明治の町家   姫路の春霜堂  

2006/09/05(火)10:49

国家を背負い駆け抜けていった人

昭和の残像(42)

円谷 幸吉 昭和15年生まれ、福島県岩瀬郡須賀川町出身。 高校卒業後、1959年陸上自衛隊へ入隊。その後、同僚と二人で郡山自衛隊陸上部を立ち上げ、陸上競技の実績が認められるが、一方で、その頃からオーバーワークからの腰痛に悩む。 体育学校入学当初も腰痛が治らず、満足に走れなかった。しかし、オリンピックイヤー前後から好成績をおさめ、結果的にオリンピックに出場。10000mで6位入賞する。 また、あまり注目されなかったマラソンでも、国立競技場に2位で戻ってくる。だが、後ろに迫っていたイギリスのヒートリーに最後の最後、トラックで追い抜かれる。これは、「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直にまで守り通したがゆえとされている。ともかく、この唯一の銅メダルで「日本陸上界を救った」とまでいわれる。 その後、メキシコを目指す円谷に様々な不運が襲う。自衛隊体育学校の校長が替わり、方針変更が変更され、ほぼ決まりかけていた円谷の婚約は、「次のオリンピックの為」と認められず、結果的に破談となってしまう。直後に、体育学校入学以来の恩師の突然転勤で、円谷は完全に孤立無援の立場に追い込まれてしまう。それは、オリンピックの敗北の後、結婚して復活した君原健二とはあまりにも対照的であった。 さらにその後、オーバーワークから腰痛が再発、病状は悪化して椎間板ヘルニアを発症。1967年に手術を受けるが、かつてのような走りをできない状態であった。 周囲からの重圧と走れない焦りから、1968年1月9日にカミソリで左頚動脈を切って自殺。 「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました...」で始まる遺書は当時、大きな衝撃を与えた。川端康成は『円谷幸吉選手の遺書』の中で「繰り返される《おいしゅうございました》 といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律 をなしてゐる。美しくて、まことで、悲しいひびきだ」と語り「千万言も尽くせぬ哀切」と評した。 三島由紀夫は『円谷二尉の自刃』で、「傷つきやすい、雄雄しい、美しい自尊心による自殺‥‥この崇高な死をノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思い上がりの醜さは許しがたい」と語った。 円谷選手の遺書 円谷選手を偲ぶ曲として あの時代において、国家と周囲の重圧を背負い、我々の前を走り抜けていった人でもあった。 その哀切に満ちた表情と朴訥な生真面目さゆえに、いつまでも我々の心に残る。

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る