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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
加藤清正公誕生地とされる妙行寺から、北に徒歩2~3分ほどの場所に鎮座する常泉寺を今回掲載します。
こちらは豊臣秀吉公が産湯を浴びたとする井戸がある日蓮宗の寺院です。 常泉寺は妙行寺北隣の通りに面し山門を構えています。 参道の入口左に「豊太閤御誕地」、右に「日蓮宗常泉寺」の寺号標が立ち、参道の少し先に山門が建てられています。 山門全景。 山門左の太閤山常泉寺、南無妙法蓮華経と刻まれた題目塔。 山門から境内の眺め。 山門から本堂方向の眺め。 太閤山常泉寺は豊臣秀吉公生誕地に秀吉公に命じられた加藤清正公と開山である圓住院日誦上人により創建されました。 正面は本堂で右手の庫裏へ続きます。 山門をくぐった左側の苔むした境内には題目塔があります。 右側には四季桜が淡いピンクの花を付けていました。 左手の水子地蔵と本堂の眺め。 本堂の山号額。 堂内で祀られている御神体の豊太閤像は木食興山上人の彫刻とされ、当初は大阪城に祀られていたもので、清正公が秀頼公にお願いし、常泉寺へ遷されたものという。 本殿前の「むすびの輪」 むすびとは「結ぶ」で、糸によりしめくくる事です。世の中は結縁で成り立って います。縁とはゆかり、てづる、たより、つきあいなど多くの意味があります。 ハート印は人の生命を表しています。 1、本堂の前でお祈りします。 2、お願いを込めて下の輪(自分の思い)次に上の輪(御仏の意志)を廻します。 3、同じ山がピッタリと合えば願いが叶います。 二つまでのズレはあと一息。 三つ以上のズレは努力が肝要とみます。 お参りした後は、この上下の輪を回すのが習わしのようです。 境内西側の手水舎と太閤像の眺め。 豊臣秀吉公像。 秀吉公産湯の井戸。像の解説は以下。 「豊臣秀吉公没・三百年記念事業として太閤秀吉公像を明治31年(1898)に建立。 昭和19年(1944)、戦争による金属強制徴収となり、台座石のみとなる。 昭和58年(1983)放火により本堂全焼となるも、篤信者の支援、檀信徒一丸となり、同62年(1987)に本堂落慶を迎える。 続いて この台座石に心をとめた方の寄進によりその翌年5月、秀吉銅像が再建された。」 こちらの解説は以下。 「秀吉公産湯の井戸」は現在もその姿をとどめています。 秀吉公が生まれた際、この井戸はほかに類をみないほどの清水が豊かに溢れていたといいます。 このことから「常泉寺」という名がつけられたと縁起書にも記されています。 しかし昭和40年代、市の発展に伴う地下水の変動を受け、この泉も枯れてしまいました。 多くの人がまた清水湧き出る泉を取り戻したいと願い、平成に変わるときに再現を試みたといいます。 その甲斐あって清泉はよみがえり、今でもこんこんと清水が湧き出しています。」 とあります、それまでより下がった水脈を求め掘り進めたようです。 一度は枯れた地下水も今ではこうして滾々と湧き出しています。 境内西側の常泉寺解説と秀吉手植の柊。 「長泉寺 太閤山と号し、日蓮宗。 慶長年中(1596~1615)円住院日誦上人の創建という。 この地は、織田信長に仕え、足軽から身を起して、後に天下を統一した豊臣秀吉誕生の地と伝える。 境内に伝承として、秀吉手植の柊(基木より五代目という)と秀吉産湯の井戸がある。 なお、誕生地については、中中村(現中村中町あたり)とする説もある。 名古屋市教育委員会 」 写真は中村公園側の境内入口。 入口付近の解説は以下の通りです。 「日蓮宗 太閤山・常泉寺 豊臣秀吉公誕生地 御神体 太閤秀吉公肖像 宗派 日蓮宗 総本山 身延山久遠寺 創建 慶長年間(1596~1615) 秀吉公生前の命により豊臣秀吉公廟堂として家臣、加藤清正と圓住院日誦上人によって創建。 秀吉病没、慶長3年(1598)後、大坂夏の陣、慶長20年(1615)秀頼とその母 淀殿自刃、秀頼の子、国松処刑よって豊臣家滅亡となり、当山も灰燼となるも、当山第二世真英院日探上人が太閤像を背負い、難を逃れる。 後に、徳川幕府の許しを得、学問所として再建され、徐々に寺本来の姿に復し近年に至る。 昭和58年4月放火され灰燃の憂目に あうも、同年8月篤信者の支援を受け、檀信徒有縁が一丸となり、 復興に尽力し、同62年4月落慶を迎える。 当山伝承による寺宝 太閤秀吉公束带唐冠木彫座像 後陽成天皇御下賜の采配 太閤秀吉公所持の茶釜(十六菊花紋入り) 太閤秀吉公愛用の硯 秀頼公自筆の書 一幅 秀吉公御手植えの格で作った茶杓 木下長嘯子の軸 一幅」 とある。 上は前回妙行寺で使用した尾張名所図会の挿絵になります。 右上に描かれているのが常泉寺で、境内中央に秀吉手植の柊、秀吉公産湯の井戸が描かれています。 左側の集落が現在の中村公園になり、公園内の生誕地とされる一角に、玉垣で囲われ「豊公誕生之地」の石標が立てられています。 入口右の木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)宅跡の石標と解説。 内容は以下。 「長嘯子(木下勝俊)は、木下家定の長子、北政所(秀吉正室)の甥である。 豊臣秀吉のもとで若狭九万石を領したが、関ヶ原の戦いでは去就に迷い、所領を失った。 こののち、京都東山に幽棲、風月を楽しんだ。歌文に秀れ、著書も多く中でも歌集「拳白集」は名高い。」 常泉寺 宗派 / 日蓮宗 山号 / 太閤山 創建 / 慶長11年(1606) 開山 / 圓住院日誦上人 開基 / 加藤清正 本尊 / 大曼荼羅所在地 / 名古屋市中村区中村町木下屋敷47 妙行寺から常泉寺徒歩移動 / 北へ3分 訪問日 / 2024/11/08 関連記事 ・かつての遊里ヶ池に鎮座する弁財天 ・正悦山 妙行寺(加藤清正公誕生地) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.12.09 00:00:22
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