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カテゴリ:種差別・アニマルライツについて
「植物だって生きています。命があります。
それを食べると言うことは命を殺しているのです」 と。 「肉だって動物の命を殺している。同じだ。だから 肉を食べてもいいのだ」 という論法ですね? そうでしょうか? 植物と動物の肉とは別に考えてみませんか? お肉も牛や豚や鶏やその他の動物の命を頂いている。 植物だって命があるからその命を頂いている。 と、みなさんおっしゃいます。私は、 「命を頂いている」という表現には 違和感を覚えるようになりました。 なぜかと言いますと、 お肉を食べます。 でもそれは肉であり、 命ではありません。 肉という単なる物質です。 キャベツや大根を食べます。 命ではありません。 単なる物質です。 わかります。 命を殺してその肉体、植物体を食べている、 ということの表現であることは。 しかし、実際に食べているのは物質です。 命(=霊的観念)は、霊界に召されます。 だから違和感があるのかもしれません。 こんな話をすると、スピリチュアル、 とか宗教的とか、いろいろ 言われちゃいそうですが・・・・。 何が言いたいか、というと、 「命」という言葉を抜きにして 「植物と肉」の違いを考えたいのです。 まず、植物を食べることと肉を食べることは、 別物だということです。 盲点になっていることは、皆さんがそれらの食材を スーパーや八百屋や精肉店から購入してくるからです。 つまり、生産過程の作業を知らない、ということです。 しかし、植物はなんとなく分かっていることでしょう。 「食育」で今では小学生に農家へ行かせて田植え体験とか、 その他、収穫体験などをさせています。 これはこれで大切なことですね? しかしながら、農薬散布体験はさせていないでしょうね? そりゃあ、危険だから、ということもあるでしょうが、 遠くから見学させてもいいのではないでしょうか? では、卵はどうでしょう? バタリーケージの採卵場を見学させているでしょうか? ブロイラー(肉用鶏)の飼育はどうでしょう? 過密飼いの鶏を見学させているでしょうか? では、牛乳はどうでしょうか? 牧場の手絞りの搾乳体験なんてのはダメです。 工場酪農の搾乳を見学させているでしょうか? では、屠殺場の見学はどうでしょうか? 序章が長くなってしまいました。これからが本題です。 【野菜と動物の肉が同じレベルと考えることには無理があります】 あなたは、今抜いてきた大根(=生きている)を 包丁で半分にチョン切るのと同じ気持ちで、 生きている鶏の首を包丁で半分にチョン切れますか? 多分気持ちは違うでしょう。なぜでしょうか? (もちろん慣れた人ならどうということはないでしょうが) 私は数年前に、映画館で、『いのちの食べかた』を見ました。 野菜類も肉類も同じレベルで撮影していました。 しかしながら、見る目はやっぱり肉類の映像に釘付けになりました。 野菜に関しては、 うわあ、こんなに農薬散布するのか~、と思いました。 でも、収穫されるとき、野菜は何も言いません。 畜産動物は動き回って声を発します。 植物と動物を同じレベルでは見られませんでした。 頭を下にして吊された豚の腹を機械の包丁が下から上へ切り裂く。 内臓がブワッと半分飛び出す。 牛の皮を剥いでいる時、その牛の前足がビクン!と動きました。 野菜はそんなことはありませんでした。 それに、なにより、 植物は自分を食べて貰いたがっているのではないでしょうか? 【参考】
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