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2025.03.11
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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
前回掲載した普門寺、その門前を右に向かい、次の4番札所延命寺に向かう。
その道すがら、横根町地内に鎮座する藤井神社の脇を通りかかり立ち寄ってみました。
今回はその藤井神社を取り上げます。
その前に、「歩いて参拝知多四国」にはゴール時間が決められており、それを過ぎるとコース上のルート案内は撤去され、最寄り駅までの臨時バスもなくなってしまいます。
この日は15:00までにゴール「厳守」と書かれており、食事や気になるお店に立ち寄っていると、それほど道草している余裕もありません。

普門寺から400㍍ほどの横根町惣作に鎮座する藤井神社社頭全景。
かみさんの仕草にも道草を許容してくれる雰囲気が失せてきたような・・・
手早く写真と参拝を済ませ先に進みたい。
いかにも郊外の神社らしい広い社地を持ち、長い参道には写真の一ノ鳥居と中ほどにニノ鳥居を構えています。
この鳥居の手前に「郷社(七等級)藤井神社」の社号標が建てられていました。

参道左の藤井神社由緒と愛知県文化財解説。
大府市誌(1986)に藤井神社について約1頁にわたり詳細に記されていました。
長文ですが内容は以下になります。
”藤井神社
横根町惣作20番地に所在する。
祭神は天照皇大神、須佐之男命、大山祇命の三柱を祀り、相殿の神(後記)として二一柱が鎮座する。

創建の年代は明確でないが、「社伝」によれば、建久2年(1191)源頼朝の勧請といわれる。
建久元年10月3日に、鎌倉を出発した頼朝は、鳴海を経て、同月25日野間で亡父義朝の菩提を弔い、翌二年鎌倉への帰途にこの地に藤井大明神を勧請したと伝える。
また、一説には、7世紀後半に創建され、頼朝がこれを再建したとも伝わる。

神社の南200㍍の地点には、惣作遺跡があり、弥生式土器、古墳時代の須恵器、奈良時代須の恵器、平安瓷器、行基焼など出土した。
奈良時代から平安時代のものもあり、社伝と時代は符合している。
7世紀後半には、海浜の小村が形成されていたのかもしれない。
明治19年、地内の字中村から「藤井宮大明神御酒瓶子」と刻まれた鎌倉時代の陶製瓶子(昭和45年県文化財に指定)が出土。
お神酒を献ずる器で、すでに鎌倉時代に一社をなしていたことを証する好資料である。

記録としては、「文安2年正月20日尾州智多郡横根郷於藤井大明神御宝前蒙十方檀那資助顕大般若経一部云々」と記された延命寺所蔵の「大般若経」第一巻の裏書がある。
その後、53年を経た、「奉造立藤井大明神社頭一宇干時明応7年卯月日願主当所御代官冨田左京亮家次」の棟札をはじめ、37枚の棟札がある。
棟札によると、藤井神社の神主として、山口長太夫を代々襲名した社家が、元禄時代から明治期まで170余年わたり管理をしており、延命寺の支配下にあった。
古伝に、「往時社内に老藤樹あり脇に古井清水を湛え神徳顕著なり依って藤井大明神と云う」とある。
藤井神社の社名の起りである。
この泉「藤井の里」の跡地は、今は石垣でかこみ遺跡として保存されている。
明治5年郷社に列せられ、現在の本殿(神明造り)は大正8年10月18日の改築である。

