2015/07/20(月)00:30
どこからが「かわいそう」どこまでが「かわいそう」?
少し嫌な話をします。
先日、祖母の家の整理をすることになりました。
そこで、祖母が言った言葉。
「剥製を捨てるのが可哀想」
母は、「剥製はもう死んでるんだからその時点で可哀想でしょ」と言いました。
出る杭も出ない杭も既に死んでいるとの言葉通り、結局ものを長持ちさせるのって、使う側のエゴか新たな犠牲を出さないくらいの意味しかないのかも、とちょっと思ったり。
物心物神、付喪神という考え方もありますが、例えばしゃもじについて考えるとすれば
それってどこから、道具としての魂になったの?どこまでが木としての魂だったの?
となるわけで。
それ以前にその剥製が、剥製にするため殺したのでなく、死んだ後に剥製になったとしたら、
「可哀想」なのはその剥製と言うよりは、死体を食べる虫やら他の獣やらなわけで。
釣り上げた魚を、口の中に傷をつけたまま川に戻すキャッチ&リリースの惨さとも繋がる、
人間だけの「可哀想」人間のためだけの「可哀想」ってあるなあと思いました。