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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
前回掲載した天永山 遍照寺、そちらを後にして次の札所に向かいます。
![]() 次の札所は師崎港から船に乗り、目の前に浮かぶ日間賀島の三十七番札所 魚養山 大光院です。 ![]() 師崎から日間賀西港までは高速船で約15分ほど。 当日は風がなく、波も穏やかでデッキに出て潮風を受けながら短いクルージングを楽しめました。 ![]() 日間賀西港から知多半島の眺め。 右手の高層ビルあたりが上陸大師の立つ大井聖崎方面にあたります。 港から三十七番札所大光院は、島の南岸沿いに20分ほど東に進み、日間賀東港を目指します。 ![]() 堤防沿いから今回訪れるもう一つの島、篠島の眺め。 蛸や河豚で知られる日間賀ですが、以前は釣りで良く訪れ、宿の主人が素潜りで取ってくる蛸や伊勢海老に舌鼓をうったものですが、その当時から主人によれば年々獲れなくなったと嘆いていました。 漁期となる秋口になると、島内の至る所で蛸干しの光景が見られます。 これだけ穏やかだと、クーラーにビールを詰め込み、のんびり釣りでもしたくなる。 ![]() 日間賀東港を横目に、日間賀島唯一の信号を過ぎた先に写真の三十七番札所 魚養山 大光院通用口があります。 ![]() スロープを上った先の大光院境内全景。 お世辞にも広いとは言えない境内ですが、船で訪れる巡拝者で溢れています。 三十七番札所 魚養山 大光院についてガイドブックは以下のように纏めていました。 『真言宗豊山派 魚養山 大光院 大光院は神亀二年(七二五)、行基菩薩によって開創された医王寺の塔頭として建立されました。 その後兵火に遭い、建暦二年(一二一二)、一山七坊の一院として日間賀島に移転再建されます。 元禄四年(一六九一)に再興されましたが、昭和に入って無住の時代が続き、戦後はかなり荒廃しました。 昭和四十六年に住職が入って寺院の再興に尽力。 同五十年には島民、巡拝者の浄財や青年団の労働奉仕を受けて本堂の落慶に至っています。 別堂には金毘羅大権現をまつり、海上安全の守護神となっています。 また、日間賀島には三十以上の古墳群が発見されており、当院境内にも発掘済みの「大光院古墳」があります。』 ![]() 大師堂の額は「遍照」とある、寄進年は昭和巳卯とあり、同五十年の落慶時のものです。 ![]() 堂内の眺め。 左に弘法大師、中央に本尊の大日如来、不動明王、薬師如来と安置されています。 ![]() こころして わたればなみもしずかなり しまにさやけきだいこうのつき ![]() さて次は、門前から右手の漁師町らしい細い路地を抜け日間賀東港に向かいます。 ![]() その途中で見かけた鯖弘法大師霊場。 四国直伝弘法八十八ヶ所 第48番札所呑海院の弘法堂が単独になったもので無住の堂です。 名のとおり、右手に鯖を握りしめた弘法大師が安置されています。 石標右の石祠にも鯖を握りしめた弘法大師像が安置されています。 鯖弘法の由来について幾つかの伝承が伝わります。 「ある僧が修行の途中、塩鯖を運ぶ馬子に鯖を乞うたが、その願いを馬子は拒否し嘲り去ろうとした。 僧が呪文を唱えると馬が苦しみ始め、馬子が謝って鯖を与えると再び呪文を唱え、馬はもとに戻った。」 その僧が弘法大師だったと伝わり、一説には行基だとするものもある。 最近は身近で托鉢をする僧侶と出逢うことは少なくなったが、慈悲の心は自身の徳を積むことでもある。 巷には偽装警官やニセモノが氾濫する現代、なにが真で、なにが偽なのか分からなくなってきているが、修行僧の托鉢すら疑うようになっては世知辛い世の中だと感じてしまう。 ![]() タイミングよく日間賀東港に高速船が着岸した、目の前に浮かぶ篠島まで10分ほど。 第十五回 歩いて巡拝 知多四国 三十七番札所 魚養山 大光院 宗派 / 真言宗豊山派 本尊 / 大日如来 創建 / 神亀二年(725) 開山 / 弘法大師 開基 / 行基菩薩 札所 / 知多四国 三十七番札所 境内社 / --- 所在地 / 知多郡南知多町大字日間賀島字小戸地59 師崎漁協から遍照寺 / 師崎港から日間賀西港へ、港から島南岸の道路を東進1.5km・約20分。 参拝日 / 2026/04/18 関連記事 ・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十番札所 宝珠山 医王寺
・第十五回 歩いて巡拝 知多四国 三十六番札所 天永山 遍照寺 過去記事 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2026.06.07 00:00:10
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