『寛文覚書』に「一、藤井大明神 右大明神ハ大府村、北尾村、大脇村、落合村、追分村、横根村六ヶ村之氏神、毎歳8月1日に右之村々ヨリ祭礼ニ馬ヲ出ス」とある。
当時は横根郷一帯の氏神であり、祭礼には各村より飾り馬一頭ずつを仕立て社参し、盛況をきわめた。
現在は山車(市指定文化財)が三台ある。
口伝によれば、江州長浜より譲り受けたものといわれるが記録はない。三番叟(そう)とともに、祭礼を盛りあげている。
横根地内には昔から各所に社があった。
明治9年10月、すべて境内に移転された。
記録として留めれば、字石丸の村神社(大国魂命)、字中村の山神社(大山祇命)、字茨廻間の山神社(大山祇命)、字羽根山の冨士社(木花開耶姫命)、字後田の神宮社(倉稲魂命)、字前田の神宮社(猿田彦命)などで、なかでも規模の大きかった字中村から移転した山神社の祭神を明治40年5月19日本社に合祀し、他の六社と従前からの境内社であった八王子社(正哉吾勝勝速日天忍穂耳命・天)穂日命・天津彦根命・活津彦根命・田心姫命・市杵嶋姫命・熊野杼樟日命・湍津姫命)・熱田社(熱田七社神・熱田本宮・高蔵宮・八剣宮・大福田宮・日破宮・氷上宮・源太夫神)の祭神を、大正8年8月7日本社の相殿の神としてすべて合祀した。
現在は、境内社として天満宮(祭神菅原道真)と秋葉神社(祭神迦具土神)がある。
社宝
 藤井宮御酒瓶子(県指定文化財) 鎌倉時代
 祭礼用山車(市指定文化財)三台 江戸時代
 鎧・兜 江戸時代
 銅製鏡三面 江戸時代“

藤井神社には市指定文化財の山車が三輌あり、石丸組、南組、中組の三つの組でそれぞれ管理され祭礼時に奉納されるようです。
また、境内には常設の餅投げ舞台があり、祭礼時は舞台から餅投げが行われるようです。

参道右手の砲弾と由来。
この三十㌢砲弾は「拝殿新築及び境内地拡張を記念すると同時に児童及び青年子女は勿論、一般町民の精神教育の目的を達せんが為」として、時の大府町長が、昭和8年(1933)に陸軍省に下付を申請し、同9年認可され、同10年に建立されたもの。
日中・太平洋両戦争で筆舌に尽くせぬ多くの犠牲を払った。
展示の砲弾等は二度と撃つ事・撃たれる事の無い、 恒久の平和を願い建立されたもの。

社殿全景。
写真では切れていますが、左に秋葉神社の堂があり、中央に社殿、右側に社務所、天神社、参集殿を持っています。
明治5年郷社に指定され、横根郷一帯の氏神の貫禄が漂います。

狛犬と藤井神社の大きな額が掛けられた拝殿全景。

本殿域の眺め。
本殿は内削木千木の神明造のようです。

社務所右の境内。
正面に一対の撫牛が守護する天神社、参道右に藤井の泉趾の碑が建てられていました。

藤井の泉趾。
藤井の泉は知多の里の知多三泉(生道井・東浦町、帝井・南知多町篠島)の一つに数えられ、その昔には泉が湧き出ていたといわれている。
「藤井」の由来は、泉の近くに大きな藤の木があったことから、「藤井」呼ばれるようになり、泉周辺は藤井の里と呼ばれたそうで、里に祀られた神社を「藤井大明神」と呼んでいた。
「藤」と「泉」、「藤井大明神」が現在の藤井神社の社名の由来のようです。

上は江戸時代後期の天保12年(1841)に描かれた横根村絵図。
右に普門寺、左に延命寺、中央の細い流れは明神川で右岸に「藤井大明神」と記されています。
鎮座地の横根は、往古は鎌倉街道に出るための宿場町として栄えたとされ、藤井の泉は街道を行き交う旅人達の喉を潤したのでしょう。
現在は藤の木もなく、玉垣で囲われた泉跡地から往時を忍ぶことは出来ませんが、後世に伝えるため保存されたもの。

天神社鞘殿。
いつ頃創建されたものか詳細は不明。

社殿側面にも回り込んで見たかったが、またの機会として、延命寺に向かいます。
藤井神社
祭神 / 天照大御神、須佐之男命
創建 / 建久2年(1191)
境内社 / 天満宮、秋葉神社
氏子域 / 大府市、横根村町
祭例 / 毎月15日、10月第2日曜日
所在地 / 大府市横根町惣作20
参拝日 / 2025/01/25
普門寺から藤井神社 / ​普門寺から徒歩6分ほど​​
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Last updated  2025.03.12 16:23:33
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