358385 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

なかちゃん@那覇の日々のくすりばこ

最強チームの系譜

さて、バレーボールの世界では、3大大会と呼ばれている大会があります。それは①オリンピック、②世界選手権(①の2年後に実施)、③ワールドカップ(①の前年に開催)です。いずれも4年ごとに開催されています。オリンピックはいうまでもなく、世界選手権は参加国が最大であること、ワールドカップはオリンピックの出場権がかかった大会であることからこう呼ばれます。この3大大会をすべて制した国というのは、実は数えるほどしかありません。男子のロシア(旧ソ連)・ブラジル・アメリカ、女子のロシア(旧ソ連)・日本・中国・キューバの7ヶ国しかありません。しかしながら、この①~③を立て続けに制覇した国となると、男子ではロシア(旧ソ連)とアメリカ、女子は日本・中国・キューバの5ヶ国になってしまいます。ブラジル男子は来年のアテネ五輪に、3大大会連覇の王手をかけています。この5チームの共通点は、いずれのチームにも「世界№1」といわれる選手が複数存在していたこと、そして素晴らしい采配を行った「名監督」がいたことです。ここでは、この5チームを時代毎に追いかけ、最強チームの伝説をまとめてみたいと思っています。

①初の世界3冠達成!日本女子チーム(’74世界選手権、’76モントリオール五輪、’77ワールドカップ)
 世界のバレー界で最初の3大大会制覇を達成したのは、全日本女子チームだった。ミュンヘン五輪の後、一線級の衰えが著しく世代交代に失敗したソ連(当時)に対し、日本は日立・山田重雄監督の下、キャプテンに世界№1のセンタープレーヤー・飯田高子を据え、大型で攻撃的なチームを作ることに成功した。そして1974年、メキシコ・グアダラハラで行われた世界選手権に臨んだ。当時のレギュラーメンバーは、レフトに白井貴子-前田悦智子、センターに飯田と若手の矢野広美、ライトに日立のキャプテン・岡本真理子、そしてセッターには世界№1のセッターの呼び声が高かった松田紀子を据えていた。しかし大会直前に松田が右足首を骨折するという大アクシデントに見舞われてしまう。ところが、ピンチヒッターで起用された金坂克子が、松田に勝るとも劣らない素晴らしいトスワークを見せ、失セットがわずかに3という圧倒的強さを見せた。特に決勝で対戦したソ連にはストレート勝ち、試合時間わずか1時間足らずで勝利した。この大会では飯田がMVPに選ばれた。また、この大会の活躍で、白井と前田は名実ともに世界№1のエースアタッカーコンビと評されるようになった。五輪までの2年間、山田監督はソ連の全選手のスパイクとサーブのコースを克明にデータに残した。数万枚に及ぶデータを解析し、控え選手にソ連選手のプレーを覚えさせ、レギュラーチームと練習試合を行う徹底ぶりを見せた。そして迎えたモントリオール五輪本番。世界選手権を棒にふった松田も見事に復活した。この大会のレギュラーは、レフトに白井-岡本、センターに矢野-前田、セッター松田にライトは高柳昌子(現・アメリカ女子監督・吉田敏明氏夫人)で、控えに飯田がいるという豪華メンバーだった。前田のセンターへのコンバートには正直驚かされた。しかしそれは、国内№1の打点の高さを誇る前田の攻撃を最大限に生かす作戦だった。この大会で日本が見せた新戦法のハイライトは、白井の「ひかり攻撃」と前田の「稲妻おろし」だった。ひかりの由来は「超特急」。セッター松田が、9mのネット幅をいっぱいに使って、Bクイック並みの速いトスを白井に送り、それを彼女が打ちこなすというプレー。稲妻おろしは、高打点からの超鋭角スパイクの様から名づけられた。これらの武器を切り札に、本番では失セット0という圧倒的な強さを発揮。決勝のソ連戦では、第3セット、なんと15-2というスコアで、宿敵をこてんぱんにやっつけてしまった。翌年、日本開催のワールドカップでは、五輪メンバーから飯田・岡本が抜けたものの、白井・前田・松田の3人が世界トップの妙技を見せ、見事初の3冠達成を成し遂げる。ただ、日本が国際舞台で金メダルに輝いたのは、この’77ワールドカップが最後になっている。

