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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
今回の目的地、津島神社は御船町山屋敷に鎮座します。
現地へは、前回掲載した青木原神社から県道11号線を約1km北上、御船こども園の前で左折し、園の西隣に鎮座します。 園の前の道は幅員の狭い一方通行で、駐車余地がないので、こども園の駐車場に止めさせてもらいました。 ![]() 上は使い回しの明治と現在の御船町の地図で、鎮座地は赤枠部分になります。 この御船町、室町地時代には北を流れる御船川右岸に御船城が築かれ、江戸時代には御船村の南部を東西に飯田街道、南北に岐阜県柿野や明智に繋がる街道が通るなど、戦略・物流の要衝でした。 これからの時期、香嵐渓の紅葉が見頃を迎えると名古屋方面からの車が増えますが、昭和47年に開通した猿投グリーンロードは当初片側1車線で、足助から力石周辺は酷く渋滞したものです。 当時、渋滞を避けて矢作川沿いの県道11号線を走ると、御船町で名鉄三河線の踏切が唐突に現れ、滅多に降りないはずの遮断機が下りたりすると、とても残念な思いをしたものです。 猿投から枝下、広瀬を経て西中金まで結んでいた名鉄三河線ですが、2004年には廃線となり踏切はなくなりましたが、津島神社の西にある「ふれあい公園」には当時の「三河御船駅」のプラットホーム、津島神社のすぐ南には線路が残されており当時を忍ぶ事も出来ます。 津島神社前の細い道は一方通行なので、参拝後は道なりに西に進みますが、その途中の左側にその線路を見ることができます。 ![]() こども園の西隣に津島神社へ続く参道があり、神社はこども園の裏側に鎮座します。 ![]() 北側に御船川を見下ろす高台にある社頭は、石の明神鳥居を構え、鳥居左に手水舎があり、右に広がる境内の奥に社殿が建てられています。 ![]() 扁額は「津島神社」。 鳥居は平成元年(1989)に寄進されたものでした。 ![]() 社殿全景。 切妻屋根の覆屋は、手前の軒に柱が追加され伸びやかに延長されています。 境内には由緒はなく、愛知県神社庁や西加茂郡誌に目を通しましたが、創建時期など詳細は分かりません。 鳥居が寄進された平成元年(1989)に創建された神社かなと決め込んでいましたが、昭和39年(1964)の航空写真を見ると、当時はこの辺りの雑木林の造成が進み、昭和54年(1979)に園の姿が現れ、園の西隣に参道らしき道と、正面に少し開けた場所が見られるだけで、園の後方は造成前の状態でした。 平成元年以前から、参道の正面に神社は鎮座していた可能性があります。
この園の建設時期を調べていた際、津島神社の記述を見付けました、下がその内容です。 「津島神社は、御船町山屋敷の御船こども園に隣接した高台に祀られ、古くから住民に「お天王さん」と呼ばれ親しまれている。 祭神は、須佐之男命(すさのうのみこと)。 昭和58年(1983)に御船保育園(御船こども園)園舎改築に伴い、現在の位置に移し、新たに本殿を新築した。 祭礼は毎年7月に盛大に行われている。」とありました。 園の建設時期や神社の創建時期は分からなかったが、改築に伴い社殿が動かされたようで、それが落ち着き、鳥居が寄進されたのが1989年という事だろう。 ![]() 覆屋正面の眺め。 軒が延長され、向拝柱の提灯屋形があることで、普通の切妻屋根に比べると優雅に見えます。 神社の創建時期は定かにはなりませんが、少なくとも昭和以前から、御船の除災のため祀られた神社のようです。 ![]() 向拝柱の木鼻飾り。 ![]() 覆屋内の流造の本殿。 祀られるのは須佐之男命、神仏分離後の創建だろうか?![]() 覆屋側面から境内の眺め。 7月の祭礼には、赤い提灯を手にした町内の子供達による、ちょうちん行列が催されるそうです。 祭礼を通じて子供なりに神社と接し、地域の子や大人とも交流が芽生えていくのだろう。 ![]() 境内から社頭の眺め。 少し前まで、正面に見える藪の中を、山線の電車が西中金に向け走っていました。 県道の踏切は埋められ、味のある矢作川橋梁を渡る電車の姿も見られなくなると、車ばかりで一度も電車乗らなかった者が言うのもなんですが、それはそれで残念な思いもあります。 名鉄三河線山線が足助まで伸びていたとして、廃線の流れは止まらなかっただろう。 橋梁のその後や枝下や広瀨の廃駅巡りでもしてみようかな。 津島神社 創建 / 不明 祭神 / 須佐之男命 境内社 / ・・・ 祭礼 / 7月:ちょうちん行列 所在地 / 豊田市御船町山屋敷 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.12.02 15:06:01
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