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2012年03月19日
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カテゴリ:題目日誌
◆ 2012年(平成24年)3月4日~3月10日まで、勤行・唱題ともに実施しておりません。

3月11日:東日本大震災 2011年(平成23年):小樽問答 昭和30年(1955年)
勤行:※朝夕 SGI式
題目:18分



3月12日
勤行:朝夕 なし
題目:48分

3月13日
勤行:朝 五座 夕 三座
題目:2時間

※ 朝のみ、十如是までの方便品と如来寿量品の読経(自我偈3回)と題目
 また、この日(3月11日)に限って、御観念文の際、主要な御書を拝読しております。
 詳しくは⇒http://plaza.rakuten.co.jp/namassaddharma/diary/201203110000/
----------------------------------------------------------------------

2012年(平成23年)3月4日からの単計.......................................................3時間6分

尚 現在「2011年(平成23年)8月31日からの累計」と「2012年(平成24年)1月1日からの累計」は
集計を行っていない為 表示ができません。集計次第、順次更新をいたします。


【解説】小樽問答
(1)http://www.youtube.com/watch?v=YJc1wMnnv7s
(2)http://www.youtube.com/watch?v=gxFE032l-kI
(3)http://www.youtube.com/watch?v=kyCfmED273s
(4)http://www.youtube.com/watch?v=A5V8lB2QBgk

尚、You tubeの表記では昭和30年(1955年)の3月21日と表記されておりますが
日蓮宗身延派と創価学会が小樽にて法論をしたのは昭和30年(1955年)3月11日の事で
その日に行った事が 創価学会の文献等にも池田氏の日誌でも確認されており
どうやら「法華講の人?」がupしたようですが
日付に関しては「記憶違い」を起こして失念している模様ですが
正宗サイドなり 身延サイドなりで 3月21日だったという証言や証拠があるのでしたら
出来れば示して欲しい処・・・・ですが
今となっては (創価学会にとっても)その方が 都合が良かったりもするのです。
しかし、それをやったら、今まで言ってきた事とも違ってくるので 
創価学会全体に対しても 結果的には ドロを塗る事にもなってしまうので
果たして、真偽論争へと 発展するのか・・・・・

因みに、法論の経緯は
元々 小樽在住の創価学会に所属する信者が 身延系の信者を折伏した事から
身延派の僧侶を巻き込んで騒動になった事が発端なのですが
それ以前に 創価学会自体 宗教法人へ登録したのが昭和26年(1951年)からなので
元々は 宗教法人としては発足しておらず
また 創価教育の構想自体 三谷そけい氏が「牧口氏を折伏する??」以前からあって
昭和5年(1930年)に「創価教育体系」と言う本を出版し
その7年後の昭和12年(1937年)に「会」を立ち上げて組織に携わっていくものの
牧口常三郎氏自身が、昭和3年(1928年)に日蓮正宗の信者になったためか
何時の間にか「法華講の一環」として、運営されていく形を捉られてしまった側面があり
更に 牧口サイドでも 発足当初から
「日蓮正宗の教義性」と「創価教育体系の理念」を切り離して運営していた側面も否めず
日蓮正宗と創価教育学会との間で 認識等に対する隔たりがあり
中には「日蓮正宗の信者でない人」も会員になっていた為か(内村鑑三氏などが典型的な例) 
その事で日蓮正宗側との間に軋轢が生じ 一方 牧口サイドでも
日蓮正宗の教義性に対する不満などから 牧口氏自身が四面楚歌になる問題も発生して
既に 戦前の段階で 日蓮正宗と創価教育学会との間に温度差が生じていて
最終的には 軍部の要請?・・により 日蓮宗(身延派や池上等)との統合に反対した
牧口常三郎・戸田城外(戦後 城聖に改名)の両名が治安維持法によって逮捕された後 
創価教育学会が 空中分解をして 戦前の創価学会にピリオドが打たれ
日蓮正宗は 何故か統合されず「一宗派」としての継続で残り。
また 別件で 内村鑑三氏が治安維持法で逮捕され
そして戸田城聖氏だけが、終戦直前の昭和20年(1945年)の7月に入って
何故か釈放され、そして終戦を迎えるものの 牧口氏が昭和19年(1944年)の11月に
内村氏が 戦後まもない、昭和21年(1946年)に獄死して 戦後を迎えるのですが
(この事が きっかけで GHQが動き出し、政治犯は全員釈放になった)
一方 日蓮正宗、総本山大石寺も 一宗派として維持が出来たものの
治安維持法による弊害や太平洋戦争によって 疲弊しており
どうやら 焼身自殺だった可能性も否めないのですが (出火原因が未だに不明)
昭和20年(1945年)頃 大御本尊が安置されていた 大客殿にて火災が発生し 
62代だった 鈴木日恭法主が焼死したり
(但し、弘安2年に顕された大御本尊は 全焼する前に持ち運び出されて無事だった。)
戦後は 追い討ちをかけるように GHQによる「地租改正」などで
大石寺敷地内の土地も整理されたり 取り上げられたりして、安定した状態が続いておらず
戸田城聖氏が 出獄後 初登山した頃になると 余りにも無残な状態を晒していたので
戸田城聖氏は見るに見かね「創価学会」を復活させる形も兼ね
資金など提供して土地を買い戻したり 寺の整備なども行って
最終的には 自助共助の形をとる事にもなり
また 獄中で読んだ法華経を 戦後になって講義したところ
その教学力が 歴代法主に匹敵するほどのレベルにまで到達していた側面が否めず
(事実、現在でも大石寺には戸田城聖氏の対告が備わった御本尊が常駐しており
 その事で戸田氏自身が「複雑な回答」を示している。)

