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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
名古屋から近鉄とJRを乗り継ぎ1時間15分ほど、三重県津市一身田町地内の高田山 専修寺を訪れてきました。
![]() 津駅からJR紀勢本線で専修寺の最寄り駅一身田駅に降りたつ。 座れて良かったと安堵したが、たった一駅でしかも無人駅。 駅舎の西側は長閑な景色が広がり、駅舎の外観と相まって味のある駅です。 ![]() 駅舎付近で見かけた一身田寺内町マップ。 駅の西側には旧伊勢別街道が伸びており、「いせみち」「参宮道」「山田道」などと呼ばれる。 関宿東追分から津市芸濃町、津市一身田を経て、伊勢街道に合流する江戸橋までの総距離およそ18kmの街道です。 政治の中心が大和にあった頃、大和から伊賀を通り伊勢に至る主要ルートで幾つかの宿場町があり、江戸時代には京都方面からの参宮客で賑わったという。 ![]() 一身田駅から東に300mほど進むと、左手に檜皮葺でシックな色合いの唐門が現れます。 ![]() 唐門(重要文化財)。 如来堂の正面に建つ門で、文化6年(1809)に木挽きが始まり、文政10年(1820)に地築き、天保15年(1844)に棟上げをしている。 屋根は檜皮葺で、正面と背面の軒に大きな唐破風があることから唐門と呼ばれる。 控柱4本が腰長押から下で、斜め外に踏みだした形になっているのは注目される。 材料はすべて檜造りで、厳しく吟味された良材が用いられ、細部まで入念な仕事が施されています。 腰長押と飛貫との間、扉、その脇の小壁、欄間には勢いのある菊、ぼたんの透かし彫が彫られ、他の部分にも親子の獅子や力士の彫刻がされるなど、華麗で複雑な構造をした門である。 造営時に配られたと思われる木版刷りの立面図が残っていて、それによると始めは檜皮葺と本瓦葺の2案が考えられていたらしい。 大工の棟梁は近江国八幡(滋賀県近江八幡市)の高木作右衛門光規、同光一の2代で、光規は如来堂を建立した人物の孫にあたる。 ![]() 唐門正面から如来堂の眺め。 ![]() 唐門から東へ約80m進むと、入母屋瓦葺の二層の山門が建っています。 高田山専修寺の総門に当たる重厚な門で、この門の南側には石畳の参道が伸びています。 ![]() 専修寺山門(重要文化財)。 御影堂の正面にあり、専修寺の総門にあたる。 すぐ前には、道をへだてて石畳が伸び、その途中にある石畳や釘貫門、左右にある玉保院、智恵光院、さらに古い町並と一体になって、本山の門前にふさわしい雰囲気をつくっている。 2階建て、間口20m、奥行9m、高さ15.5mの大きな門である。 正面の柱間は5間で、そのうち中の3間に扉を付けて入口とし、2階内部には釈迦三尊像を安置している。 下層の組物は大仏様の形式をとり、挿肘木という肘木が斗にのらず直接柱に挿し込まれる形になっている。 全体の形式と組物の用い方は京都の東福寺三門(国宝)、応永12年建立(1405)とよく似ており、参考にしたと思われるが、裏側で3間分だけ屋根が張り出す裏向拝は他に例をみない珍しい手法である。 瓦の刻銘その他の史料によると、元禄6年(1693)ごろから建築にとりかかり、宝永元年(1704)頃に完成したものと思われる。 柱などの部材の傷みや傾きが激しくなったため、平成5年より3年がかりで大規模な修理が行われた。 ![]() 大きな山号額さえ小さく見えるほどの威厳ある山門。 ![]() 山門から眺める御影堂(右)と如来堂。 ![]() 高田山 専修寺の伽藍配置。 