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明治の町家   姫路の春霜堂  

明治の町家   姫路の春霜堂  

西園寺公望 首相 元老 1849-1940 5050ht

1849~1940(嘉永2~昭和15)明治から昭和にいたるまで活躍した政治家。公卿の名門の出身で,内閣総理大臣もつとめた。近衛・九条・二条・一条・鷹司(たかつかさ)家などの五摂家(せっけ)に次ぐ、大臣家の上に位し、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる家柄であった久我(こが)・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門(おおいみかど)・今出川(菊亭)の七家にのちに、広幡・醍醐を加えた九清華家(せいがけ)のひとつであった京都の公家(くげ=朝廷に仕える身分の高い者)、徳大寺公純(とくだいじきんずみ)の次男として出生、幼名を美丸(よしまる)といい、3歳の時公望を称し、明治天皇の遊び相手として、幼年時代を送った。

その後、西園寺師季(もろすえ)の養子となり,跡を継いだ。学問・武芸ともに優れ,西洋への関心が深かった。王政復古の新体制のもと,参与に任ぜられた。討幕軍の山陰道総督・大参謀などをへて,越後府知事に任ぜられた。

その後,1870年(明治3)に法学を学ぶ目的でフランスに留学。帰国後は明治法律学校(のちの明治大学)の教師や「東洋自由新聞」の社長となった。まもなく政府に入り,伊藤博文に従ってヨーロッパに行き,伊藤の後継者としての地位を確立した。以後,ドイツ・オーストリアの公使,文部・外務・大蔵の各大臣を歴任し,賞勲局総裁・貴族院副議長・枢密顧問官などをつとめる。

立憲政友会の総裁となり,1906年以後,数回にわたって内閣を組織,鉄道の国有化・満州問題の処理などに実績をあげたが,2個師団の増設をはかる陸軍と対立し,内閣は倒れた。大正天皇から元老に推薦されたのちは,原敬「平民」内閣を推薦するなど,政界に隠然たる勢力を占めた。「最後の元老」として軍部の政治的進出を押さえようとしたが,果たせないまま没した。明治法律学校(現、明治大学)、京都法政学校(現、立命館大学)の創設に参画したことでも知られている。号は陶庵(とうあん)。





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