引き続き、日蓮正宗の信者としても、大きく貢献していく形にもなっていくのですが
しかし、牧口氏の理念を引き継いだ 戸田氏自身は 戦前の苦い経験などから
創価学会を切り離して運営していくのも 危険な要素がはらんでいて 難しい側面があり
また この頃 追い討ちをかけるか・・のように 事業の失敗などから
創価学会の組織自体が分裂しそうになった事もあって 結局・・・
2代会長就任直後の昭和26年(1951年)に 「MBO方式」のように
創価学会を「宗教法人」として登録する形を採って 戦後の創価学会を築くわけですが
但し、MBO方式なので 宗教法人へ登録をする際 創価学会への入会と同時に
「日蓮正宗の信者として取り扱う事」が「条件の一つ」としてあったため
教義内容が「日蓮正宗」に基づく内容であった為
当時、身延側にとってみれば「興門流富士派」の一派にしか映っておらず
かつ「票田の奪い合い」による「出来レース状態」にも陥っていた為
最終的には 日蓮正宗側の僧侶と法論対決を行う事を条件に出していたのですが
これについては 創価学会側が何故か守っておらず
日蓮正宗サイドが まったくタッチしていない法論にもなってしまった為
日蓮正宗から破門された現在、身延サイドでも不満が、かなり屑ぶって決着がついていない。

(厳密に書けば「EBO」にも該当するのですが
 システムも同じ上 当時から組織として成り立っていた側面があるので MBOと言う表現にしました。
【参考】のれん分け⇒http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%82%8C%E3%82%93%E5%88%86%E3%81%91 
 因みにMBO方式をとって 世界最大の気象会社に発展したのが
 千葉幕張にある「ウェザーニューズ」で
 元々はアメリカ資本の気象会社から独立して その後買収すると言う形をとった。)


更に あの当時は「心理学」と言うのが「宗教」全体に頼っていた側面が否めず
また、催眠商法などによる被害等がクローズアップされなかった時代でもあり
あんな「やり口」が まかり通っていた時代で 
今になってみれば 催眠も兼ねたパワーハラスメントや
声闘の要素が否めず「丸め込む」事が目的といわんばかりで
結局、正邪の判定が出来たのは 御本尊の脇に書かれている
「本門之弥四郎国重」の対告衆のみ


ところで、「本門之弥四郎国重」の対告衆についてですが
もし、あの時 身延派の人間が機転を利かして
「その意味は 何を顕した意味なのでしょうか?」・・と切り返されたら、
創価サイドでも 答えられる人達が誰一人としていなかったでしょうね~
そして行き詰まった末
「本山(大石寺)が勝手につけた対告衆だ! 証明にはならない」・・と
身延サイドが言い張っていた・・と思われます。


そこで、コチラから質問を致します。日蓮大聖人は「本門之弥四郎」と書いた際 
誰を思って「本門之弥四郎」と対告したのでしょうか?
また「本門之弥四郎」とは「何を意味している事」なのでしょうか?
裏づけをしたうえで、責任持って、大御本尊の証明をしてください。

但し、あの当時 恐らく、その意味を理解していた人は 堀上人と戸田城聖氏の二人だけなので
小樽問答の際 戸田氏が居た事から
「その件」での討論の際は 戸田氏自身が回答した可能性がありました

しかし 戸田氏の質問集によれば、同様の質問があっても
戸田氏自身が「その件」に関しては まったく回答しておらず 
それどころか「話すな」とも言われてしまい、その後 創価学会でも研究していないため
「本門之弥四郎国重」の真実の意を存じて居ない方が圧倒的で
しかも 当時 携わった人間が その後、脱会したり、おかしくなったり
また「ウェザーニュース社」とは違い 本家から破門された事など考えると
再び法論を起こして 同じ論法でやっても「本門之弥四郎国重」の処で行き詰まり
「正邪」の判定は 何一つとして証明しきれていないまま
結局は昔の杵柄に酔いしれて「思考停止」になったり
権威性ばかりが強調することにもなって また ふりだしに戻る。
そういえば、富士宮ボーイに参加している方々が大好きな 島田教授も
こと 小樽法論に対しては「裁判のやり直し」を述べておりましたっけ・・・
 
因みに「本門之弥四郎」は「熱原の三烈士」でもなければ「光日房の子供でもない」と 
質問会集では、はっきりと述べられております。


また 創価学会の理念に関しても 
実は「創価教育体系」と言う本自体が 事実上 未完成のままで終っており 
何処までが「今の形」とコミットしていたのか?
今の「創価学会の会員の振る舞い」や
創価学会から日蓮正宗へと・・・とらば~ゆした「法華講員」の現状
を鑑みても
行き着く先は「出来レース先行型」で 
結局、教える手段が「儒教やキリスト的な要素」がつよく、かつ教条的で
その派生から 道教にも似た「迷信じみた解釈」をしている人が多く 非常に懐疑的です。



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Last updated  2012年04月01日 09時32分29秒
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