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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
水神社・八大龍王社。
江南市曽本町幼川添地内を流れる五条川左岸沿いの堤に沿って尾北自然歩道が整備されています。 自然歩道脇に小さな社が祀られています。 ![]() 曽本町幼川添地内の尾北自然歩道から、上流を望む。 住宅地を流れる岩倉周辺の川相とは様相が異なり、周辺には今も田畑が残っている。 後で知ったことだが、この日は名古屋で気温が39℃を記録していたという。 直射日光は肌を刺すように痛く、スマホも熱中症にかかったかのようにまったく役に立たなかった。 それでも、川沿いを吹き抜ける風は、アスファルトに覆われた街中で室外機の排気熱が滞留する風とは違い、どこか心地よさすら感じられた。 ![]() 五条川左岸の自然歩道沿いから、下流を望む。 静かな川辺の自然歩道沿いには、「八大龍王」の白い奉納旗が風にはためいています。 ここが水神社・八大龍王社になります。 このあたりは、何年か前の10月ごろに久昌寺を訪れた際に歩いた場所で、堤沿いには曼殊沙華の小さな群落が点在しており、写真に収めたことがあります。 ![]() 水神社・八大龍王社境内全景。 一見すると個人宅の敷地に祀られた個人祭祀の神社のようにも見え、無断で立ち入ってよいものか、戸惑う佇まいです。 正面には石碑が置かれ、左側にひとつの社殿が祀られており、創建も新しいもののように見られますが、こちらの神社と久昌寺西側の龍神社は深い関わりがあるようです。 ![]() その由来を伝える八大龍王御由来。 『水神社・八大龍王社 尾張の国の曽木村を流れる幼川には、大昔から八大龍王の住むと伝えられてきましたが、誰もその姿を見た人はおりませんでした。 至徳(1384〜1387)という年号ですから、今から六百年以上も前のことです。小折村の久昌寺の前身である禅喜寺に、娘に化身して現れた八大龍王が、そのとき「私は幼川に住む八大龍王である」と言って三枚の龍の鱗を残し去り、大日照で困っていたお百姓たちに雨を降らせたといわれております。 その後、大和から小折村に移ってきた生駒家広という人は、とても信仰心が厚く、小折村に龍神社を建てると、ここ幼川沿いにも水神社を造り、こちらも八大龍王を祭ったと伝わっております。 それ以来、日照りのときにはこの両神社に雨乞いをすれば、必ず雨が降ったと、今日でも古老に信じられております。平成4年5月吉日』 この解説に依れば文永年間(1469~1486)に、当地に移り住んだ生駒氏が創建したとあり、当神社の前身は鎌倉時代まで遡るようです。 目の前を流れる五条川、その西岸1kmほどの場所に生駒氏の拠点となった小折城跡があります。 ![]() その西隣り「龍神社」では、社頭の前に雨壺池が現存しています。 そこには、「雨壺の水を手桶ですくい、曽本村の水神社に供え、五条川の水を持ち帰ると、龍が現れ雨を降らせた」と記されています。 八大龍王を祀る龍神社の社頭に湧き出る雨壺池と、曽本町の水神社が一体となって、八大龍王が地域の豊穣をもたらしていたというものです。 ![]() 玉垣に囲われた本殿域。 由来には「水神社・八大龍王社」とありますが、本殿はひとつ。 ![]() 社名札はなく、この社に二柱の神が祀られているのだろうか。 水神社は水を司る水神様の高龗神、罔象女命などが祀られます、一方の八大龍王は仏教から由来する水神様、このふたつの神がひとつの社に合祀される姿はあまり記憶がないかもしれない。 農業を営むものにとっては水は豊かな実りをもたらす上に必須。 昨今は当地に雨が全く降らない日が続いています、雨が降らなければ農家は死活問題だ、神にすがるしかない。 小さな家庭菜園ですらそれは実感します、この暑さと雨不足ではものは実らない。 この状況で米や野菜の生育がどうなるのか心配になってくる。 先日、矢作川を訪れましたが、心なしか水量は少ないようにもみえました。 そろそろ水の神々に程よい加減の雨をお願いしなければならなくなってきました。 補足。 当神社へは車で行けますが、細い路地の突き当りとなり、転回スペースがありません、1㌔ほど西の久昌寺公園に車は停めて歩く事を勧めます。 水神社・八大龍王社 創建 / 文永年間(1469~1486) 祭神 / 不明 所在地 / 江南市曽本町幼川添58 久昌寺公園駐車場から水神社徒歩ルート / 県道172号線を曽本二子交差点を右折、100㍍ほど先で右折した突き当り。 参拝日 2021/8/21 過去記事 ・嫩桂山久昌寺 ・「龍神社」江南市小折町八竜 ・江南市 生駒屋敷跡・小折城跡 ・「神明社」江南市田代町郷中 ・生駒家の氏神として祀られた「南山神明社」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2025.08.29 00:00:10
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