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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
光照寺からJR武豊線乙川駅付近を通過し、半田大橋を渡り阿久比川と十ヶ川を越えます。
十ヶ川右岸堤防道路を南下し国盛酒の文化館を目指します。 今回掲載する斐芽(ひめ)の祠と業葉(なりは)神社は、黒壁の倉が連なる半田運河右岸にあります。 ![]() この辺りは江戸時代から海運が栄え、ここで作られた酢や酒は遠く江戸まで運ばれていました。 今回の目的地は国盛酒の文化館の西側に鎮座します。 国盛酒の文化館には一度訪れたことがあります。しかし、その西隣にある斐芽の祠と業葉神社や境内西隣の十九番札所光照院も今回初めて訪れます。 ![]() 国盛酒の文化館西側から業葉神社境内の眺め。 ![]() 境内東側の赤い鳥居は斐芽の祠のもので、左が業葉神社の鳥居になります。 ![]() 春日造り風の朱色の覆屋、中には注連縄の張られた一抱えほどの岩が安置されています。 社頭の解説を要約すると以下のような謂れがあります。 業葉神社の境内にある「力石」は、かつて江戸の大相撲の関取が奉納したとされる大石で、子の健やかな成長を願って人々がなでたり座らせたりしてきた。 力石は、戦後の混乱で忘れられかけたが、近年再び注目され、人々がご利益を求めて訪れるようになった。 神社は半田の繁華街に位置する歴史ある社で春祭には雅楽が奏ぜられ賑わう。 ![]() 覆屋の中の大岩。 大岩に注連縄が巻かれた姿は、どことなく力士の姿にも見えてくる。 ![]() 左手の業葉神社鳥居から拝殿の眺め。 業葉神社の創建は定かではないですが、社伝によれば、当神社は山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)を勧請したもの。 古来より八幡宮と尊称され、神宝の古面裏書に「業葉天神」と記されていたことから、本国神名帳にある従三位業葉天神であることを知り、天保8年(1837)11月、官許を得て改称した。 このことは、神社が所蔵する棟札からもうかがえる。 棟札は寛文3年(1663)から文化12年(1815)までの10枚に、「八幡宮」とあり、天保10年(1839)以降の棟札には「業葉神社」とある。 明治5年に「村社は一村一社に限る」との達により、住吉神社が村社となり、当社は無格社となったが明治15年村社に列せられた。 祭神:応神天皇配祀:仲哀天皇、神功皇后、田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命、天照大神 境内神社:金刀比羅社、船玉社、津嶋社、松尾社、秋葉社、子安社 例祭:4月15、16日 氏子域:半田市東本町、荒古町、泉町、勘内町、北末広町、銀座本町、源平町、古浜町、幸町、東雲町、新川町、新栄町、十一号地、東洋町、中村町、西端町、浜町、東天王町、東浜町、東本町、日ノ出町、広小路町、船入町、本町、瑞穂町、南本町、御幸町、妙見町、山崎町、山ノ神町 ![]() 上がその古面(文化遺産DBより引用)。 「制作者、正確な年代は不明、芸能化される以前の古い神事面と考えられ、およそ室町時代に信仰の対象として制作されたものと推定されている。 面相は意図的に大きくゆがめられ、ひび割れたクスノキ材をそのまま利用し制作されている。 左右の頬は左が墨書き、右が線刻と技法に変化が加えられ、彩色や眉の植毛の痕跡がみられる。」 右手の裏面に業葉天神と記されている。(有形民俗文化財) 実物は半田市立博物館で所蔵されています。 ![]() 参道右の手水舎と斐芽の祠。 拝殿右には境内社が纏められています。 ![]() 入母屋瓦葺木造の平入拝殿。 ![]() 拝殿前を守護する狛犬と業葉神社拝殿額、揮毫は岩津天満宮宮司による揮毫。 ![]() 三つ巴の紋が入る木目が美しい賽銭箱と本殿方向の眺め。 ![]() 拝殿右の境内社。 手前に板宮造りの三社、後方に一社の四社が祀られています。 ![]() 津島社、船玉社、秋葉社。 ![]() 後方に神明造の松尾社。 ![]() 流造と思われる本殿、本殿域の様子は窺えなかった。 斐芽(ひめ)の祠と業葉(なりは)神社 創建 / 不明(寛文3年の棟札) 祭神 / 応神天皇 境内社 / 金刀比羅社、船玉社、津嶋社、松尾社、秋葉社、子安社 例祭 / 4月15、16日 所在地 / 半田市東本町2-18 光照寺から業葉(なりは)神社徒歩ルート / 南へ1.7㌔、約20分 参拝日 / 2025/03/15 関連記事
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Last updated
2025.07.04 11:42:21
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