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桜井秀雄さんが、6月5日、肺炎で亡くなられた。
撮影所に入った年に助監督としてついたことがある。それ以来親しくしていただいた。そのせいで監督協会の会報に追悼文を書いた。その引用を。(まだ発行日前だが、著者ということでお許しあれ)。 1965年、助監督になって2本目についたのが、桜井監督だった。 作品は、「馬鹿っちょ出船」。 ♪ 赤いランプを ともした船が~ で始まる都はるみの歌が主題の、いわゆる歌謡映画である。 桜井さんはその年、ヒット曲「アンコ椿は恋の花」を撮ったのに続いて2本目の歌謡映画。まだ30代半ばの新進監督だった。 映画作りのことは何も知らずに撮影所に入ったぼくにとって、初めての長期ロケは、あの「二十四の瞳」の憧れの地・小豆島であった。 主演は竹脇無我と香山美子。二人は幼なじみの恋仲だったが、貧しい彼女は網元のボンボンに無理やり嫁がされることになる。そこで、無我は結婚式の前日、花嫁を奪って逃げる、というお話である。(名画「卒業」のパクリと思われるかも知れないが、それより3年前の作品である) ものすごく長い移動シーンがあった。 都はるみが二人を追って走るシーンだ。ありったけの移動レールが敷かれた。師の木下恵介監督譲りの大移動ショットである(と、後で知った)。 ぼくは、カメラから遠く離れたスタート地点の石垣に隠れて、合図を待っていた。 もちろんはるみと一緒だ。 彼女はまだ17歳。そこには付人も来ていない。二人きりだ。 なかなか合図は来ない。彼女は心配そうにぼくを見る。 ぼくにしたって助監督になったばかりなので撮影の段取りのことなどよくわかっていない。なぜ、なかなかスタートの合図が来ないのか、なんでこんなに待たされているのか。 もちろんアイドルの扱い方なんか知らないし、二人ともほとんど口を利くこともなく、ただただ黙って合図を待っていた。 (ケータイはおろか、トランシーバーすらなかった) でもその次の日、「お兄ちゃん」といって、はるみが話しかけてくれたのがうれしかった。 助監督の部屋が毎晩の酒盛りの場所となっていた。将軍という仇名のチーフのAさんが音頭をとり、監督の桜井さんはじめ、キャメラマンの荒野諒一さん、照明の飯島博さん等々スタッフが集まって、夜中まで酒盛りが続いた。飲めないぼくは、ビール1杯でダウン。宴が盛り上がる中、ガマンしきれずに部屋の隅でうとうとと船をこいでいた。寝不足が続いて翌日のロケバスの中で眼を開けているのが辛かった。 そんなことが続いたある夜、コックリコックリやっていると、桜井さんがスッと寄ってきて「ぼくの部屋で休んでいいよ」と言われた。ぼくはこれ幸いと、A将軍の目を盗んで抜け出した。監督の部屋は廊下の一番奥にあった。おそるおそる障子をあけると、真ん中にフワフワの布団が敷いてある。うれしくなって遠慮なく布団にもぐりこんだ。 それは、果たしてその夜だけのことだったのか、毎晩のことだったのか、その後の記憶がない…。もし毎晩だったら、お酒が入ると人が変わったようになるA将軍に厳しくやられたであろうに、何かを言われた覚えもない。きっと、その夜だけだったのだろう。 桜井組のスタッフはみな優しかった。カチンコを持ってどこで打とうかと、林立するライトの脚やケーブルを避けてうろうろしていると、照明チーフのFさんが手招きして「ここで打ちな」と場所を開けてくれた。おかげでライトを倒すこともなかった。新米なのに怒鳴られたこともいじめられたことも記憶にない。桜井さんの優しさがスタッフにもちゃんと伝わっていたのだろう。 そのころは、宿泊ロケだと、ロケ手当てなるものが出た。だから10日もロケに行くとかなりの額になる。月給2万円の新米助監督にはありがたかった。 だがそれがいけなかった。 帰りのフェリーの中で、小道具のS君(ちょっと年下だった)にドボンなるものに誘われて、全部まき上げられてしまった。はじめのうちは2倍にも3倍にもなっていたのだが、夜が更けるにつれてどんどん減って行き、港に着いたころにはスッカラカンになっていた。もちろん後悔先に立たず。こういう苦い思いも初体験だった。 なんやかやで、憧れの小豆島ロケから始まった桜井組の思い出は、いつまでも鮮明だ。 こんなことが最初にあったから、映画つくりの世界から離れられなくなったのだと思う。 桜井さんの思い出は、助監督になりたてのころの、ちょっと甘酸っぱい記憶とともにある…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