広い境内、まずは真宗を開いた親鸞聖人を祀る御影堂に向かいます。 ![]() 境内から銅燈籠と山門、手水舎、唐門の眺め。 ![]() 銅燈籠(津市指定有形文化財) 江戸時代。 この銅燈籠は、辻越後守陳種の代表的な作品で、笠には8個の蕨(わらび)手がのびやかにつけられ、笠の上には火焔の付いた宝珠がのせられています。 基礎と中台は側面を8つに分けていて、基礎には唐獅子が浮彫りされ、全体に釣り合いのとれた、どっしりとした重厚な風格を感じさせる燈籠です。 どちらも飯高郡名残町(松阪市新松ヶ島町)の小嶋角兵衛慶次等が3人の33回忌供養のために寄進したもので、この3人の供養が終った後の寛文11年(1671)と延宝7年(1679)に造られたものと考えられます。 専修寺ではこの年の9月、御影堂の再建落慶法要をとり行っています。 作者の辻氏は釜屋町に住んでいた鋳物師で、このほかにも津市内の寺院の梵鐘や銅燈籠など多くのすぐれた作品を残しています。 専修寺には、辻越後守陳種の先代の辻越守重種とその一族氏種が鋳造した銅鐘(市指定文化財)が鐘楼(重要文化財)にあります。 ![]() 山門正面に鎮座する入母屋瓦葺の御影堂。 ![]() 右側から眺める破風の意匠。 ![]() 三間の大きな向拝。 屋根を支える部分(尾垂木)の先端には龍・獅・麒麟・象の彫刻が施され、蛙股に中国の故事にちなんだ人物の彫刻が見られ、細部に手の込んだ意匠が施されている。 ![]() 御影堂(国宝)江戸時代。 専修寺伽藍の中心にある建物で、真宗高田派の開祖親鸞聖人の坐像と歴代住持の画像(これらの像のことを御影と呼ぶ)を安置しているので御影堂といわれる。 正保2年(1645)の大火ののち、津藩2代藩主藤堂高次から土地の寄進を得て、境内地がそれまでの3倍の約3万坪に拡がった。 その境内地の中央に万治2年(1659)から建設が始められ、寛文6年(1666)に完成した。 間口約42m、奥行約33mという大建築で、近世以前の国宝指定仏堂のなかで全国5番目の大きさを誇る。 屋根瓦は約19万枚使われ、中の畳も内陣の板の間をのぞいて729畳も敷かれている。 外観は和様という日本的で重厚な建築様式になっているが、内部は金欄巻きの柱、極彩色の天井、欄間の牡丹の彫刻など豪快さが目立つ。 本体と向拝をつなぐ虹梁上の構造が長野の善光寺本堂などと同じ構造なのも特徴の1つである。 大工の主棟梁は江戸坂本三左衛門であったと伝えられているが、この人物は江戸幕府の御用大工だったらしく、藤堂藩を介して専修寺御影堂の建設に加わったと思われる。 また脇棟梁のひとり森万右衛門は一身田の人で、その後幕府作事方の一員として活躍したことも知られている。 ![]() 御影堂の内部に入り、まず目を引くのは欄間に施された彫飾りの数々。 堂内は手前から奥に向かって長細い鞘の間、大間、中陣、内陣にわかれ、鞘の間と大間の境目の欄間には鳥や花、想像上の動物など様々な彫り物が施されています。 写真は欄間を左から順に並べています。 ![]() 中央の大きな欄間三枚には、それぞれ、想像上の動物が描かれています。 上から麒麟、龍、鳳凰が細かく彫られ色鮮やかに彩色されています。 ![]() その右側の欄間の意匠。 上は孔雀に雉だろうか、下のふたつは右が鷹のように見えるが左は良く分からない。 ![]() 大間から中陣の眺め。 天井から梁・柱・欄間など全面に文様や彩色が施され、黄金色の欄間や柱など実に荘厳な眺めです。 内陣の空殿に安置されているのが真宗を開いた親鸞聖人の坐像。 金色に輝く勅額の「見真」は明治天皇から宗祖・親鸞聖人に贈られた「大師号」。 ![]() 如来堂(国宝)と通天橋(重要文化財)。 