②男子初の3大大会制覇&5冠達成!ソ連男子チーム(’77&’81ワールドカップ、’78&’82世界選手権、’80モスクワ五輪)
 男子バレーの一時代を築いたソ連男子チーム。現時点でもこのチームは「史上最強」の呼び声高いチームだ。名将・ビャチェスラフ・プラトーノフ監督が手塩にかけて育て上げた世界№1センター、アレクサンドル・サービンと世界男子バレー史上最高のセッターといわれるウラジミール・ザイチェフが車の両輪だった。このコンビで繰り広げられる長いBクイックは絶品だった。しかし、彼ら二人を取り巻く選手たちも個性派揃いだった。ソ連男子の伝統、高さとパワーを受け継ぐエースアタッカー・セリバノフとチェルニショフ。クールな甘いマスクに素晴らしい技術も兼ね備えたオールラウンドプレーヤー・ドロホフ。ソ連きってのシャープなテクニシャン・モリボガ。サービンとセンター対角を形成したイエルミロフとロオルも高さ・スピードに長けていた。そして若さと高さ・パワーを兼ね備え、サービンとともに2mトリオを形成したパンチェンコ、シュクリーヒン。まさに名人芸といっていいザイチェフの素晴らしいトスワークに乗って、高さ・スピード・パワーすべてを兼ね備えていた。チームそのものが、まさに精密機械のような素晴らしい存在だった。このメンバーで、1977年のワールドカップから1982年の世界選手権(アルゼンチン)まで、世界大会5連覇を成し遂げた。ロサンゼルス五輪も出場していれば、間違いなく金メダルを獲得していたはずであった。しかし、政治の荒波にもまれ、ロサンゼルス五輪をボイコット。この大会ではアメリカが優勝した。ソ連の歯車は、ここから徐々に狂い出していった。

③鉄のハンマー、世界を席捲!中国女子チーム(’81&’85ワールドカップ、’82&’86世界選手権、’84ロサンゼルス五輪)
 1980年のモスクワ五輪ではソ連が優勝した。しかしその時は、当時世界の女子バレーの3強といわれた日本・中国・アメリカがボイコットしたため、翌年のワールドカップが、事実上の世界№1決定戦といわれた。その大会で並みいる強豪チームを抑え、初の世界一に輝いたのが中国チームであった。いまや国家体育相にまで登りつめた袁偉民氏を監督にしたこのチーム。もともと欧米諸国並みの高さは兼ね備えていた。しかし攻撃面でのパワー不足が響き、なかなか世界の上位に上がれなかった。その中国に、まさに「救世主」が現われた。「鉄のハンマー」と称されたエースアタッカー・郎平である。既に世界№1セッターといわれていたキャプテンの孫晋芳に、まさに強力な味方が加わった。この2人を中心に、レフトには中国きってのテクニシャン・張蓉芳。「天安門ブロック」で知られたセンターには、美人の誉れ高かった周暁蘭とジャンプ力抜群の陳亜諒、ライトにオールラウンダー・陳招悌。これに長年中国バレーを牽引した大ベテラン・曹慧英が控えという豪華メンバー。そんな中で、郎平の強打はまさに「男子並み」の高さと破壊力を誇った。なにしろ、184センチの長身に加え、ジャンプ時の最高到達点がなんと336センチ!しかもここぞというところで必ず決めていく精神力の強さも抜群だった。郎平という「飛び道具」を得た中国は、前記のメンバーで1981年のワールドカップと1982年の世界選手権(ペルー)を制した。その後、孫晋芳の引退により張蓉芳がキャプテンとなった新中国チームは、新セッターに楊錫蘭を起用した。さらに世代交代(センター梁艶とライト鄭美珠の加入)をスムーズに進めた中国は、五輪前年のアジア選手権で日本に敗れたものの、翌年のロサンゼルス五輪では準決勝で日本を下し、決勝では予選リーグで敗れたアメリカに圧勝、女子では2ヶ国目の3冠達成を成し遂げた。その後張蓉芳が引退したものの、郎平がキャプテンになった翌年のワールドカップと、楊錫蘭がキャプテンを務めた次の年の世界選手権(チェコスロバキア)まで、5冠を達成した。この「5冠」は世界一のセッターだった孫晋芳に育てられた郎平が、世界一のエースとして楊錫蘭を育て上げ、楊錫蘭が世界一のセッターに成長するという一つの「物語」を作り上げたプロセスだといえるだろう。しかし、中国の世界3大大会制覇は、2003年のワールドカップまで実に17年も遠ざかることになってしまう。
中国史上最高の名セッター、孫晋芳

 中国女子バレー史上、最高の名セッターにして名キャプテンだった孫晋芳(9)。郎平・張蓉芳・周暁蘭といった素晴らしい選手をまとめ上げ、多彩な攻撃を演出した立て役者。ちなみに、背番号「1」は郎平、「12」は張蓉芳である。

