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      中国部分見聞録

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楊貴妃の話

楊貴妃(ようきひ、開元17年(719年) - 至徳元年6月16日(756年7月15日))は中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。

蜀出身。あまりにも玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたので傾国の美女と呼ばれる。

楊貴妃は元々玄宗の息子の妃の一人であったが、玄宗に見初められたために、一時的に道士となり、その後で、玄宗の後宮に入った。

玄宗は楊貴妃との愛欲の生活に溺れたため、まったく政治を顧みなくなり、楊貴妃の従兄の楊国忠の専横を許すこととなった。中国史では伝統的な、外戚の専横である。

楊国忠は自らの名声を高めるため、遠征を行うなどの悪政を行ったために国力を弱め、民衆からの恨みを買うこととなった。

さらに楊国忠は権力争いのライバルである節度使の安禄山を蹴落とすために玄宗に讒言を行った。結果的に、これに危機感を覚えた安禄山は反乱を起こした。

首都である長安から逃げ出して蜀へ向った楊貴妃たちだが、兵士達は乱の原因となった楊国忠を強く恨んでいたため、彼の部隊を包囲して殺害した。さらに兵士達は、玄宗に対して楊貴妃を殺害することを要求したため、玄宗はやむなく楊貴妃を縊死(首吊り)させた。

乱終結後、白居易は楊貴妃の傾国の美貌によって唐が勢力を失った事を嘆き、「長恨歌」を作った。
楊貴妃


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