折伏教典:(立正佼成会破釈編)
立正佼成会の本尊は、設立当時からクルクル変わってきた。「本尊に迷えば色心に迷う」・・との御金言のとおり迷って迷って迷いぬいて、衆生を迷わせてきた・・・と、いうべきである。昭和13年(1938年)の教団設立当時は毘沙門天を本尊としていた。「外道本尊時代」・・と言うべきある。昭和17年(1942年)に中野の現在地に移転した際に毘沙門天を本尊を「大日如来」に摩り替えた。副会長の妙佼に「神示があったから」 ・・・だと言う真言同様だから「亡国本尊時代」・・・とでも言うべきか・・・・・この頃には、「南無妙法蓮華経 異体同心天壌無窮 日敬」・・・と書いていたものを御本尊として使用していたがこれは戦時下情勢におもねたものらしく、敗戦で「天壌無窮」が都合が悪くなるや何時の間にか支部旗に格下げしてしまった。もともと、三大秘法は、仏法の三学、戒・定・学の本体である。くるくる変わったり、支部旗に格下げとなる「定」が仏法にあるものか。初学の者さえこれを知るはずである。庭野日敬をはじめ、佼成会の幹部は仏法の初学にも達しない外道の者であることが これでもわかるだろう。さて、終戦になると、大日のおかしい事に気付いた・・・と見え大日を廃して釈迦と取り替えた。この時も、例の妙佼の神がかりによる指示だった事を告白している。ところが!またまた本尊の摩り替えが行われ「偶像主義による呪術的宗教を排して 特定の本尊や偶像によるべきではなく 曼荼羅中心主義によるもので・・・」と説明を加えたがなんと昭和33年(1958年)に入るとその曼荼羅を引っ込めて、再び「釈迦像」に戻ることになった。それが最初に述べた「一尊四士造立本尊」・・と言う代物である。今度は「絶対だから変えぬ!」・・といっているものまた、いつ なんどき 変わるか?わかったものではない。-折伏教典(監修:池田大作 昭和43年発行 第26版) P.165~166より-法華講の樋田氏が指摘した「浄園寺の改竄」の事や富士宮在住の波木井氏が「創価学会の立正佼成会化」と揶揄した背景にはこの「折伏教典」の存在があり、その中でも、この本では、立正佼成会の本尊に対する変遷ぶりを指摘し批判したのですがしかし、実際には、創価学会も「定」こそは、変えなかったものの色心の部分や、学の部分で、「立正佼成会と同じ過ち」を犯し・・否、昨日の記事(2010.07.07付の記事)でも述べましたが有師化義を悪用し「法の網を掻い潜りぬけるような、脱法に近い事」を、行ってしまったが故に「立正佼成会以上に悪質な形」にもなっていた!の・・があの1994年から、創価学会の信者に対し下付し始めた対告衆を削り、一部を加工した、「浄園寺所蔵」の日寛上人書写の曼荼羅なんです。 その結果、立正佼成会側からも、足元をみられて「庭野日敬師の御本尊は正しかった」 ・・となってしまい立正佼成会の破釈もダブルスタンダードで破綻してしまい大混乱にも陥ってしまう訳です。ここが大きな問題なんです。本当に、仏法の眼で見つめた眼で見つめたならばまだ、立正佼成会の本尊は、かわいいもので彼等は「解而不信で本尊を変えたレベル」だし、自力の部分があるのですがあなた達の場合、本尊の意味も知った上、戒まで受けているのにも関わらず色心や学も説明できずに、浄園寺任せにしたりして、衆生を迷わせ「信而不解のまま本尊を変えた」・・と言う形にもなってしまうので従って、御本尊に書かれている意味や特性・配列等・差別・価値等も含め納得が出来るように「合理的な説明」を施して、修復までしない限り「悪魔の証明」と同じ効果・・しかなくなるので、隙を突かれてしまう要素も非常に強く従って、結局は、撰時抄にも説かれていた「真言に犯された、伝行の弟子」と同じ対価価値しか決められなってしまい結果的に「大謗法」・・・となる訳です。【参考資料】歴史の書き換えhttp://wwwsoc.nii.ac.jp/gsle/81kumagai/kuma10rekisinokakikae.html果たして、立正佼成会の本尊観と創価学会の本尊観・・とを比べた場合どこが違い、どちらが悪質だったか?1994年の振る舞いの正当性を含めて、きちんとした証明が出来ますか?形の説明だけでは納得が出来ませんよね~ 何故なら、同じ形の御本尊が昨日まではお友達だった大石寺にもあるわけですから・・・水掛け論で終るのがヲチです。下手したら、戸田先生にすら唾を履きかねない悪質な行為にもなりとんでもない詐偽にもなってしまう。その結果がコレなんですよ http://shunpo.ld.infoseek.co.jp/kaidan.htmいくら、脱会者の戯言、脱会者の自己責任だけで片付けようとしてもその脱会の理由だって、元を辿れば、彼等の手抜きによる折伏や打算による折伏、強引な折伏が招いた結果が、この結果なのですが折伏した本人の無責任性は、何処まで、正当化できるのでしょうか?因みに撰時抄の冒頭の御文は、コノ場合関係ありません。もし、その文証で自己正当化するものならば日興遺誡の「自余交じえて御書」と言う文証を開いて言い返します言い訳にも程があり、保身ばかりの無責任な折伏を行っていた・・と自白しているようなものです。因みに、オイラが表現している「強引な折伏」・・・と言うのは己のエゴによる、成果目的の丸め込みや、声闘にも等しい「言葉の暴力」による折伏でいわば無責任な折伏を指して、ソレを申し上げているのであって特に「接受」を奨めているつもりは御座いません。仮に、接受を主体にして勧誘し、本尊流布を果たしたとしても己のエゴによる、成果目的なので自己本位なので、ごく稀なケースを除き、そんな人間ほど不信を抱く人が多くなったり悪用する人間が多くなっていくので、結果的には同じなんです。カァ~ン・カンカンカンカンカンカン☆\(・∀・)南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経