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昔、松竹大船撮影所に名物助監督がいた。その名を佐光曠(さこうひろし)という。
昨日は、その23回忌。親友二人と後輩二人の4人が、中華料理店に集まって、ささやかな宴を催した。だが、そこは大船ではなく、東映大泉撮影所のそばのお店なのである。 佐光さんは、1988年12月24日の朝、突然逝った。 あれからもう23年になるのか…。 佐光さんがどういう人か一言で言うのは難しい。昔風のサムライといいたいが、決して豪快という風ではなく、太目の体型に似合わず小心で繊細だった。 だが、監督やプロデューサーにはずけずけと意見を言う人だった。 若い頃は特にそうだった。 ダビングのとき、監督がOKというのに、その後ろに控えている佐光さんがもう一回と叫んでやり直しをさせたとか、監督のやり方が気に入らないと、「フンッ」と鼻を鳴らして皮肉な笑いを飛ばしたとか、その逸話は他社にまで鳴り響いていた。 だが、佐光さん楯突くのは、権威に対してであって、後輩には実に面倒見がよかった。といっても、お互い貧乏な身だからおごってくれたわけではない。いつも割りかんであった。 佐光さんが、一番よく仕事をしたのは先輩の山根成之監督のチーフ助監督だったが、もっとも敬愛して尽くしたのは深作欣二監督だったと思う。 深作さんが松竹で仕事をすると聞いて、それなら佐光がいいと強力に推薦したのが東映大泉撮影所のKNさんである。 佐光さんは、松竹よりも、他社の骨のある人たの付き合いの方が深かった。 だから、クリスマスになると、もう一人、東宝のNHさんと共に大泉に集まるのだ。 いつもは家が近いぼくをいれての3人なのだが、今年は大船の同期のNHも加わった。 実は彼の方が、佐光さんとの付き合いは深い。 佐光さんの風貌を伝えたいのだが、残念ながらいい写真がないので、「きつね」の集合写真で我慢をしてもらおう。 (「きつね」は、佐光さんが唯一後輩の作品のチーフ助監督をやったもので、そして、最後のチーフ助監督作品である) 真ん中の白い帽子の後ろの黒めがねの男が佐光さんである。(ちなみに向かって左隣は、岡林信康) 飛行機が大嫌いだったのに、北海道出身だった佐光さんは、最後の作品だと覚悟して付き合ってくれたのだった。 チーフは、「きつね」が最後だったが、助監督としては、「上海バンスキング」(監督・深作欣二)が最後だった。 23年前、山根成之が葬儀委員長で、ぼくとNHがその下で働いたのだが、一介の助監督の葬儀になんと300人もが参列した。もちろん、松竹や各撮影所はもちろん、映画界を越えて多くの友人知人が集まったのだった。 佐光さんの話は、23年たっても、いつまでも尽きなかった…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
この記事を見ておもわず投稿しました。僕は依然松竹で助監督をしていまして、ずいぶん佐光さんにお世話になりました。できれば佐光さんのお墓参りをしたいと思っています。お墓の場所ご存じならばぜひ教えていただきたいのですが、よろしくお願いいたします。
(2018.04.11 18:01:14)
清水哲男にー佐光曠にーという献辞のある素晴らしい詩がありますが、同一人物?
(2018.05.19 13:40:05)
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