④父子の思いが夢につながった。アメリカ男子チーム(’84ロサンゼルス五輪&’88ソウル五輪、’85ワールドカップ、’86世界選手権)
 1984年のロサンゼルス五輪で、初めて世界の頂点に立ったアメリカ。しかしこの大会はモスクワ五輪でのアメリカのボイコットを受けて、ソ連が報復ボイコット。そのため、翌年のワールドカップが真の世界№1を決定する舞台になった。この2強は、第2戦に対戦し、フルセットの末、アメリカが勝利をおさめた。結局、全勝でこの大会を終えたアメリカは優勝し、真の世界№1の座にあることを証明するかたちとなった。アメリカのダグラス・ビィル監督は、徹底したデータ重視のバレーを導入し、現代のバレーボールの基礎とも言うべきリードブロックを開発、世界の男子バレーに新たな風を吹き込んだ。その中心になったプレーヤーが、世界男子バレー史上最高のプレーヤーといわれるカーチ・キライだった。彼は動乱に揺れたハンガリーから亡命してきた。父のしていたバレーを極めていく中で、母国・ハンガリーを踏みにじった仇敵・ソ連への思い、そして移民の子としての仕打ちの中で、絶対に負けない強い精神力を身に付けてほしいという父の思いが、バレーをしていく強烈なエネルギーとして昇華していく。そんな彼を取り巻いた、スティーブ・ティモンズ、グレイグ・バック、ビル・ストブルトリックといった素晴らしいプレーヤーたちと力を合わせ、1986年のフランス世界選手権でも、決勝でソ連を下し3冠を達成する。しかし、彼らの真の狙いは、ソウル五輪でソ連を倒しての優勝だった。そして、キライの攻守にわたる活躍で、ソウル五輪も制し、名実ともに一時代を築き上げた。そしてキライは、なんとシドニー五輪でビーチバレーでも金メダルを獲得した。彼が世界男子バレー史上、最高のプレーヤーであることを証明するものだ。

⑤10年間にわたる王座独占!キューバ女子チーム(’91&’95&’99ワールドカップ、’94&’98世界選手権、’92バルセロナ五輪&’96アトランタ五輪&’00シドニー五輪)
 男女を通じての史上最強チームを挙げよ、といわれたら、迷わずこのチームの名前が挙がるだろう。それは、キューバ女子チームだ。1991年から2000年まで、なんと10年間も世界3大大会のタイトルを独占し続けたわけだから、いかにこのチームの強さが図抜けていたかがおわかりだろう。そのチームを率いたのは、エウレニオ・ヘオルヘ監督。彼が育て上げた選手たちは「ヘオルヘ一家」と呼ばれる結束の強さを示していた。その中で中心となったのは、なんといってもこの人、ミレーヤ・ルイスである。彼女こそ、世界女子バレー史上にその名を残す大エースだ。身長こそ175センチしかないが、最高到達点がなんと336センチ!僕も彼女のプレーを生で見たことがあるが、空中で止まって見えるのである。そこから繰り出されるスパイクは、まさに強烈!そのプレースタイルから「鳥人」とうたわれた。おまけに一人娘・イダナイシちゃん出産後、ジャンプ力が伸びたというのだから恐ろしい。しかし彼女一人で世界№1にはなれなかった。キューバが三大大会を総なめしたのは、ルイスを取り巻く選手たちも、すべてが「世界№1」と言っていい選手の集まりだったからだ。ルイスの対角には、抜群の安定感でチームを支えた世界№1のサウスポー、レグラ・ベル。センターには、チームの2本柱と称されたマガリ・カルバハルと、最高到達点346センチを誇り、「20世紀最高の選手」に選ばれたレグラ・トレスがいた。そしてキューバの特徴はもう一つ。それは、エースアタッカー並みの攻撃力のあるセッターを2人そろえるシステムを取っていることだ。そのツーセッターには、マルレニー・コスタ、リリア・イスキェルド、アゲロ・タイマリスが勤めた。この3人も三者三様だった。ベルやルイスに匹敵する攻撃力を持っていたコスタ、落ち着いたプレーでチームに流れを呼び戻す働きをしたイスキェルド、そして破壊力抜群のサーブを持っていたアゲロ。選手一人一人の抜群の運動能力を武器に、前人未到の三大大会8連覇を達成した。しかもキューバの凄いところは、連覇を続けながら新しい選手を育てていったところにある。アトランタ五輪のあと、ルイスに代わってベルがキャプテンになった。カルバハルの引退後は、速攻の得意なアナ・イビス・フェルナンデスを起用し、さらにルイスの後継者として、現在のキャプテンであるユミルカ・ルイザも発掘していく。しかしながら、大事なところではルイスがピシッとチームを締める役割を果たしたからこそ、この大偉業が達成できたのだろう。そんなキューバは、現在世代交代の真っ最中。これだけの身体能力を持つ選手がたくさんいるわけだから、近い将来、必ず世界のトップクラスに返り咲くだろう。

 トレスの勇姿

 キューバ最強時代を支えた名選手、レグラ・トレス。FIVB(世界バレーボール連盟)が選ぶ「20世紀最優秀選手」に選ばれた。


© Rakuten Group, Inc.