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BJおばさん・ななんの雑記

BJおばさん・ななんの雑記

ボールパークへ行くこと≠野球を見ること?

去年あたりから日本で野球を観戦することが苦痛になり始めている。
外野席では立たないと許されないような雰囲気がある。
立ちたければ立てばいい、というのは一見個人の自由を尊重しているように見えるが、じゃあ座りたい人の立場はどうなるのか。
周囲が総立ちになってしまったら、野球を見ることができなくなってしまう。

ボールパークは野球を見に行く場所だと思っていた。
でも、実は日本のボールパークで、野球を真剣に見ることを第一の目的に考えて来ている人は案外少数派なのではないかと思えてきた。
だいたいにおいて、メガホンをがんがん打ち鳴らし、大声で始終歌い踊りながら、プレイの細部まできちんと見ている人がどれだけいるのだろうか。

選手と一体になっているような感覚を楽しむならそれはそれでいいが、実際はただのストレス解消で球場へやって来る人も少なくないのではないだろうか。
そうでなければ、あの敗戦後のメガホンの投げ込み行為の理由の説明がつかない。野球と選手とボールパークを真摯に愛していたら、絶対にできないはずの行為だからだ。

(目に見える形での)応援と観戦を完全に両立させている人がいたら、それはそれで尊敬する。
しかし、メガホンを叩かず、座ってじっくり野球を見ている人間のことだって尊重してほしい。
「ほら、立ち上がって!もっと盛り上がろうよ!」彼らは言う。
しかし、何故立ち上がってメガホンを叩き、ヒッティング・マーチを歌わなければ盛り上がっていることにならないのか?わたしにはわからない。
ここは野球を見る場所であって、コンサート会場ではない。
わたしは心の中で十分ドキドキわくわく盛り上がっているし、声には出さないが、必死に心の中で応援している。
むしろ、メガホンを叩いたり、歌ったりすると、応援にも観戦にも集中できなくなってしまうのだ。

そこに自由はないのか。

わたしは野球の細かいひとつひとつのプレイを堪能するために球場へ足を運ぶ。
だから座ってじっくり見たい。
外野に拘るのは、なるべく正面に近い位置、投手の球筋がはっきり見える位置から見たいから。そして、外野守備を見るのが好きなので、外野手のポジショニングを見たいから、である。

以前はそうでもなかったパ・リーグの外野席でも、最近わたしのような少数派は肩身が狭くなりつつあるようだ。
ボールパークって野球を見るのが目的で来る場所じゃないの?立って騒ぐことがそんなに大事なの?

そういう理不尽な思いに駆られた時、わたしは目を閉じて現実逃避をする。
わたしは今パックベルにいる。空は青く、頬に当たる風は心地よく、目の前には美しい緑色の天然芝が広がっている。
立ちっぱなしで応援している人など一人もいない。
皆じっと野球に集中し、ヒットを打った瞬間だけ、立ち上がり、歓声を上げ、ハイタッチをする。そしてプレイが再開されれば自然にまた座る。その繰り返しだ。
でも決して盛り上がっていないわけではない。むしろその逆だ。
みんな座ってプレイに集中しているので、そのムードが熱気となってボールパークを覆っている。

いつまでも立っている人がいると周囲から軽いブーイングを浴びる。試合が見えないからだ。
興奮し過ぎてプレイが再開しても座らない子供がいたとき、父親は優しくたしなめて席に座らせていた。
彼らにとって大切なのは野球を見ることなのだ。それはとてもシンプルなことだと思う。

ヒッティング・マーチなんかないので、みんな思い思いに選手に声援(野次)を送る。
メガホンなんかないので、いろいろな音が聞こえる。球音が聞こえるのはもちろん。
そして、センターに難しい飛球が上がったときに、隣の隣くらいにいた小さな男の子の、「Shinjo...」という、祈りをこめた小さなつぶやきも、息を呑む音さえもわたしの耳に届いた。
他にもあちこちで「Shinjo!」という声が上がる。
でもそれは、日本の球場で響き渡る「新庄!」という絶叫とはまったく響きが異なる。もっと優しく、選手を見守る声。。。
だって、彼らは新庄が捕球するという結果だけを求めているわけではないから。
新庄がボールを追って走る姿、ジャンプする姿、そしてグラブにボールが吸い込まれる瞬間。そのすべてを楽しんでいるから。

いろいろなものを捨てて、シンプルに野球を見れば、もっと素敵なものが見えるのに。
何故、野球を見る、それだけじゃいけないのだろう。
何故、好きな場所で好きなように見る自由が阻まれるのだろう。
一度でもあの夢のような本物のボールパークを体験してしまったが故に納得できない。

新庄が引退したら、わたしはもう日本の球場へ足を運ぶのをやめるかもしれない。
野球を見ることに集中できない、自由に野球を楽しめない、そんな場所をボールパークとは認めたくないからだ。
民主主義の国家では結局のところ少数派は息を潜めて生きるしかない。
しかし、せめて自由でいる権利くらい尊重してほしい。

球音、屋根なし球場、天然芝…ベースボールを楽しむためのさまざまなものが日本のベースボールからもう既に失われ、あるいは失われようとしている。
せめて、メガホンを持たない、耳栓をはめた人間が一人、外野の一角で座って観戦することくらい許してほしい。前を立ち塞がないでほしい。
それはそんなにワガママな希望なのだろうか。
(2004年7月7日)


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