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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
地下鉄名城線志賀本通駅2番出口から南1kmほどの名古屋市北区大杉3。
江戸時代の名僧豪潮律師(1749-1835)終焉の地とされ、この地に豪潮律師が葬られていた寺が鎮座したが明治初期に廃寺となっていた。 後の豪潮律師没後百五十年を期に建立されたのが寺号からもわかるように一願山不動院豪潮寺。 ![]() 豪潮寺参道前から本堂の眺め。 右に「一願山不動院」、左に「南無大日聖不動明王(1960健之)」の石標が立てられています。 左の奉納幟の影に隠れていますが、境内社の鳥居が立っています。 境内中ほどから本堂と鎮守社の眺め。左手の奥に五基の宝篋印塔がありますが、その中には相輪が欠けたものも見受けられます。 豪潮は当時の社会不安を取り除き、平和をもたらそうと、生涯に多くの宝篋印塔の建立を発願し、各地に建立しますが、終焉の地にもその思いは留められれています。 宝篋印塔の後方には、普光寺の金色の大佛が見えています。 ![]() 境内左側には堂と石仏が安置されています。 堂の左側に黒ずんだ不動尊像が安置されていますが、空襲により砕け散った像を住民の手により修復されたもので、「火伏せ不動」とも呼ばれています。 空襲により自らは焼かれ、バラバラになりながらも、不動像が見据えていた先の長屋だけは燃え残った事から、近隣では今も崇敬されている。 この像と相輪が欠けた宝篋印塔は、戦争の愚かさを伝える戦争遺構だ。 ![]() 参道入口の「豪潮覚海律師の終焉地」解説。 『豪潮覚海(1749-1835)、熊本の生まれで、幼少より仏門に入り、経典の会得など速く神童と呼ばれた。 十六才で比叡山に入り、一食一采で難行苦行し、学徳共に磨き、顕密二教の蘊奥を極めた。 その後、熊本に戻り貴賎を問わず法益を施し、広く名声を高めた。 尾張一〇代藩主 斉朝が重病の折、再三の懇請で来名、加持祈禱で全快したという。 豪潮は、詩書画にも秀で、無所得道人・八萬四千煩悩主人などと号した。 豪潮の没後150年にその偉徳を偲び、当豪潮寺が創建された。名古屋市教育委員会』 ![]() 「名古屋の史跡と文化財(1970)」には上記のように纏められていました。 ![]() 白壁に火灯窓が豪潮寺を印象付ける、現在の堂は解説からすると昭和60年頃のものだろうか。 ![]() 山号額。 本尊は大日大聖不動明王。 堂内には木像の一願不動尊像が安置されており、この像には以下のような伝説がある。 『明治の中ごろ、美濃の御嶽教の修験者であった清覚の夢の中に一願不動があらわれ、「私は今、古道具の中でがらくたに囲まれている。 私を道具屋から連れ出して、おまえのところに置きなさい」と言われた。 清覚は、翌日、さっそく古道具屋に行ってみると、夢の中で見た一願不動が店先にかざられている。 だいじに前津小林町の御嶽教の教会に一願不動を持ち帰り、祭ったという。』 当日は堂の扉は閉じられ内部は拝めなかった。 ![]() 鎮守社の飯縄白龍神。 ![]() 従来より境内に祀られていたが、平成9年(台座の寄進年)にここに遷されたようです。 由緒などの詳細はわからなかった。
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Last updated
2026.05.19 00:00:10
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