|
カテゴリ:神社仏閣・御朱印
木本神社から北に向かい、笛吹橋を越えると熊野古道松本峠に向かう登り口があります。
![]() 大泊から熊野古道松本峠を越え、峠の西麓に位置する木本集落に辿り着く。 砂礫を敷き詰めた平坦な七里御浜が現れ、花の窟を経て熊野大神が降臨したとされる神倉山に向け延々と続いています。 写真は木本集落北端に位置する松本峠登り口で、ここから先は樹々に包まれた登り坂が続きます。 進んでみたい気持ちはあったが、この日は花火鑑賞が目的。 汗だくにはなりたくないうえ、入口付近には「熊注意」の貼り紙まであり、潔く諦めた。 ![]() 登り口から左の市街地に向かう道すがら、写真の鳥居が目に止まり立ち寄ってみた。 ![]() 山の西斜面に立てられた石鳥居があり、境内に続く石段脇には解説板も立てられている。 ![]() 境内に続く石段からの眺め。 参道脇には古い梅の樹もあり、鳥居の前の境内の奥行きに余裕はないようだ。 参道の右上に長方形の石の水槽らしきものが見えています。 ![]() 神社解説板かと思っていたが、これは境内にある水槽石の解説だった。 「熊野市指定文化財 有形民俗文化財 宝暦の水槽石(四基) 新田天神社 新田天神社手洗水船として使用されている水槽石は、もともと西川町の元八百屋の隣に据えられており、住民の飲料水を確保する水槽であった。 作成 寛政十一年(1799)正月、石工 玉助 長さ 3.39m、幅1.22m、高さ1.13m 木本浦は海辺にあることから、地中が砂礫層に覆われ井戸を掘ることが困難で、人々は谷川まで水を汲みに往復しなければならず、水の便が悪い土地であった。 正徳二年(1712)、濱地太右衛門は、永年の水不足に耐えかね、切立奥の谷郷の水源地から木本浦に水を引く工事を起こした。 松の木を縦に割り、中をくりぬき、再び合わせ、地中に埋めて水を引き、木製の水槽に水を溜め、飲料水の確保に努めた。 宝暦年間(1751〜1764)に、この地方では、最も堅牢な岩質(花岡斑岩)として知られる曽根石の大きな一枚岩をくりぬいた水槽を全四基が作られた。 その後も水槽石は場所を変えながらも現に残り、活用されている。 昔の水の不便な生活の苦労を偲ぶ貴重な民俗資料である。 他の三基は次の通り。 1.木本神社 宝暦七年作 2.新出町稲荷神社 宝暦9年作 3.天理教紀大教会 宝暦9年作」 熊野市史には「天保の旱魃の際は水一荷(60liter)を200文で販売した記録」も残るという。 江戸時代の物価で考えると蕎麦が約20文、酒だと一合4文に相当したとされる。 今時、水1literはコンビニで160円とすると、1万近い金額になる。 温暖化で水源に雪は積もらず、各地の水がめが底をつき、取水制限が行われ、作物に与える水に苦慮する報道が流れる。 都市では局地的な豪雨が発生しても、その多くは十分に活用されることなく海へ流れていく。 そう考えると、これからは都市部での雨水貯留についても考える必要がありそうだ。 捻れば出てくる水も大切な資源と捉え、一人一人が節水を心がける時代が訪れている。 ![]() これが水槽石。 小さな子供なら水遊びが出来るほどの大きさで、側面には二箇所穴があけられています。 もともと八百屋の横にあったとか、この時期ならスイカも冷やされていたのかもしれない。 側面に開けられた穴は、水槽からあふれる前に別の水槽や水路へ水を分けるためのものだろうか。 水事情の悪いこの地だけに、一滴たりとも無駄にはしなかっただろう。 側面には寛政十一年、石工 玉助の銘も読み取れ、江戸時代中期には既に簡易水道のような仕組みが整えられていたことになる。 木本神社の長い手水鉢も、そうした目的から作られた水槽石で市内に置かれていたのだろう。 水事情が改善され、本来の目的を終えた水槽石も、神社の手水鉢として新たな役割を担っている。 用が無くなれば捨てる現代において、先人達の思いを今に伝えている。 これは江戸時代の人々が築いた、町の小さなダムだったのかもしれない。
「言い伝えによると、昔当地に狸が住んでいて、よく漁師について困るからそのために天満宮を祀ったといわれている。
松葉山天満宮 創建 / 宝暦年間(1751〜1764) 祭神 / 菅原道真 例祭日 / 7月24日 所在地 / 三重県熊野市木本町1584 参拝日 / 2026/8/17 関連記事 ・ 2026熊野大花火 ・ 木本神社 過去記事 ・「花の窟(はなのいわや)神社」三重県熊野市
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2026.09.18 21:08:52
コメント(0) | コメントを書く |