています、更に各層の手摺(高欄)を見ると箱木や桁などがなく親柱のみで工事としては未完成なのが分かります。 また一層・二層の各壁面の頭貫上部には十二支の彫刻が描かれています。 修復作業以外で製作途中の塔を見るのは初めての経験、整った外観の塔ですが面白い塔です。 五智国分寺三重塔 「国分寺は、聖武天皇が天平13年(741)1国1寺の建立を命じたのがはじまりです。 当時の越後国分寺の所在については諸説あり、現在まで位置はわかっていません。 現在の国分寺は、永禄5年(1562) 7月廃寺のようになって いたものを、上杉謙信が再興したものです。 しかし、その後 何回か火災にあって焼失し、三重塔を現在の姿に建て直したのは安政3年(1856)です。 宮大工曾武川常右衛門、江崎の長三郎の手により、およそ20年かかっています。 壁面には高田の住人石倉(後藤)正義銘の十二支と二十四支孝の中から選んだ十二孝の彫刻がはめこまれています。 高さ25.85m 間口4.8m 奥行き4.8m、新潟県指定文化財 昭和51年3月31日 指定 」とある。 未完となった理由は定かにはならなかったが、ぱっと見は作りかけには見えない。 境内左の経蔵。 五智国分寺HPでは経蔵について以下の内容で語られていました。 「経蔵の棟札によって、元禄6年(1693)2月22日に上棟されたもので、上越市内で記録の残るものでは最古の建物ともいわれています。 またこの経蔵には、鉄眼版一切経と呼ばれる一大仏教全集が納められており、元禄5年の寄進銘が記されています。」とあった。 外観は瓦葺の桁行2間、梁間2間の宝形造です。 尚、左側に白山神社がありますが、当日は再建に向け工事中でした。 五智国分寺本堂正面全景。 「 奈良時代の天平13年(741)に聖武天皇の勅命により、行基が開基した越後の国分寺です。 その後、幾度となく災厄を重ね、永禄5年(1562)に、上杉謙信がこの地に真言宗の寺院として再興しました。 謙信の甥俊海僧正が天台宗の国分寺として中興してかから、幕末まで寺領第200石が徳川川幕府より寄せられていました。 元禄2年、寛政6年と火災に遭い、現在の本堂は昭和63年焼失後の平成9年に再建されたもの。 昭和63年1月の本堂を焼失を受け、多くの方々のご協力とご浄財で平成9年10月5日落慶法要が執り行われたもの。 今の本堂は、鎌倉時代の建築様式を模して、入母屋造り、銅版葺き、 間口7間、奥行き6間の建物で、用材は主に青森ヒバ材で床にいたるまで槍ガンナで仕上げてあります。」 新しいものですが、入母屋銅葺屋根の平入で桁行7間、梁間6間で、正面に3間向拝が付く堂々たる建物です。 本堂内部には本尊の五智如来像や聖観音立像が安置されています。 向拝から堂内の眺め。 左から阿弥陀如来、薬師如来、胎蔵界大日如来、宝生如来、釈迦如来の五智如来が安置されています。 境内右から見る本堂の全景。 軒先に向かって流れる屋根の勾配が描く曲線は優雅なものがある。 境内右の竹之内草庵の手前に親鸞上人像。 左手の岩に親鸞上人が腰掛けたとされる腰掛石がある。 腰掛石。 当地には空海も訪れ、本尊の五智如来は空海が安置したものといいます。 竹之内草庵。 親鸞上人像の左奥に建つ建物、「竹之内草庵」は竹林に囲まれていた事に由来するという。 鎌倉時代の承元元年(1207)、親鸞聖人が越後に配流になった際、比叡山延暦寺時代の同門だった五智国分寺が親鸞聖人のために竹之内草庵を設けたもので、入母屋瓦葺で妻側に唐破風向拝が付くもの。 内部には上越市指定文化財の伝親鸞聖人坐像が安置されている。 破風に施された彫飾り。 親鸞聖人越後配所草庵縁起。 「平安末期から鎌倉時代にかけて、法然の開宗した専修念仏へ弾圧が加わり、承元元年(1207) 75才の法然は土佐に流され、その高弟の35才の親鸞聖人は藤井善信と還俗させられ越後に遠流となりました。 流罪となった親鸞聖人は国分寺境内の竹ノ内草庵で、国府代官荻原敏景の監視のもとに「延喜式」による流人の生活を約一年間送りました。 翌年代官の命令で「竹ノ内草庵」から「竹の前草庵」に移られる。 建暦元年(1211)勅使岡崎中納言が国府に到着し、「赦免の宣旨」を授けた。 赦免を喜んだ聖人が、別れを惜しむ同行の心根を思い、国分寺の北にある鏡ヶ池に自らの姿を写し刻まれたと伝えられる、親聖人座像が竹ノ内草庵(親鸞堂)に安置されています。 なお、国分寺の東に聖人が日常用いた清水が今もなお涸れることなく湧きいてでております。 また、境内には聖人旅立ちの像、御配所草庵跡地の碑、句仏上人の碑があります。」 堂内中央の親聖人座像。 背後の壁面は色が飛んでしまいましたが一面金箔が貼られています。 親鸞聖人像の右奥に宝塔と複数の地蔵が安置され、その奥に「親鸞聖人御真筆」「南無阿弥陀仏」と彫られた石碑が立てられています。 穏やかな表情だね。 それにしても見所が多い、海辺にテントを張り、もう一泊したいと思わせる。 息子に「三日して帰宅しなければ熊に襲われているかもしれないので通報宜しく」と出てきただけに帰らねば。 運転する者から見ると一ノ宮巡りも遠くなってきた、日本海の沖に浮かぶ佐渡にもいかないといけない。 若い頃のように帰宅予定を決めずに出かけて見たいものだ。 五智国分寺 宗派 / 天台宗 山号 / 安国山 院号 / 華蔵院 開基・創建 / 不明 中興 / 永禄5年(1562)・上杉謙信 本尊 / 五智如来 所在地 / 新潟県上越市五智3-20-21 参拝日 / 2024/07/20 関連記事 ・無印良品津南キャンプ場を拠点に清津峡と越後一宮を訪れる 1『無印良品津南キャンプ場』
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2024.08.24 00:00:32
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