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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
八幡神社。
延命寺から県道57号線を西に向かい、この日のゴール6番札所常福寺に向かう途中、月見町地内にある大目寺西交差点北側で八幡神社を見かけ、ゴールを目指す妻には先に行ってもらい、一人立ち寄ってみました。 ![]() 県道57号線沿いに社頭を構える八幡神社。 右手に「正八幡神社」社標、そこから境内までは緩やかな石段が続く。 ![]() 石段途中に建てられた明神鳥居。 ![]() 石段を上りきった先の境内全景。 左から手水舎・社務所・社殿・境内社が主な建物になります。 ![]() 拝殿全景、大きな向拝を持つ入母屋造で、社殿は全体的に新しい印象を受けます。 後に調べたところ、当社には寛文10年(1670)の棟札が残っており、歴史はかなり古いものです。 ![]() 拝殿額は「江端八幡社」 ![]() 拝殿から本殿方向の眺め。 左巴紋が神紋のようですが、本殿の造りは分かりませんが、金色の御幣と鏡が祀られ、脇障子には彫が施されているように見えます。 ![]() 拝殿右側の境内社と堂。 ![]() 境内社は左から金毘羅宮、津島神社、大山祇社、若宮神社、秋葉神社の五社相殿。 ![]() 右手は左が猿田彦大神と富士山淺間神社。 ![]() 方形屋根の堂には一体の石像が安置されていました。 遠目にしか見ていませんが、像容から役行者に見えました。 ![]() 境内右から社殿側面の全景。 平入の拝殿と幣殿・本殿が一体となったもので、玉垣はありません。 境内に由緒はなく、現地で詳細は分からず、後日調べてみました。 現在の大府市誌・神社から鎮座地の月見町で調べてみたが該当がなく、月見町の地名沿革を調べてみると月見町の町名は近年の事で、以前は土前と呼ばれ、明治期の地図では江端と書かれているのが分かりました。 市史を土前で見直すと八幡神社の記述が見つかりました。 以下は大府市誌からの引用です。 「八幡社 大府町土前五番地に所在し、仁徳天皇を祀る。 創建は不詳であるが所蔵する寛文10年(1670)8月3日の棟札に「奉上背弓箭八幡宮一宇守護所」とあり、すでに屋根のふき替えが行われていることは、それ以前に祠のあったことを意味する。 天文年間(1532-55)に加藤孫八という人がこの地に移住した。 加藤家の所蔵する棟札によると、代々当社の神主を世襲しているところから、天文年間の創建ではないかと思われる。 社伝によれば、創建当初は現在地より東へ200㍍鞍流瀬川畔の上清蔵に一社を設けていたが、たびたび洪水にあった。 安政3年(1856)の大洪水を機に、北にあたる大峯山の頂に社を移したが、後年再び現在地に移したと伝えられる。 この間(寛文10年-明治2年)の10枚の棟札によると、すべて宝竜山延命寺住職が遷宮導師をつとめているところから、当寺の支配下に置かれていたことがわかる。 今も上清蔵の元宮の地には、人家の軒先に3.3平方ほどをブロックで囲った「八幡神社本宮」の碑が建っている。 「寛文覚書」にも「一社七ヶ所内」に八幡の名がすでにみえ、弓箭八幡宮あるいは若宮八幡社と称されていたが明治11年に八幡社と改称された。 現在の本殿は間口1.6㍍・奥行90㌢ の流れ造りで、向拝から虹梁、上長押、両側見付の脇障子に至るまで 無数の精彩な彫刻がほどこされ、棟札から推定して、寛政2年(1790)の建造と思われ、雨覆殿によって風雨をしのぎ、江戸中期の建築様式を今に伝えている。 これだけ分かれば他を調べる事もなさそうです。境内社に若宮神社(祭神 誉田別尊)・津島神社(祭神 素盞鳴尊)・大山祇社(祭神 大山祇命)・秋葉神社(祭神 迦具土神)・金比羅社(祭神 大物主神)の五社があり、境内東北隅に役行者を祀る堂がある。」 見た目の印象とは違い、現在の月見町以前の集落の発展と共に歴史を重ねてきた神社である。 江端 八幡神社 祭神 / 仁徳天皇 創建 / 不明、寛文10年(1670)の棟札が残る 境内社 / 金毘羅宮、津島神社、大山祇社、若宮神社、秋葉神社、猿田彦大神、富士山淺間神社 氏子域 / 江端町、大府町、月見町、長草町 祭例 / 10月第2日曜日 所在地 / 大府市月見町5-248 参拝日 / 2025/01/25 延命寺から江端八幡神社 / 県道57号線を西に、大目寺西交差点北側の江端八幡神社まで1.6km・約25分 関連記事 ・知多四国巡礼 一番札所 清涼山 曹源寺 ・近崎 神明社 ・北嶌山賢聖院 ・知多四国巡礼 二番札所 法蔵山 極楽寺 ・知多四国巡礼 三番札所 海雲山 普門寺 ・藤井の里 藤井神社 ・知多四国巡礼 四番札所 寶龍山延命寺 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2025.03.20 11:59:07
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