はじめまして。
桜井監督の最後の教え子です。 (先生には最後の弟子だねといわれてました笑) 先生がいなくなってぽかんと穴が開いたようです。 色々なことを思いました。 先生はあの性格ですから往年少々寂しさも感じていたようです。 しかしこのブログを拝見し、いい時代の、いい思い出を思い出していただける方が一杯いるのだと そして、 先生のあの優しさは昔からだったのだとしって 非常にうれしくなりました。 私自身は役者として接し、現在舞台監督をしておりますが先生の思いがいろいろな所で生きてゆくのだと 強く思いました。 よく、撮影の話をしてくれましたがその通りだなと・・ 監督協会のこの追悼文は私は読めないので、非常にありがたかったです。 ありがとうございました。 石田昌子 (2011.08.17 08:14:54)
石田さん,
ご連絡、ありがとうございます。 石田さんが最後の弟子とすると、さしずめぼくは最初の弟子かも知れませんね。 助監督になりたての頃でしたから、本当に忘れられない思い出です。 最後は京都に行かれたので、お会いできませんでした。 石田さんの舞台、機会があったら見せてください。 (2011.08.18 00:52:21)
ご丁寧にありがとうございます。
私自身は今、歌ものが多く、大きいものだとサマソニックや、エイベックスartistのツアーの舞台監督チームとして動いてます。 ただ来年あたりから少しずつ、お芝居のほうも増える予定です。 飯塚舞台事務所というところに席をおいております。 お時間などありましたらお話など聞かせてください。 (ishida@iistage.com) 無我さんもお亡くなりになり本当にいい時代の人たちがいなくなり 寂しい限りです。 こういう仕事ですから悲しんでばかりいられませんが 先生の言葉が今更に色々思い出されてなりません。 最後の弟子として名に恥じないよう精進してゆきたいと思います。 (2011.08.28 00:01:47)
なななかばさん、石田さん
櫻井秀雄の息子です。はじめまして。 このようにプログに父の思い出を綴って頂いていたとは気が付きませんでした。 父は、昨年6月5日に逝きましたが、その年の初盆に帰って来て、竹脇無我さんと私の母、つまり女房を連れていきました。母は9月6日でした。 今は、父母ふたりそろって、京都府宇治市にある京都天が瀬メモリアル公園というところに仲良く眠っております。樹木葬というかたちで、桜の樹の下でのんびりやっている事と思います。 突然割り込みまして済みませんでした。生前のご厚誼、厚く御礼申し上げます。 (2012.10.14 23:36:01)
櫻井篤史さん
しばらくブログを休んでいたので、貴兄のコメントを知りませんでした。きょう、偶然にブログをあけて、知りました。こういうことがあると、またブログを再会してもいいなと思いました。 ぼくは映画界のことを何も知らずに撮影所に入ったので、あのころのことは忘れられません。桜井さんの助監督だったことは、と手の懐かしい時代です。もう、40年以上も前のことですが、撮影所があったというのはとてもいい時代でした。 改めて、監督のご冥福をお祈りします。 (2012.10.26 19:17:00)
桜井さんは、私が京都市内の病院で働いていた頃の担当患者さんでした。入院中なのにも関わらず、ジーンズを日中は履いてらしてかっこよかったです。息子さんのコメントによると、奥さまも亡くなられたようですね。奥さまとの思い出話も話してくれていました。今頃は2人仲良くやっているでしょうか。ご冥福をお祈りします。
(2013.08.02 05:21:34)
櫻井篤史さん
仁科です。 今は本名の石田で活動しています。 先生にはよくしていただいたのに 私自身が闘病していた期間もあり 最後お見舞いに行けなかったのが 悔やまれて仕方ありません。 お墓参りには行かせていただきたいと思います。 石田 (2017.02.16 03:29:05) |