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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
内海トンネルから約1㌔ほど道なりに下った美浜町小野浦。
ここまで丘陵地を歩いてきました、小野浦キャンプ場を過ぎると海岸線が近くなり、平坦な道に変わります。 ![]() 今回掲載する小野浦八幡神社・多賀神社は内海峠を越えた、伊勢湾海岸線の山裾に鎮座します。 山を下り、集落の入口近付くと右手に八幡神社の社頭が現れます。 社頭は「村社 八幡神社」の社号標と神明鳥居を構え、参道がその先の拝殿に真っすぐに伸びています。 ![]() 鳥居をくぐると左に手水舎があり、更にその奥は多賀神社の境内が作られています。 ![]() 多賀神社の境内全景。 広い社地には八幡神社・多賀神社の二社が並んで祀られています。 ![]() まずは参道を進み、正面の八幡神社を参拝しよう。 真っすぐに伸びる参道の先、緩やかな石段を上れば社殿域です。 ![]() 社殿の全景が見えてきました。 手前に狛犬が守護し、その先には拝殿・本殿、両脇に境内社が祀られています。 社殿はほぼ西を向いて建てられています。 ![]() 拝殿は木造の入母屋瓦葺の妻入りで四方吹き抜けのもの。 大きな鬼板ですが社紋は入っていない様でした。 ![]() 拝殿から本殿の眺め。 内部に棟札又は由緒が掛けられていないか探して見ましたが、何も見当たりませんでした。 ・知多郡史(1972)では祭神の大鷦鷯命、気長足姫命。 ・尾張徇行記(1792-1822)第6巻(海西郡・知多郡之部)に以下の記述が見られました。 「野間庄小野浦村 一社六区、覚書ニ若宮八幡、諏訪明神、恵比須山神三社 境内三町四反八献歩前々除称宜助左衛門持〇祠官斎藤助太夫書上ニ若宮八幡社内一町四反歩、勧請ノ由来ハ不知、元禄十六年未五月再建ノ棟札アリ、恵比須社内二献十歩、諏訪大明神社内一町此社勧請ノ由来ハ不知、正徳元年卯十二月再建ノ棟札アリ、山神社内二献歩又山神社内二十八歩、州原大明神社内三献歩、三社共ニ勧請ノ年紀ハ不知、何レモ御除地ナリ」 再建時の棟札の年代や若宮八幡と呼ばれた事など、他の資料と整合するので八幡神社を指しているようです。 ![]() 本殿左の境内社は津島神社、祭神は須佐之男命。 ![]() 右側の境内社は社名札があったが、撮り忘れてしまい社名は不明です。 ![]() 多賀神社社頭全景。 八幡神社参道左に隣接しており、社頭には鳥居手前に二社が祀られ、その先に社殿が建てられています。 鳥居の額には「多賀神社」と彫られています。 ![]() 拝殿から流造の本殿の眺め。 当社について尾張徇行記には記述がなく、祭神・創建等は不明。 社名から祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊かと思われます。 ![]() 本殿右側に一抱えほどの岩が安置されていました。 文字が刻まれているようですが読み取れなかった、山神だろうか。 ![]() 多賀神社境内から社頭の眺め。 多賀神社が八幡神社の境内社なのか、単独の神社か分からず、合わせて掲載しました。 鎮座地の小野浦は、古来より千石船による廻船業で栄え、小野浦の八幡神社の秋祭りでは、千石船の形をした2台の山車(町指定文化財)が曳かれたそうです。 江戸時代、小野浦出身で千石船「宝順丸」の船乗りだった音吉(山本音吉)、久吉、岩吉らは、遠州灘で難破し1年2か月漂流しアメリカに漂着した。 音吉(1817-1867)は海外生活の中で、聖書を日本語に翻訳したはじめての人物で、英国で帰化を許され生涯を異国で過ごした。 社頭南側には音吉、久吉、岩吉の三氏を讃える石碑や山本音吉像が建てられています。 第4回 歩いて巡拝知多四国 小野浦 八幡神社・多賀神社 創建 / 不明、元禄16年(1703)再建 祭神 / 大鷦鷯命、気長定姫命 境内社 / 津島社他 氏子域 / 小野浦 例祭 / 10月15日 所在地 / 知多郡美浜町小野浦福島2 参拝日 / 2025/04/19 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2025.05.22 16:07:41
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