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2025.02.14
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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
前回掲載した橋詰神社から美濃路沿いを東へ進み、庄内堤沿いの不明社(十軒神社)へ向かいます。

大正時代と現在の地図から今回の徘徊ルートと今回掲載するスポットをマップに落として見ました。
左のマーカーが前回記載した橋詰神社になります。

橋詰神社から美濃路沿いを東へ100㍍、2分ほどの場所に写真の道標とモニュメントが置かれています。
体格のいい上半身裸の男性が肩に担ぐ大きな大根、このモチーフはどこか見覚えがある。
これは尾張名所図会の挿絵にも描かれている人物で、当時は美濃路を行き交う人々で街道沿いは賑わい、市も立っていたようで、江戸時代後期には方領大根が商われていたことも描かれています。

左手には道標と解説板が立てられています。

道標には文政10年(1827)と刻まれており、外観に大きな風化もなく、200年を経たものには見えません。

傍らの解説。
「美濃路道標
・美濃路は江戸時代、東海道と中山道とを結ぶ脇街道として発達しました。
 当時、旅をするのに道標や一里塚はなくてはならないものでした。
 見落すはずはないものでしょう。

・道標には次のように彫られています。
 東 にしハ つしまてん王きよす宿みち
 西 飛がしハ とうかいどうなごや道
 南 文政10年丁亥七月吉日
 北 いわくら道
 南 支政十丁余七月吉日 北 いまくら道
・この道標は文政十年(1827)に建てられた、旧枇杷島橋小橋のたもとに安置されていたものです。
 交通の要地であった当地の歴史を物語る大切な道標です。」

「なくてはならないもの」確かにそうだね。
ここまで歩いた美濃路は、庄内川を渡り名古屋城下へとつながり、堤沿いに上流に続く道は岩倉街道となり小牧城下へ向かいます。
この道標から庄内川対岸の中島黒體龍王大神付近にもこうした道標が立てられています。

かつてのこのあたり、庄内川を挟み現在の清州と対岸の西区を行き来するには渡しに頼るしかありませんでした。
川の中ほどには中島と呼ばれる洲があり、中島には集落も出来ていました。
1622年(元和8)、この中島を中継として挿絵にある大小二つの橋が架けられました。

尾張名所図会には「国中第一の大橋で、東西に二橋を架け、大橋は長さ七十二間(約130㍍)、小橋二十七間(約48㍍)、杭・桁・梁・高欄其他に至るまで桧材を用い、結構の善美で見るものを驚せ、両橋の間に中島があり南北六町(約600㍍)ばかり川中へ墾出す」とも記されています。

多少盛り気味とも思える内容ですが、当時の技術では庄内川の川幅を一つの橋で架ける事は難しく、中島が無ければ実現しなかったともいえます。
この二つの橋により一段と人・物の流れは円滑になりました。

レリーフには尾張名所図会の青果市の賑わいが描かれています。
往時は江戸の千住や大阪の天満と並ぶ、日本三大市場のひとつに数えられるほどで賑わったようです。

道標から岩倉街道を上流に向かうと写真の名鉄本線と犬山線の踏切付近に至ります。
踏切の右の建物は、尾張西枇杷島まつりで曳き回される橋詰町の「王義之車」山車庫。
享和2年(1802)に建造されたものだという。

名鉄本線と犬山線が交わるため、運が悪いと結構待たされます。
ここの左側は本線と犬山線が分岐するトライアングル地帯で、鉄道マニアの間では有名なスポットなんだとか。

岩倉街道沿いの堤の左に小さな社が祀られています。
ここが今回の目的地になります。
個人的に、こうして堤沿いに佇む神社を見ると「天王社」か「津島社」と相場が決まっていると思い込んでしまいますが、グーグル先生によれば「十軒神社」とあります。
所在地は西枇杷島町十軒裏で、現地では「十軒神社」として肯定するものがなく、由緒等も見られず社名は定かになりません。
駄目もとで愛知県神社の登録神社を探して見ましたが、登録リストには載っていません。
頼りにしていた西春日井郡誌にも所在地、社名ともに記載がなかった。
ならば今昔マップはどうかとみて見ると、鳥居の姿もない。
このブログでは不明社(十軒神社)として表記します。

神社正面全景。
手前の常夜灯は昭和4年(1929)の寄進年が刻まれていましたが、社名までは刻まれていませんでした。

綺麗な基壇上の玉垣にも社名につながるものは見られず、賽銭を供え、拝んではみたものの、何を祈願すればよかったのやら。

すぐ西側にハイキングの立ち寄りポイントの老舗味噌屋がありますが、そこで聞けばスッキリする回答が得られたのかもしれない。
運良く祭礼日と重なれば、吊るされた提灯を見ればスッキリするのだろう。

不明社(十軒神社)
祭神 / 不明
創建 / 不明 
境内社 / ・・・
氏子域 / 十軒裏
例祭 / 不明
所在地 / 清須市西枇杷島町十軒裏65
橋詰神社から / ​​​橋詰神社から美濃路沿いに東へ400㍍​、徒歩5分ほど​​
参拝日 / 2025/01/18
過去記事
・​中島黒體龍王大神社





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Last updated  2025.02.14 13:55:18
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