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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
史跡景清公墓所 「生目八幡宮」
前回掲載した知多四国6番札所常福寺の東裏の小高い丘の上に鎮座する神社で、所在地は常福寺と同じ半月町になります。 ![]() 生目八幡宮の杜の全景。 こんもりと盛り上がった社地は古墳のようにも見えますが、どうやらそうではないようです。 ![]() 森の入口の朱の鳥居から丘の頂へはこうした石段が続いています。 ![]() 入口のすぐ左の樹々の間に「史跡 景清公墓所・生目八幡宮」と刻まれた石標が建てられていました。 常福寺は平景清が作ったとされる千手観世音菩薩や、位牌が残る寺として先回掲載しました。 この生目八幡宮は景清公の墓所として史跡に指定されているようです。 更に、常福寺西側に景清の名を冠した「景清神社」が鎮座し、往古には景清の屋敷があったと「尾張名所図会」にも記され、境内には芦沢井戸と呼ばれる井戸も残るようです。 景清作とされる千手観世音菩薩や位牌の残る常福寺はじめ、墓所や屋敷など景清と所縁の深い土地柄でありながら、大府市の遺跡・史蹟一覧に景清公墓所や芦沢井戸の名は見られず、詳細は定かではない。 根拠のない伝説はどこまでも伝説…というのが自分の考えですが、位牌や墓所もあるとなると信憑性は高まります。 一方、壇ノ浦で平家は滅亡し、景清は逃げ延びながらも頼朝への復讐を図るも失敗に終わり、囚われの身となり頼朝の前に引き出され死を覚悟しますが、頼朝は景清の平家への忠誠心を称えて罪を赦し、日向国(宮崎)に流罪とした。 その後の景清は終生その地に留まり没したとも伝わり、数々の伝説が生まれます。 そのひとつに、隠棲後の日向の地で、源氏の隆盛ぶりを目にし、再燃する復讐心を鎮めるため自らの両目を抉り取った伝説があるという。 そうした逸話から、いつしか景清は眼病の神として崇められるようになったといい、宮崎市には景清廟や目の病に霊験あらたかで、景清とも所縁のある生目神社(生目八幡宮)があります。 各地に残る伝承は尊重するとして、ここ半月の生目神社の生い立ちは良く分かりません。 常福寺の鎮守社なのか、景清を慕う住民が生目八幡宮としてこの頂に建立したものか、それとも宮崎県の生目神社から勧請したものなのか定かではありません。 過去の地図から見ると昭和44年(1969)頃の地図に記念碑らしき印が現れ、昭和66年(1991)の地図から鳥居が記される様になります。 由緒碑があると分かりやすいのですが、創建時期や由来の疑問は、常福寺で教えを請えばスッキリするかもしれないですね。 ![]() 石標の先の参道には大きな一対の蛙が狛犬のように安置されている。 ![]() 入口は鬱蒼としていますが、頂に近づくにつれ境内は明るくなっていきます。 ![]() どんな謂れがあるのか分からないがここにも蛙がいる。 ![]() 頂きは御覧のように樹々が伐採され、明るい境内に石碑や鹿の像が置かれています。 景清公の墓所とされる丘に建つ生目八幡宮。 右手の石碑には「かげ清く 照らす生目の水かがみ 末の世までも 雲らざりけり」の和歌が刻まれています。 ![]() 歓喜と書かれた台座の上に祀られる社が生目八幡宮本殿。 この前で「かげ清く 照らす生目の水かがみ 末の世までも 雲らざりけり」と唱えることで霊験が得られるという。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2025.03.20 12:02:54
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