2012/05/17(木)22:00
母の日に・・・
普段の私の記事を読む限り、仲の良い母子しか見えてこないと思いますが
今日はそうでもない部分を書いてみたりします。
母32歳。
待望の第一子の私です。
今ではそれほど遅い子持ちではない・・・
っつ~か今は普通の年頃ですが、母の世代だと
30歳までに自然妊娠のない場合は子どもをあきらめることも多かったようで。
母も諦めていたそうで、体調の変化にも気づかずスキーなんか行って
ハデに転びまくっていたころ
私は腹の中にいたのでした。
きっと可愛い第一子だったのでしょうねぇ。
自分が母親になってよくわかります。
私は26歳でお母さんになりましたが、その前に流産したり、
娘も息子も「切迫流産」の末に生まれた子だったりするので。
なんだかよくわからない育てられ方をしました。
知らない間にピアノを習っていたりお習字を習っていたり
体操教室やお絵かき教室にも通っていました。
母は、私がやりたいと言ったから、というけど10歳までの記憶なんてこっちはないからなぁ。
始めたが最後、やめさせてくれないんですね、母。
もういい加減やめたいのに
「アンタはほんとに飽きっぽいわね!!」
とよく言われました。
でも、言い訳します。
ピアノは幼稚園から中学3年まで、お習字は幼稚園から高校2年まで
続けていました。
やめたいと何度か伝えたんだけど「飽きっぽい!!」と叱られて・・・。
やりたいことはなんでもさせてくれる、ように
周囲からはみられてましたが
案外そうでもなく。
私は近所の鼓笛隊に入りたかったのに「だめ」
そろばん塾に行きたかったのに「だめ」
中学では吹奏楽部に入りたかったのに「だめ」
なぜかバレー部に入ってました。
「アンタ、バレー部に入りなさい」って言われて~~。
もともとやりたいわけでもなかったバレー部だし
入学してすぐに盲腸で休んだりして、新入部員から1か月休んだもんだから
居づらくなって5月にはやめたよーな。。。
やめて「吹奏楽に入りたい」と言ったけどやっぱりダメでした。
親の許可がないと「部費」を払って貰えないからねぇ。
高校に入れば今度はバイトはダメでした。
バイトなら、「私のところに一緒に来なさい」ってなモンで
遠い品川くんだりまで行ってオバチャンたちと「工場制手工業」なアルバイト。
マクドナルドでバイトしたらすごく怒られました、水商売って。。。
でも、弁当屋なら良かったというのも謎。
母はしょっちゅう飲みに行くのに、私が仕事帰りに飲んでくるととても怒りました。
でも、その行先が、母の行くお店だと怒られません。
読んでるとわかると思いますが、きっとすごく心配で
手元に、自分の近くに、
私を置いておきたかったのでしょうね。
就職して1年後に一人暮らししたいと言いましたが
「じゃ、だれがこの家の家事をしてくれるの?」って・・・
今思うと私もそんなことは知らないと言って出てしまえばよかったものを
「それもそーだ」と仕事と家事の両立をしたんですね、実家で・・・。
一人暮らしの方がよっぽどラクだったろうに、私。
平日は夕飯作って休みの日は掃除洗濯。
せっかく実家暮らしなのにもったいない日々でしたよ~。
家事は嫌いじゃないけどね。
幼稚園の頃、母の日に「お母さん」とやらいう歌を歌いました。
「お母さんっていい匂い♪」
洗濯の匂いとかお料理の匂いだというような歌詞でしたが
母は「タバコの匂い」でした。
「母の匂い」という記憶はあり、それがタバコの匂いと知ったのは大人になってからでした。
今はその臭い、鼻元をかすめるだけで吐き気までもよおすのですが。
短気だし怒りっぽくて人の好き嫌いが激しくて
「江戸っ子」気質です。
戦中派の強さなんですね、きっと。
そういう「鎧」を付けていなければ、あの時代を生き抜くことはできなかったんだと思います。
今、認知症が穏やかに進んでいく中で
鎧を脱いできています。
ホントの母はこういう人だったのかなぁ。
認知症になると人が変わったように気性の激しくなる人がいると聞きますが
人が変わったように大人しくなりました。
昨日もいい子に(?)みんなと体操なんかしてたしね。
母&息子と母&娘は同じ母子でもちょっと関係がちがうかもなぁ。
第一子と末っ子というのも違うけど。
私は「子育て」に関して母とは真逆にしていました。
娘にも息子にもしたいことをさせて好き勝手にやらせたつもりだけど
本人たちはどう思っているかな。
「おかあさん」って韓国語では「オモニ」って言うのよ。
「重荷」なんだねぇ・・・。