通天橋は御影堂と如来堂を結び、切妻瓦葺の長さ31.9mの廊下です。 棟札から、寛政12年(1800)に上棟され、大工棟梁は名古屋の伊藤平左衛門吉俊であったことがわかります。 また、破風の鶴の彫刻には墨書があり、寛政10年(1798)の銘があります。 瓦の銘書には享和元年(1801)の年号があり、この頃に竣工したと考えられます。 ![]() 上は如来堂から通天橋の眺め。 下は通天橋の屋根を支える柱、この一本だけ接手が施されていたので写真に収めました。 竣工後の補修の過程で施されたと思われますが、それがいつなのか定かではない。 ![]() 如来堂の妻壁には左甚五郎作と伝えられる鶴の彫物が取り付けられています。 ![]() 専修寺如来堂(国宝)江戸時代 。 御影堂の西にならぶ建物で、堂内中央に「証拠の如来」と呼ばれる専修寺の本尊阿弥陀如来立像(国指定重要文化財)が安置されています。 「如来堂御建立録」によると、享保4年(1719)に建設が始まり、資金不足のために工事には30年近くを要し、寛延元年(1748)に落慶遷仏の行事が行われた。 東南隅の礎石に「寛保三年(1743)七月十二日」「本覚道元信士 俗名勘六」という刻銘があり、勘六という老人が工事の成功を祈願して人柱になったという伝説が残る。 屋根は2重になっていますが、2階部分はなく、下の屋根は裳階といって庇のような役目をしています。 全体は禅宗様式で、組物が複雑で彫刻も多く、華麗な印象を受ける建物です。 ![]() 上は内陣の眺め。 欄間の上には煌びやかな笙、太鼓、琴などの雅楽器の彫刻が施されています。 極楽浄土ではその音を聞く者は皆、三宝(仏・法・僧)を敬う心を起こすとされ、全てが美しく調和する浄土世界を表現したものという。 下はご本尊の阿弥陀如来像を納めている金色の宮殿。 彫刻や金箔で華麗に装飾され、扉には元文六年(一七四一)に京都で制作されたと記されているという。 ![]() 本尊の阿弥陀如来像(証拠の如来)。 かつて比叡山延暦寺は真宗の教えに対し、高田派に疑義を抱いた時代があったといわれています。 高田派第10世、真慧上人はその疑義を解くべく、比叡山延暦寺の学僧に対し教えを詳しく伝えた結果、延暦寺はその教えが真宗正統であると認め、証として阿弥陀如来像を専修寺に贈られたそうです。 そのことから尊像は「証拠の如来」と呼ばれ一身田本山専修寺の本尊となっている。 製作年代は、鎌倉時代中期、13世紀後半頃とされ、衣全体に繊細な切金文様が施され、慶派仏師・快慶の様式を伝えるもので、足裏に仏足文を表し、手足の指の爪や蓮華座の蕊に金属を用い、本体を銅柱で台座に固定するなど特色ある造法のもの。
御廟拝堂・御廟唐門及び透塀(重要文化財)江戸時代。 正面の御廟唐門から御廟拝堂、石橋と続き、その奥に親鸞の墓「御廟」があり、それをとり囲むように専修寺歴代住持の墓が配置されています。 御廟唐門は文久元年(1861)の建築で、屋根は檜皮葺、長押や柱の間や扉などは工芸品のように美しく隙々まで彫刻で埋め尽くされています。 左右に連なる透塀も同時に造られたもので、腰廻りにスイセン、ハス、タンポポなどの草花の彫刻が付けられています。 御廟拝堂は江戸後期の銘文で安政5年(1858)の建築と考えられ、屋根の4面に千鳥破風を付け、正面軒に唐破風を付けています。 内部の床は瓦の接ぎ目を斜めにした、いわゆる四半敷で敷かれています。 親鸞の墓「御廟」は寛文12年(1672)、専修寺に伝えられていた親鸞聖人の遺骨5粒を埋めて造られたものです。 ![]() 御廟唐門と透塀。 ![]() 御廟拝堂。 入母屋瓦葺で前後に千鳥破風が付き、正面に唐破風が付くもの。 ![]() 拝堂正面全景。 ![]() 拝堂正面や唐破風向拝の意匠も手が込んだもの。 ![]() 上は拝堂内部から御廟の眺めと御廟の全景、親鸞聖人のお墓になります。 右手の切石が積まれ、石柵と石門で囲われた中に、四角形の石が置かれているだけで墓標もない。 古目録に、寛文12年(1672)この墓を造営し、遺骨の一部を埋納したことが記されているという。 拝堂の右奥に雲幽園や安楽庵がありますが、当日は立ち入り禁止だったので、ここから再び御影堂に戻り、境内右側の伽藍を見てまわります。 ![]() 専修寺鐘楼(重要文化財)江戸時代。 一般的な鐘楼建築と同様に1間四方で、入母屋造の屋根をのせている。 4隅の柱は、先を内側に倒した四方転びという形式である。 その間には、八角形の柱が2本ずつ入れられている。 肘木の先を大仏様風にするなど、全体的に奈良東大寺鐘楼に似たイメージを与える。 平成5〜7年に行われた大修理において、鬼瓦から正徳元年(1711)の刻銘が発見されたので、そのころに再建されたものと思われる。 江戸時代中期の大型の鐘楼として質も高く、貴重な建物である。 銅鐘(津市有形文化財)江戸時代。 専修寺第15世専朝の夫人高松院が専朝の7回忌を迎えるにあたって、慶安5年(1652)に辻雄佐守重種と一族の氏種に鋳造させたものである。 高松院は初代津藩主藤堂高虎の長女である。 堯朝は江戸幕府より専修寺に伝わる親鸞自筆の文書を将軍家へ献上せよと、働きかけがあったことに対して抵抗したと言われており、正保3年(1646)江戸で切腹している。 その時堯朝は32歳の若さであった。 作者の辻氏は津の釜師町に住んでいた鋳物師で、この地方にすぐれた作品を数多く残している。 鐘には慶安5年の銘文がある。 ![]() 大玄関・対面所(重要文化財)江戸時代。 御影堂の北東にあたる対面所・大玄関をはじめとする建物は、天明3年(1783)の火災で焼失しており、対面所は天明5年(1785)に再建されました。 桁行24.5m、梁間19.5m、入母屋造本瓦葺の建物で、召見殿とも呼ばれます。 本山寺院にふさわしい規模と品格を備えた建築で、3室5列の15間と、その周囲を廻る入側縁をもつ間取りは壮大です。 大玄関は対面所から少し遅れて寛政2年(1790)に再建されたと伝えられています。 再建当初は対面所の東に位置し、正面を東にして建てられていましたが、明治11年(1878)に現在の位置に移築され、その際に正面を南向きに変更されました。 ![]() 大玄関・対面所の右側に建つ食堂、ここから奥に進むと宝物館 燈炬殿に至ります。 ![]() 食堂の右の太鼓門、この門から東側が境外になります。 平屋建ての長屋門の上に三層の櫓をのせ、最上階に大太鼓が吊られている事から「太鼓門」と呼ばれています。 専修寺の外周は環濠が廻らされていますが、東側の濠は太鼓門より更に東に見られ、かつての寺領はかなり広大だったことが伺えます。 ![]() 参拝を終え山門から境内を後にします。 山門の先には石畳が伸び、その左右に玉保院、智恵光院が鎮座し、その先の釘貫門が境内と門前町を区切っています。 三重の国宝二堂を訪ねて 一身田寺内町と高田山 専修寺 宗派 / 真宗高田派 本山 創建 / 文明年間(1469~1487) 開山 / 真慧 本尊 / 阿弥陀如来(証拠の如来) 所在地 / 三重県津市一身田町2819 参拝日 / 2026/07/13 専修寺公式HP お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2026.08.08 00:00:08
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