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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
2021年久昌寺取り壊しの話を聞きつけ、取り壊し前の姿を収めに江南市田代町郷中の現地を訪れました。
今回は、取り壊しを終え久昌寺公園となった現在の状況を掲載します。 ![]() 上は、2021年取り壊しの情報が伝わった際に撮影した当時の本堂の写真。 この時既に本堂の山号額は取り外され、濡縁や瓦の腐食が進み、堂内の本尊は移設された後で、既に無住の寺となっており、取り壊しの流れは致し方ない状況でした。 そんな状況でも、庭園だけは地元の方により当日も剪定されている光景が印象に残っています。 ![]() 現在の嫩桂山久昌寺跡の眺め。 大きな樹々が聳え、正面の本堂や右側の庫裏など、かつての伽藍は姿を消し、北側の家並みが見通せる、久昌寺公園に置き換わっていました。 ![]() 解説も内容を変え、新たに作り変えられ、以下の内容に改められていました。 嫩桂山久昌寺跡 『久昌寺は嫩桂山と号し、曹洞宗で大本山総持寺の直末です。 中興開基は、久菴桂昌大禅定尼(信長の側室)で、開山は雄山源英和尚(万松寺六世)です。 久昌寺の縁起によると、至徳元年(1384)禅喜寺を草創、途中、嘉慶元年(1387)寺号を慈雲山龍徳寺と改めています。 生駒氏が大和より移住したとき開営し、菩提寺としました。 三代家宗の代になり、その娘が織田信長の側室となり、 信忠、信雄、五徳(徳姫)を生みましたが、永禄9年 (1566)5月13日病没、この時から寺名が久昌寺に改められています。 三代家宗の娘は小折村新野(現在の田代墓地の南西)で荼毘に付され、久菴桂昌大禅定尼と号し、 この寺にまつられていました。 この寺に嫩(ふたば)の桂があり、 久しく冒えるという意味から、嫩桂山と名付けられたといわれています。 信長は、信雄に命じて香華料として五明村660石を付したといわれ、尾張名所図会のごとく寺廓の整った寺の様子がうかがえます。 令和4年(2022)に久昌寺本堂・庫裏は取り壊されましたが、本堂があった西側には墓地があり、生駒氏代々と一族、歴代住職の墓標が林立しています。 その他、略図のごとく生駒氏に関る人々の墓地があります。 令和5年7月』
『神明社本殿 江南市田代町郷中114番地 当地には、もと内宮と外宮があり、尾張徇行記には「此両社生駒家代々氏神、勧請の年歴は不伝、再建は慶長15年(1610)生駒因幡守利豊造営地也」とあって、これはそのうちの内宮にあたり、再建当時のものとみられます。
郷中神明社 創建 / 明応年間(1492-1500) 祭神 / 天照大神 境内社 / 覆屋内に不明社二社 氏子域 / 小折東町旭、小折本町小松原、小折本町栄、小折本町白山、小折本町柳橋、田代町郷中、田代町西ノ丸、田代町南出 例祭日 / 10月第2土曜日 所在地 / 江南市田代町郷中114 久昌寺公園から郷中神明社徒歩ルート / 公園前の路地向かい、約1分ほど 参拝日 2025/8/21
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Last updated
2025.09.20 17:14:44
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